2004年08月26日
悲しいラサ

ラサは悲しい街だった。歴史上、チベット仏教の中心地そして聖地のひとつでもあるという事実は私たちの落ち込んだムードに何ら変化を及ぼすものではなかった。活気溢れる街ではある。チベットで最も聖なる寺院とされ、市内でも最大の大昭寺。その金色に輝く屋根を中心として、バルコール・コーラと呼ばれる巡礼の回路に沿った市場や商店街はチベット風の品々が売られ、常に賑わっている。

その直ぐ近くを走る主要路のひとつ、北京東路はラサの街を東西に貫く。路上には常にヤクのバター、羊の肉と内蔵、そして香の臭いが漂い、僧たちや物乞いが歩道脇に座り、路面にはゴミが散らばり立小便の跡が悪臭を放っている。ウランバートルの住宅街との共通点が多いのだ。しかしこれらの要素は、モンゴル人やチベット人など基本的に放牧民である人々が基本的に馴染めない定住地としての都市を形成する際に生まれる環境なのかも知れない。。
むしろ、私たちにとってこの街の印象を決定的なものとしたのはポタラ宮殿に向かい合う不必要に巨大な碑石にある文字だった。言うまでもなく中国中央政府によって建てられた真っ白な岩石のモニュメントにはこう書かれていた。「西蔵和平解放記念碑」。つまり、中国の人民解放軍によってチベットは悪しきダライ・ラマと彼を支える封建主義体制から解放され平和がもたらされたというわけだ。その前で軍服を着た中国軍兵士たちが記念写真を撮っているさまは正に「支配者」で象徴的だった。ポタラ宮殿を見上げる歩道正面の壁にはトウ小平前主席の生誕百年記念を祝うメッセージが掲げられ、その一つは「チベットの人民と共に祝い繁栄する」という内容だった。
1950年、中国赤軍がチベットを侵略し、ダライ・ラマ14世を始めとする10万人ものチベット人がインドへ亡命し、残ったチベット人のうち120万人が虐殺される前、ポタラ宮殿は数千の僧たちが住み、社会的、政治的な中心構造として活気溢れる「都市」だった。私たちが見たポタラは、数十人の僧または中国人が管理役を務める、ただの「中国政府戦利品博物館」に過ぎない。中国語、英語、日本語の他、主要言語で解説が聞ける音声ガイドの内容も、中国の歴史を誇るプロパガンダである(と、ヨーロッパ人のトラベラーから聞いたので私たちは使わなかった)。この壮大な建築物には生活の声も臭いもなく、私はポタラ宮殿は死んだと再確認せざるを得なかった。事実、歩道からは壁に遮られて見えないが、宮殿の屋上からはかつて僧たちや人々が住んだ家屋が廃墟となっているのが見える。これらも2008年オリンピックまでには新築の建物に変わっていく。
チベットとチベット仏教は今やグローバルな観光市場において名だたるブランドである。ご存じのように、チベット仏教、ダライ・ラマ14世、そしてチベットの風土に魅了される欧米人や日本人は多く、ラサ市内に滞在している外人訪問者の数もこのトレンドを反映していた。それに加えて高慢な支配者階級の中国人団体旅行者やアウトドア系の中国人学生が街を闊歩して、想像していた以上の賑わいを見せている。これら旅行者たちがチベットを訪れることで現地の人々の懐は潤うはずなのだが、そんな様子はあまり見られない。このようなラサの様子を見て思い浮かべたことがある。チベット人がたどった運命は、アメリカン・インディアンや日本のアイヌ人のそれと同じではないか。

このような環境の中でも変わらないのは仏教、ダライ・ラマ、そして神聖な山々と湖に対するチベット人の信仰の厚さだ。私はチベット仏教について詳しくは知らない。が、信仰だけは彼らの中で唯一の光として不変であると信じたい。
Posted by taro at 2004年08月26日 22:00
taroさん、お久しぶりです。
つい先日学生時代にチベットの旅を共にした
友人たちに逢ってきました。
私たちがラサを訪れたのは1997年のこと、
もう7年も前になります。
ポタラ宮をこの目で見たくて訪れたチベットですが
友人との旅でも、その後ひとりで時間をかけて廻った時も
中には入りませんでした。
また来るからいいかなと、外から眺めて前を通るだけでした。
それからまだ行けていないのですが...
あの頃から既にポタラ宮の前には記念撮影を商売にした
中国人の姿がありました。
ラサのバルコルにも、広場にも、商店にも。
ここってチベットだよね?と思わんばかりでした。
きっと7年後の今は
あの当時よりも中国化が進んでいるのでしょうね。
唯一の観光収入で成り立っているはずのチベット
いったいその資金はどこに流れているんでしょうね。
taroさんによく似たカム族の男には会いましたか?
Posted by: 理絵 at 2004年09月16日 16:27現在の「中国」という国は、悠久の歴史を土台とし、それこそ歴史、時間の裏打ちのある見識、堂々たる体躯を誇る大人(タイジン)の風格、威厳を持つべき筈の国、「中国」と同じ国では決してない。彼らは(彼らの指導者たちは)全てを suspend し、新しいシステムを得る為の困難なる道を選択した。大多数の国民にとっては辛い、間違った選択であっただろうが、道半ばにして現実路線に鞍替えせざるを得なくなったことも加え、益々、足元の定まらない、理解をするのに大きな不快と苦痛が伴う国となった。
経済の観点でものを言えば、大量の鉄砲水が流れ出したのだから、ものすごいパワーである。元々が自然の欲求にストイックなところの薄い国民性である、重石が取れれば要求は留まる所を知らない。経済的な豊かさだけがゴールであることをオブラートにさえ包まない。古人も嘆く徹底した浅薄ぶりである。
長い歴史に比べれば一瞬のような50年だったかも知れない。しかし一つの国の大事なものを消滅させるには十分な時間だったようだ。失ったものを取り戻す事は不可能にしても、是非とも我々の国のような悪い例を参考にして同じ過ちを繰り返したり、拡大しない賢明さを持って欲しい。文化なき暴走、世界の穀物事情を塗り替える爆食を見ていると高いところから低い所へただただ大量の水が轟音を立てて瀑布のように流れ落ちている、というイメージを持つ。それはとても恐ろしい風景である。
