2004年05月27日
スペインのリズム

スペインの生活のリズムに接するのはこれが初めてである。シエスタを理解するにはやはり土地の人々に尋ねるのが一番だ。が、アムステルダムと違って英語を話す人が圧倒的に少なく、この手の情報収集には手こずる。そこで、最初の二晩宿泊したHostal Hillを経営する日本人オーナーにお尋ねしてようやく分かったような気がするが実感としてはまだ定かではない。シエスタの時間帯には実際に昼寝をするわけではなく、ゆっくりと遅い昼食を食べ、友達や仕事仲間やご近所さんとだべりまくるのがほとんどなのだそうだ。この国の人々にとっては伝統的な生活様式だが、現代の知識によると栄養の点や夜の就寝前に最後の食事をする事などからあまり健康的ではないようだ。
日曜日の朝二時頃。土曜の夜の熱気はまだ冷めやらず、街にはまだたくさんの人が歩いていた。歩道では四歳くらいの子供を連れた家族が楽しそうにはしゃいでいる。この時間でも起きている子供達は元気がいい。旅行者の私たちとしては生活の時間帯を調整するのが必要だろう。

私たちが現在滞在しているのはアパートで、FCバルセロナの本拠地、カンプ・ノウ・スタジアムへは徒歩十分で行けるところにある。近くには小さな教会が二つあり、ヨーロッパのどの教会でもそうであるように、時刻に合わせて鐘が鳴る。本来はこの二つの鐘が同時に鳴るはずなのだろうが、そこに三、四分間のずれがあって、私はそのずれにバルセロナの中心からちょっと離れたこのご近所さんへの親しみを感じている。一ヶ月後に訪れる予定のスイスでは多分こんな事はないだろう。
アパートから路地を隔てたすぐ向かい側では高さ四階ほどのビルの建設中だ。朝八時頃からガンガンと騒がしくなる。目覚ましは不要だ。十時頃から朝食の食べ直しなのだろう、三十分以上は静かになる。そして午後一時を過ぎると夕方の四時頃までは現場には誰もいない。シエスタの後、一時間半ほど働いてその日の仕事は終わり。このビルが完成するのは一体いつになるのだろうか。ともかく、これがこの街の人々のペースだと思う。ちなみにアメリカ国籍の企業、例えばHewlett-Packardのバルセロナ支社ではシエスタは無いと聞いた。
太陽の光がいかにも地中海らしく眩しい。私たちはこれから十日間ほどをこの街で過ごすことになる。
2004年05月26日
簡単すぎる入国

バルセロナには予定より一日遅れて22日の夕方に到着した。まず空気の違いを肌で感じた。湿気が高く、もちろんアムステルダムよりは暖かいが、日が暮れてからの風はまだ肌寒い。
アムステルダムからはEU諸国間を割安で飛べるEasy Jetという航空社で飛んだ。ウェブと空港のカウンターのみでチケットを販売している小さな会社である。バルセロナに到着したということはスペインに入国するということになるわけだが、税関どころか入国審査も何もない。オランダ入国時には少なくともパスポートに「記念スタンプ」を押してくれた。今回はそんなスタンプの機会さえ無かった。

ヨーロッパ諸国を旅慣れておられる方々には何の不思議もない事なのかも知れない。しかしアメリカに住んでいる人間にとっては驚きなのだ。ましてやスペインでは二ヶ月ほど前にマドリッドでテロが起こったばかり。EU参加国オランダからのフライトだからと言ってしまえばそれまでだろうし、実際にそれが理由なのかも知れない。スペインがイラクに送った兵士達を撤退させたからもう心配は無いと考えたのだろうか。あれほどの被害を受け、僅か二ヶ月後には国外からの入国者達をチェックしていない事はある種のショックでさえある。それとも、Easy Jet社を始めEU圏内のフライトを予約した人々の背景情報はすでに全て厳密にチェックされ、安全な客だけが乗っていると確認済みなのだろうか。ちなみにパスポートを見せたのはチェックインと搭乗の際のみだった。
一方、そもそもこれが本来あるべき近隣国同士の理想的なあり方なのだろうと納得もする。ヨーロッパが進化している証拠でもあるのだろう。どちらにせよ確かなのはこれらの国の警戒に関する考え方や感じ方がアメリカとは全く異なっていることだ。
アメリカや日本の政府やマスコミがあれほど宣伝している恐れは、特にアメリカの空港で顕著に現れる。国内線でさえもその例外ではない。アメリカ国民は「お国の安全のためだから」とただただ無言で、時にはブッシュ大統領への忠誠の表現なのであろうか、誇らしげにベルトを外し、靴を脱ぎ、ノートパソコンやPDAのスイッチを入れて武器ではないことを示し、自分達がテロリストではないことを証明するのである。
スペイン人は何を「恐れていない」のだろう?
2004年05月18日
春!

