2004年06月26日
空虚な街

モスクワについて何を書こうかと考えたのだが、最初は何も浮かんでこなかった。全く無表情な外貨換金所の女性の顔と同じように。空港からホテルまでの送迎車を予約しておいたのだが、その運転手だけが初対面からとてもにこやかに歓迎してくれたのがむしろ異常とも言える表情だった。ロシアの人々は何らかのつながりが無いと表情を崩さないようだ。店員が接客する際もそれは変わらない。
この街について何をお伝えできるだろう。まず目に入ってくるのは、社会主義時代からの社会基盤が朽ちて、今のところ放置されている姿と、それに取って代わった典型的な資本主義の産物である。赤の広場に今も堂々と立つレーニンの墓碑の正面に、キリストのイコンに守られた巨大なショッピングモールが陣取っているのは皮肉としか言いようがない。ブランド商店が建ち並び、ブランド商品のいかにもロシア的に巨大な広告板がビルの側面を支配している。
モスクワの人々の身なりも、この新しい流れにちなんだものだ。特に女性のファッションに至っては、全身をブランド品で固め、しかも派手なカラーコーディネーションを目指すのがこの街ではスタンダードであるらしい。十センチほどのハイヒールも珍しくない。それはそれでいいのだろうが、それ以外のバリエーションが全く見当たらないのだ。一世紀もの間、社会主義体制に自由を拒まれた人々の反動なのか、マーケティングの妙技なのか。
今まで私たちがヨーロッパで注目してきたアート、特に現行のアートシーンはどこにも見当たらなかった。あるカフェでたまたま一人の若者がロンドンのアートスクールのパンフレットを見ていたのに気づき、お勧めのギャラリーの所在地を尋ねてみた。彼は苦笑しながら「モスクワでアートシーンを見つける事は困難だよ、」と答えた。彼がロンドンを目指すのも同じ理由だろう。
ロシアへ行くについては多くの人々から忠告を頂いた。ロシアはとても危ないところである、金目のものを人目に晒すと狙われる、観光客が乗る汽車は盗賊がガス弾を撃ち込んで身ぐるみ剥がすというから気をつけろ、などなどである。私たちの期待を裏切ったのは、少なくともモスクワの観光客が集まるような場所ではこれらの心配は無かったというポジティブな点だ。聞いていたソ連崩壊直後の状態からは明らかに向上されたようである。

市内では大規模な建設が行われている事が多く、赤の広場のすぐ隣でもかつては威容を誇っただろうホテル・モスクワの破壊工事が進められていた。実際に私たちが宿泊したホテル・ロシアも今年八月にはその三千部屋からなる巨大なビルの打ち壊しが決まっているという。グローバリゼーションが地球の隅々に行き渡ろうとする時代、モスクワはその巨大な姿を変えようとしている。その中にクリエイティブな活動が芽生え、アートシーンが花開くのはいつになるだろうか。
2004年06月21日
スイス人の誇り

「スイス人はとても『特別』なんだよ、」とカフェのオーナーは言った。バーゼルへ出発する前夜、ベルリンのある素敵なカフェにもう一度立ち寄った時だった。誇り高いスイス人を少々皮肉って表現したようである。私たちはバーゼルと、リヒテンシュタインとの国境沿いにある田舎町、ブークスに一週間滞在した。その間、私たちはスイスの人々はやはり特別だと感じたのだ。その感想に皮肉は込められていない。
この国が持っているのは、基本的に世界に知られる美しい風景だけである。資源と呼ぶべきものは木材以外にはない。彼らはスイスの国土を愛情をもって保護し、世代を通じてその価値を教育し、誇りとするに至ったのではないだろうか。もちろん、銀行や時計については誰もが知っている事実だが、それらは後に先見力ある国のリーダーたちによって戦略的に追加されたものだと考えられる。
今回訪れたブークスも雪を頂く山々に囲まれた美しい街だった。空気が美味い。小さな噴水が至る所にあって、街の人々はその水で喉を潤す。この水も冷たくて美味い。ここを訪れたのは、リンが地元の写真家、ジャック・レコウトレ氏とアート作品を一点共同製作するためである。

