2005年02月02日
「ミスター・シッダウン」

彼の本名は知らない。いつか尋ねる気になるかもしれない。それまでは「ミスター・シッダウン」というあだ名で彼を呼ぶことにしている。毎日夕方6時頃、彼の黒いおんぼろトラックが角のセブンイレブンの真ん前に停まる。そこが彼のスポットである。暫く道具を並べたり準備したりした後、トラックの後ろでラーメンを作り始める。夕食の時間だ。腹を空かせた近所のタイ人たちが群がってくる。バンコックを訪れるときはいつもここが私たちのご近所さんとなる。私が彼の屋台へ食べに行くときばかりではなく、ただセブンイレブンへ行く道でまえをとおりかかるだけでも、彼は笑顔になりあの優しいタイ訛りの英語で「シッダアァァウゥゥゥン」と手招きする。これが私がこの愛すべき老人のあだ名の由来だ。そして彼のタイ風ラーメンは最高に美味い。

一杯のラーメンを作る最初のステップは麺とワンタンを茹でることから始まる。バンコックでラーメンが食べられる屋台では、普通細い米麺、太めの米麺、中華麺、そして(なぜかは理解に苦しむが)インスタント麺などから数種類の麺から選ぶことが出来るのだが、ミスター・シッダウンは中華麺だけを使う。一杯に4個入れる自家製のワンタンは豚肉入りだ。次に椀の底にさまざまな材料を入れる。タイのホウレンソウ、刻んだ青ネギ、皮ごといぶしたニンニク、野菜の漬け物を少々、油で揚げた豚の脂、そして一口サイズに刻んだ大量のチャーシュー。タイ風フィッシュソースと酢を少々。麺とワンタンが茹であがると水を切って椀に移す。豚からとったコクのあるスープをかけ、油で揚げたワンタンの皮を上に載せて出来上がりだ。客は好みによって一味唐辛子、フィッシュソースと酢、生の唐辛子を漬けた酢などを加えて食べる。
数年前初めて食べてからというもの、私はこのラーメンにはまっている。私よりもバンコックに詳しい外人たちに訊いても皆口を揃えてこのラーメンが街で最高だと言う。その秘密はやはりスープにあるようだ。コクがあって食べた後の満足感を促するような味を出すのにも、彼は「味の素は使ってないよ」と念を押す。肉をほとんど口にしなかった(そして口にしたいとは思わなかった)3ヶ月間のインドの旅の間に、この「豚オンパレードの一杯」を夢見ることが何度もあった。このラーメンは夕食によし、夜食によし、時にはその両方にしても私は構わない。

客層にはタイに詳しい西洋人のトラベラーも多い。その一人はタイにはこれまで16年間訪れてきたタイ語と東南アジアの研究者だった。タイ語を操る彼に通訳を頼んでミスター・シッダウンにいくつか質問をしたのだが、彼はこの同じ場所で30年ラーメンを作り続けてきたそうである。始めた当初はこの一角も密集していたわけではなく、数軒の家しかなかったのだが、そばにある市場で賑わっていたらしい。車やバイクもはしっていなかったという。当時は一杯2バートだったラーメンも、時が変わり30バート(米ドルで75セント)になった。最近は忙しい夜は大人になった娘が手伝いに駆けつける。だが、ラーメンそのものは変わることなく、毎日多くの客が食べに来て満足して帰ってゆく。

夜中を過ぎるとしばらくの間ミスター・シッダウンの屋台に客が見られない時間帯がある。彼の休憩時間だ。ビールを飲んで近所を見渡す。少々飲み過ぎると目が眠そうにトロンとなる。夜明け前、運搬トラックの運転手たちが腹を空かせて市場に到着する。バンコックのどこかで飲んでいた外人たちも夜食を探してやって来る。中には、ミスター・シッダウンのラーメン目当てにわざわざ街の反対側からやって来る人もいる。タイでの旅の最後の夜、次の旅先あるいは祖国へ帰る前に美味いラーメンを食べてから、というトラベラーまでいる。店終いは朝3時。何人もの深夜の客が来る。彼は家に帰って眠り、明日またこの同じ場所で同じラーメンを作る。バンコックの風物詩のひとつである。
Posted by taro at 2005年02月02日 14:27