アムステルダムにもようやく春がやってきた。長い冬の後この街がいきなり花開いた週末だった。ヨーロッパへと渡る直前にアリゾナの乾燥しきった摂氏35度の炎天下で過ごした私たちは、到着後一週間の曇り空と寒さに少々参ってしまっていたのだ。絵に描いたような青空と白い雲。それを見上げる視界の隅には、必ずこの街を象徴する家々や教会の一部が覗く。
人々のファッションや行動も一変する。まばらだった広場に面したカフェのテーブルは突如満員になった。迷路のような運河にボートをゆっくり走らせながら、ワインとチーズを味わう。女性達のドレスも新鮮なパステルカラーになる。表情が和らぎ、笑顔になる。何事にも増して日光の吸収が最優先される。この変化は土曜日の朝起こった。
Vondelparkはアムステルダム市民達にとって馴染み深く大切な場所である。日曜日、人々は正午になる前からこの公園にやって来て、心地よい場所に陣取り、パンとチーズとサラミとワインとフルーツを広げ、家族や友達がそれを囲んで集団で遊び、だらけまくるのである。外に出たくて仕方がなかった子供達は、自転車とインラインスケートとサッカーボールでたまりにたまったエネルギーをここぞとばかり爆発させる。もちろん大人も負けてはいない。
午後が熟した時間帯になると、公園内には驚くほど大勢の人々がいて、ちょうど日本のお花見やゴールデンゲートパークの夏の午後のような様相だった。

時々吹く穏やかな夜風は少しばかり肌寒く感じるが、夜の9時半でもまだ空が藍色だ。日差しが予想外に強かった一日の終わりは、そんな時間になってもカフェの窓が大きく開かれていた。カテドラルの垂直なシルエットや運河を渡る橋の曲線やオレンジ色の街灯の光が夕焼けのグラデーションと混じり合って美しい。その中を街の人たちが動き回っているのだが、私にはその動きがとてもゆとりのある穏やかなものに感じられ、それを見ているだけで自分もゆったりした気分になれるのである。
時が金には換えられない大切な時間。どこからか創造へのインスピレーションが湧いてきそうな時間。時そのものが芸術であるような時間。ここの人たちはきっとそれを無意識にも感じているような気がする。
2004年05月16日
Kröller-Müller美術館

Kröller-Müller美術館を私たちが訪れるのはこれで二度目である。最初は1995年秋だった。その時は静かな雨が降っていた事もあって主に屋内のコレクションを堪能した。今回は幸運にも天候に恵まれたので、前回ほんの一部だけ見ることが出来た彫刻ガーデンをまず楽しむことにした。
Hoge Veluwe国立公園の中にあるこの美術館は、ダイナミックではないが平坦な土地の森と人工の庭園を組み合わせた彫刻の屋外展示が以外に広く、内容も素晴らしい。作者と作品名、制作年などが書かれた標識は見えるのだが、実際に作品そのものが最初は分からないものも稀ではなく、林の木々や新緑の葉の間に目を凝らすこともたびたびである。
どんな作品が潜んでいるか分からない。だから胸が踊る。茂みを縫って続く小道に足を踏み入れ、ハイキング感覚で歩く。彫刻達は見上げる高さの木の枝や、ほんの小さな丘の向こうや、林の木々の間に見え隠れする陰などに鳥たちの声を聞きながら静かに潜んで、 散歩する訪問者達を待っているかのようだ。そして予期しなかったほど巨大なオブジェがいきなり目の前に立ちはだかったりする。
私たちは四時間以上もこの彫刻庭園で過ごした。平日なので訪問者は少ない方だが高校生のグループがクラスで来ていたり、もちろん観光バスも数台やって来た。それらの人々がくり出して来て帰っていった後、見渡す限り誰もいない時間がある。鳥のさえずりだけが聞こえて、彫刻作品が新緑の芝生の中で黒々と光っている。