ジャックは、創作の間も私たちをアウトドアへと連れ出したかったらしく、二度ほど車でハイキングに連れて行ってくれた。実に美しい場所である。そんな場所へ行くのに街から車で坂をゆっくり登って三十分ほどしかからない。観光地化されていて幻滅することもない。あるのはアウトドアを楽しむ、主に地元の人々をビールとリンゴジュースとソーセージで歓迎する大きな屋台のようなレストランだけである。視界の内にあるものが、全て自然で健康で素晴らしく美しい。ジャックは、その森と牧場と小さな湖のある場所で育った。息子のヤンニックもジャックに連れられて毎週のようにハイキングをしながら育っている。
私たちがスイスの人々はやはり特別だと思ったのは、彼らの愛国心が国土とその自然への深い愛情を大前提としており、今もそれを貫こうとしていると感じたからだ。
そのスイス人も、現在のエネルギー資源やそれに関連する世界政治、地球温暖化などのグローバルな現象については極度に敏感である。思案深い表情でジャックは言った、「五十年後に石油は枯渇する。その時我々はどうするか・・・僕が最近絶えず考えているのはそのことなんだよ。」
2004年06月17日
芸術の居場所

ベルリンのオストバーンホフ駅からスイスのバーゼルへ向かうECの車中で、ある立派な若い紳士が私たちの関心を捕らえた。私たちのすぐ前の予約席にどっかと腰を下ろした彼は、オールバックの髪、ビジネスマン然とした服装、革製のビジネスケースのいでたち。時計はもちろんローレックスのクロノグラフだ。病み上がりなのか、アレルギーなのか、彼はくしゃみと鼻づまりに悩まされているようで、しきりに大きな音を立てて鼻をかんだりすすったりしていた。その上携帯で連絡をとりまくるものだから騒がしい事この上ない。
この若くて騒がしい小太りの紳士を私は「フェリペ」と呼ぶ事にした。私たちは、彼は美術商人かも知れないと冗談を言ったりもした。フェリペは朝刊に載っていたポルシェ911の最新型のレヴューとスポーツ欄、そして経済欄を熱心に時間をかけて読んだ。彼が実際に美術商人だと判明したのはバーゼルに到着する直前、彼がビジネスケースから取り出した手紙が、世界各地のギャラリーからのものだったからだ。彼はそれらの手紙に目を通し、さらに美術雑誌をペラペラと数分めくった後、エロ写真満載のタブロイド新聞をゆっくりと読み始めた。
フェリペがバーゼルに出張するのは、毎年行われる世界最大のアートフェア、「アート・バーゼル2004」に参加するためだ。このフェアには世界を代表する現代美術ギャラリーの最高峰が集結する。生きている出展アーティストであればもちろん参加するだろうし、世界の著名な美術収集家たちもやって来る。そして私たちもこのフェアで少なくとも丸一日過ごす予定だった。
私たちは、美術ビジネスの現状について、アムステルダムの「Kunst Rai 2004」で少しばかりは理解を深めたつもりだった。しかし、フェリペの行動を約七時間にわたって観察するに至って、本当にこのような人たちが美術を理解し、正当な値段を付け、ビジネスをしているのだろうか、と少々心配になってしまった事は事実である。

一方、スイスに入国して間もなく、少なくともこの国の人々にとって芸術というものがどのような意味を持っているのか、社会での地位を占めているのか、を示唆する発見もあった。
すでにご承知の方もおられると思うが、スイスの紙幣には芸術家たちのポートレイトと作品が使われている。彼らの業績は一センチ四方の小さなスペースに極細の文字で記述されている。日本の夏目漱石を除いて私は他にそのような例を知らない。ヨーロッパの他の国でもユーロ導入以前にはそのような例が多くあったのだろうか。
紙幣に見られる偉人はその国の建国や独立、発展に貢献した政治家たちや戦争に勝利した英雄たちだ、というのが私にとっては普通である。スイスの色鮮やかな紙幣を飾るのは美術家、文豪、音楽家である。この些細な発見で、スイスの国民性が理解できるわけはないが、ちょっとしたヒントになるのではないだろうか。そしてこの国で開催される世界を代表するアートフェアに集まる無数の「フェリペ」たち。
スイスには一週間ほどだけ滞在する予定だが、この数日間でさらにどんな発見があるのか、楽しみだ。
2004年06月13日
ホーフカルチャー