日本人団体客の一人が絵の具を持ち出して写生を始めた。閉館時間と観光場バスの出発が迫っている中、彼は写生に全力集中して一枚の小さな絵を描き上げようと賢明だった。「次は奥さんと二人だけで来てよ」と言葉をかけたくなった。
2004年05月14日
Keizersgrachtで

トム・キーが台北へと発つ前に、彼はKeizersgrachtにあるフラットの鍵をくれた。この街に滞在する間彼の部屋を使わせてくれることになったのだ。地元の人たちと観光客両方で賑わうLeidse Pleinから徒歩三分にあり、必要なものは全て周囲で見つかる便利さに恵まれ、建物のドアの前に運河がゆったりと揺れる絶好のロケーション。洗濯機、乾燥機、バスタブ、キッチンが完備されトムが設置したワイヤレスのネットアクセスまである。貧乏旅行者には嬉しい限りだ。 Bed & Coffeeから移ってきた私たちは、さっそくこの新しい環境を楽しみ始めた。
私たちのサンフランシスコ・ベイエリアでの生活は忙しい毎日だがきわめて単純なものである。コンサートには頻繁に出かけ、友人達との付き合いも忙しいほどなのだが、アメリカでの中流階級の一般家庭が住む住宅街の生活はとかく行動範囲が狭いものなのだ。こうして全く異なった環境に居ると、それを実感させられる。愚かにもアメリカや日本との生活の違いなどを書き留めようとしたところで、アメリカや日本の生活そのものに対する理解の限界を思い知らされるのである。例えば、オランダ人の週末の過ごし方などを観察するにしても、私たちには子供が居ないので子供連れの家族の行動などとは比較する術がない。
トムによると、オランダ人は金曜日の夜と土曜日は友達と遊ぶのが普通だが、日曜日はほぼ家族と一緒に過ごすというのが習慣なのだそうである。Ajax Amsterdamの試合があった日曜も、家族連れはとても多かった。クラブによっては独り者やオランダ語を流暢に話せない人は入場お断りのところがあり、有名なクラブもその例外ではないものがあるという。アメリカではこのような差別的な行動は表面的には法律で規制されている。

アムステルダムは外来者達には非常にオープンである。街全体がオランダの外からやって来る人々で溢れ、人種差別も全く感じられない。それだけに言語を始めとする文化や血統の保存は困難かも知れない。オランダ人の、一定の時間を設けてオランダの純粋な文化を守ろうとする姿勢が日曜日の過ごし方に現れているのではないかとふと思った。
曇り空の日が続き、風もまだ冷たい。それでも運河では水鳥たちが停泊しているボートの間に巣を作り、卵を暖めていたり小鳥を連れ出したりしている。
2004年05月12日
まだ寒い週末

この元気な街のウイークエンドは瞬く間に過ぎた。金曜日から日曜日という短時間の記憶。その理由の一つは旧友トム・キーとの六年ぶりの再会と、彼と週末全部を過ごせたからだ。彼は一年ほど前にXWIREという会社を設立し、インテリジェントで高速なWiFiラウターを一人で開発した。この街に住んで三年という。そして彼にはアメリカへの帰還が月曜の朝に控えていた。

この週末、私たちは二つの美術展に出かけた。土曜日はKunstvlaai。街の西地区にあるWestergasfabrikというかつては水道管理施設があったと思われる場所だ。ここに「ちょっとおかしな」街のアーティスト達がオーガナイズした展示会で、斬新な表現や、オルタナティブなもの、笑える作品が古い煉瓦造りの建物の中と野外で見ることが出来た。それを見に来る人たちも千差万別。土曜の午後を芸術の周囲で過ごそうと、かっこいい老夫婦達や、若いクリエイティブなタイプ、乳母車を押す夫婦達がゆったりとビールを飲みながら創作を見に来る。ゴールデンゲートパークでの夏の昼頃やサンフランシスコのストリートフェスティバルに感じがよく似ている。
夕食と夜の散歩はトムと一緒に過ごす。今夜はリラックスモード。金曜の夜はThe Dolphins、Cafe Alto、Bull Dogなど、Leidse Pleinのすぐ傍にある街の住民と観光客がドッと繰り出すクラブを回った。聞いたことのない言語が耳の間を飛び交って時差ぼけのふらつきもあって猥雑なループのようにエコーした。この夜はまずインドネシア料理の店(アムステルダムには非常に多く、しかも美味い)から始まり、座って話せるクラブで過ごした。もちろん、夜中過ぎにはそのような店にもその夜の最初の店としてやって来るパーティアー達で満員になる。