ベルリンに漂う穏やかでホットなカルチャー。その源は一体どこか。
歩道や道路から見ると、ベルリンの建物は通常五階か六階建てで重厚な感じがするものが多い。ビル間に隙間が無く、継続して建てられている印象を与えるために、一角の建物がとても大きく感じられるのである。これらの連立したビルは一つの方形を成していて、その内側には大なり小なり必ずと言って良いほど共同の中庭、ドイツ語ではホーフと呼ばれる空間がある。
私たちが滞在しているアパートのそれはかなり広く、多くの木が茂り、子供たちのための公園があり、小さな芝生のスペースや、ちょっとした散歩道まである。このホーフはかなり大きな方であろう。

私たちの近所はシェーネハウザー・アレーという目抜き通りの周囲にあるクリエイティブな連中が集まる一帯である。この辺のホーフは、入り口にあまり目立たないサインがあればいい方で、一見胡散臭いものばかりだ。夜は奥へ行くまでのホールも暗い。私たちは、明るい間にそのいくつかを探索してみた。
小さなホーフは通常ただの玄関のようなスペースで、居住者の自転車置き場になっているようだった。ミドルサイズのものになると用途にもおもしろさが増す。一階の部屋を小さなシアターに改造し、ホーフが客を迎えるスペースになっているもの。ヨガやダンスレッスンへの入り口にベンチとテーブルが置いてあって誰もがリラックスできるような空間。レッスンを指導する人たちもそのビルのどこかに住んでいるのだろう。静かで誰もいないカフェ。あんなところも夏には繁盛するのだろうか。あるカフェのフライヤーにはあるバンドのCDリリースパーティーがどこかのホーフであると告知していた。通りに面した映画館の裏側にあるホーフは客が映画の前と終わった後でも楽しめるようなレストラン・カフェになっていた。
普段は扉が閉ざされ、向こうがどうなっているのか分からないようなホーフも必要に応じて公開されて何かのイベントに使われるような所もある。

一つのホーフから次へ、また次へと入って行けるような所もある。ベルリンの繁華街の一つ、ハッケシャー・マルクトにあるハッケシャー・ホーフはその規模の大きさと知名度の高さから言ってむしろ例外だ。このホーフは、ショッピングモールとエンターテイメントセンターが一カ所に集中したスポット。中には個人経営で優れたデザイナーのアトリエや店がある。ベルリナーたちは大いに利用しているようだが、観光用ガイドブックのお勧め欄には必ず紹介されているため、観光地になってもいるのが少々残念な気がする。
ホーフがベルリンの人々の文化を養う場となったのはごく最近のことではないだろう。しかし、東西が統合されてからのベルリンではその用途がさらにクリエイティブに拡張されていると感じる。未だ物価が比較的安いベルリンで、自由に創造することの新たな可能性を若いベルリナーたちにとってホーフは重要な開拓地なのかも知れない。
2004年06月11日
ベルリンのホットスポット

ベルリンに着いて五日間、私たちは滞在しているアパートの周囲一帯からあまり出ることなく過ごした。ベルリンの壁が崩壊する以前は東ベルリンだった所だ。この近所はカジュアルでトレンディー、またはファンキーなカフェからパンクが集まるヴェジタリアン・カフェ、ビアガーデン、ヘルスコンシャスでエスニック色も豊かなレストランの数々、インデペンデントのブティックやギャラリーが集中していて、なかなか面白い所なのだ。毎日、この近所のどこかで何かが行われている。私たちは着いたその日からすっかりここが気に入ってしまった。
若い世代を中心とした人々が住んでいて、彼らの表情は想像していた以上に明るく、フレンドリーである。春の日差しが射すと彼らはカフェの路上のテーブルに集まり、穏やかに微笑みながら静かに話をする。私は、パンクカフェのお兄ちゃんにさえも見られるこの穏やかさが大変気に入っている。もちろん誰もがそうであるわけではないのだが、例えば人出が多い週末の夜の路上や、DJがいる混んだカフェでも、この穏やかさが全体的なのだ。
ベルリンの人々の表情や態度の明るさや味わいのある穏やかさは、ベルリンの壁の崩壊後、表面に現れてきたものなのだろうと想像している。十九世紀半ばから戦争を続け、ドイツ帝国が成立し、第一次世界大戦を経験し、その大戦の莫大な代償を払って餓え、ヒットラーの独裁、敗戦、そして冷戦と百三十年にも及ぶ動乱の中で人々は苦しみ、生きのびた。この動乱の時代に生きたドイツの女流芸術家、ケーテ・コルヴィッツは一般人、特に貧しい人々の苦難を描いたのだが、第二次世界大戦終戦直前に亡くなった彼女の作品に笑顔は見られない。