日曜日。午後も早いうちにトムのフラットへ向かう。Leidse Pleinに近づくとAjax Amsterdamの熱狂的ファン達がこの日のゲームの試合のために駆けつけていた。家族連れも多かった。Ajaxの旗に身を包んだ女の子とその母親。赤と白のチームのシャツとスカーフでお揃いの小さな男の子と父親。ハイネケンのカンに吸い付いているやたらに背の高い兄ちゃん達の間を、私はMDレコーダーで歩き回った。試合開始は四時。お兄ちゃん達はあと二時間ぶっ続けでハイネケンを飲み続けるのだ。後に私たちはこの試合の大切さを知った。オランダのプレミアリーグ優勝者を決める試合。そしてAjaxはNAC Bredaを2-0で破り、優勝を決めた。
この日、トムはダニエルを紹介してくれた。明るい気性のオランダ人女性で写真家。街のすぐ外に住んでいる。私たち四人は大歓声がわき起こるLeidse Pleinを後にしてKunst Raiへと向かった。Raiはビジネスショーなどが行われるヴェニューで、このイベントは主にオランダ、ドイツ、フランスなどの主流ギャラリーが毎年開催するビジネスライクな展示即売会だ。上記の「変な芸術家達」によるKunstvlaaiはこのイベントのちょっとした肩苦しさを嘲笑したパロディーなのである。変なといえばKunst Raiで展示しているアーティストの中には意味不明の作品もあり、それほどの差があるわけではない事が判明した。すでに有名になって成功しているアーティスト以外は、幸運にも評論家やギャラリーの目に留まったか未だに留まっていないかだけが違いなのだ。
アメリカと違ってどこにでもアートがある。私たちにとって今はそれが一番嬉しい。
トムは台北での仕事をこなすため、パリ発の便に乗ることに決めたようだった。月曜日、早朝四時のパリ行きの列車に彼はトランク三つを抱えて飛び乗った。グッドラック!アムステルダムでは本当に世話になった。有り難う。
2004年05月08日
アムステルダムを歩く

私がサンフランシスコと同じく愛するアムステルダムに到着して最初の数日は何もしない、というのが私たちの計画だった。国立美術館とゴッホ美術館に近い安宿Bed & Coffeeにチェックインした後、私たちはすぐ仮眠を摂った。通常の観光旅行と違って一日の過ごし方にプレッシャーがかからないというのは大きな利点だと実感した。私たちは観光スポットから離れた静かな道を水路に沿ってゆっくりと歩いた。バスを連ねてやってくる大勢の観光客と並んで歩く気には到底なれなかったのだ。そして、市民にとってのアムステルダムは、例えばアンネ・フランクの家からほんの一筋離れた道にその本当の情緒を醸し出す。
そんな道に、そして大通りにさえも私たちは個人所有の商店、つまりおじさんとおばさんが二人で営業しているような店がしっかりと、そして静かに繁盛している状況を見ることが出来た。日本では大都市でも珍しくない光景なのだが、現在のアメリカでは探さないと見ることが出来ないものなのである。つまり、一般にアメリカ経済のバックボーンと政治家が口癖のように言う市民によって経営されているビジネスは大手企業の暴力的とも言える力によって危機に瀕しているのだ。どこへ行っても看板やサインにはお馴染みのブランドネームしか見当たらなくなった。つい先日にも私たちはカリフォルニアからアリゾナへとドライブし、その光景を目の当たりにしたばかりだった。
アムステルダムのセントラール(中心街)では個人経営の商店やビジネスが活発に商売が出来ている。時にはオーナー達の笑い声があり、時にはひっそりと静かに接客している。生身の人がやっている商売だ、という嬉しい印象がそこにはあって親しみを感じるのは即時的だ。時差ぼけでぼーっとしている頭ででさえこの街の雰囲気に馴染めやすいのはそんな光景があるからだ。

スキッポル空港での観察。オランダという国がフレンドリーに受け入れてくれることは過去二度の経験で分かっていたが、今の世界状況であれほどまでにオープンだとは想像もしなかったことだ。飛行機を歩み出てから、アムステルダムのセントラルステーションまでの電車の切符を買うまで僅か20分。「旅行目的は何ですか?」とも訊かれなければ「滞在期間は?」も無い。私たちはただ旅券監査員にお早うを言ってパスポートを提出しただけである。監査員は私が日本のパスポートを持つアメリカの永住外国人であることを確認することだけはわすれなかったが。私たちの荷物に至っては誰も見ようとも触ろうともしなかった。
オランダの人々は一体何を「恐れていない」のだろう?
アリゾナからアムステルダムへ

アメリカから発つ前にリンの家族が居るアリゾナで数日を過ごすのは、確かに良いアイディアだった。休み無く費やした二週間と出発の間の数日がバッファとなった。最後の準備項目を少しばかり平静な頭と気持ちで片づけることができたのもスティーブとトレイシーがアットホームな環境を与えてくれたからだった。
私たちは砂漠と巨大なサボテンが立ち並ぶ丘の風景を楽しんだ。出発の前夜、満月がこれらを青く照らして美しかった。僕は少しの間その光の中で瞑想した。そのお陰で予想していた興奮の「前夜」は、すぐに眠りに就けたので短くはあったが深く休むことが出来た。
トレイシーは本当に親切だった。朝早くから私たちを空港へ送り届けてくれた上、暖かいハグで見送ってくれた。
空港内のコーヒーショップで、私たちは何故かとても平静だった。嵐の前の静けさか、私たちがただ疲れ果てているだけなのか、それともこの新たな現実がまだ浸透していないだけなのか。その理由はすぐにも分かるだろう。
旅が始まった。
家は空、胸は一杯

サンフランシスコベイエリアを車で出発する当日の朝、自宅は空っぽだった。一方、私たちの心と頭の中は感謝と興奮と別れの悲しみ、それにさまざまな感情が交わって一杯。
自宅を空き家にする過程ではデイブとモニカが疲れを見せない働きで助けてくれた。彼らは三日連続で夕方から夜遅くまで手伝ってくれたのだ。引っ越しは私たちの予想を上回る労働量だったため、彼らのヘルプは重宝した。大きな家具を運び出した日は、カヤとタシがサンタクルーズから駆けつけ、若い筋肉とエネルギーを提供してくれた。これらの友達にはいくら感謝しても足りない。
この家を買って以来10年住まわせて貰った。基本的なことなのだが、雨風や強烈な日差しから私たちを守ってくれ、心も体も和ませてくれた。住まいの守り神がいるように感じた。その10年間、無意識のうちにいろんなものをため込んでしまったようだ。リンは要らないものをeBayで売ったりして物を減らしていたし、私たちは基本的になるべく軽く住むように心がけていたのだが。生活する上で本当にこれらの物が必要なのだろうか?物、物、物。これらの物を倉庫へ移動する間に見るのも嫌になった。反面、このような気持ちになる機会を与えられたのは大変勉強になった。
その一方で、生きていく上で何が本当に大切なのかを感じた。言葉だけではなく、本当に感じたのだ。家族や友達が次々と電話をかけてきて、優しい言葉を言ってくれた。本当に恵まれている。この事は、おそらくこの旅の間にも再認識するであろう事なのだが、旅が始まる前にすでにその感情を経験したわけだ。
猫のウィローについては心を悩まされた。この猫は引っ越しの間に何かを察知していて、最終的には私たちがどこかへ旅立つのを理解したようだった。出発の前の数時間、彼女はリンの周りを離れたがらず、2メートルほどの感覚でリンの後に付いていた。確かにウィローは知っていたのだ。

この日の正午、私たちは出発した。アリゾナは遠く私たちは疲労困憊の体だったが、何とか突き進み、翌朝の2時にスティーブとトレイシーの住むフェニックス北部の家に到着した。砂漠の丘の麓にある素敵な家だった。
満月が近い。