ベルリンの壁の崩壊はほんの十数年前の出来事である。以来、ベルリンに留まった若者たちは、自分達が持つ自由を文字通りゆっくりと噛みしめながら彼ら独自のカルチャーを作り上げている。彼らの穏やかさは、一歩一歩自由であることと正しい道を歩いていることを確認しながら、味わいながらポジティブな未来へ向かっている事に原因があるのではないか。
めぼしい美術館やギャラリーを訪ねたり、心和むティーアガルテンに本とカメラを持って遊びに出かける以外は、このホットスポットを大いに楽しもうと考えている。戦勝の記念碑や僅かに残された壁を見に行くよりも、ベルリンの若者たちの今を体験する方がベルリンの今を見ることになるからだ。
2004年06月07日
カタルーニャ!

ヨーロッパでの旅は中盤を迎え、私たちはベルリンに滞在している。この街の様子をお伝えし始める前に、もう一度バルセロナを振り返ってみたいと思う。
バルセロナの人々にとって私たちが滞在していたのはカタルーニャであって、スペインではない。旅人たちに対応するカタルーニャの人々は、ガイドブックを見ながら「スペインに来た」とばかり考えている訪問者に対してスペイン語を仕方なく話すのだ。もちろん彼等同士の会話はカタルーニャの言葉、カタルである。理解できぬままテレビ番組を見ていてもローカル色の強い番組で話されているのはどう聞いてもスペイン語ではない。

数日の間私たちは、ミロ美術館やバルセロナ現代美術館をゆっくり味わい、多くのギャラリーを覗き、この街では規制されていないスプレーペイントを使ったグラフィティの技術、内容共に完成度の高い「作品」の数々を楽しみ、そしてローカルの食事を堪能した。同時に、私たちにとってほんの小さな認識でしかなかったカタルーニャの歴史と文化は日に増して確かな認識となっていった。私たちはスペインを訪れているのではなく、カタルーニャにいるのだ、と。
5月29日、私はブルガリアの国民的英雄であり、90年代にFCバルセロナの英雄ともなったフットボールプレーヤー、ストイチコフの現役引退記念試合を観に出かけた。伝統あるカンプ・ノウ・スタジアムにはFCバルセロナのファン、ブルガリアから駆けつけたファンを合わせて約1万5千人ほどの観衆がやって来た。ヨハン・クロイフ監督の指導の下、ストイチコフの貢献は大きく、念願のスペインリーグを1991年から4年連続で制覇することになる。これらの人々は決してこの英雄を忘れることはない。

フランコ政権時代に、この独裁者はカタル語を殲滅しようと試みた。FCバルセロナのクラブハウスでは、それに屈することなくカタル語の授業が行われたのである。FCバルセロナが資金に富んでいるのは、フットボールを嫌う人でさえもがこのクラブに対して大いなる支援を続けているからだ。その理由はカタルーニャの文化を守る事であり、カタル語を今後も代々継承させるためである。もちろん、サッカーやバスケットボールの舞台でも勝つ、という願望はいつも存在し続ける。この「中央」に対する牽制的な独立心はただスポーツに熱狂するだけではなく、政治的な意味も持つ。
2004年5月から9月まで開催されている大規模なイベント、「フォーラム・バルセロナ・2004」。このイベントの三つのテーマは「文化の多様性の認識」、「サステナブルな生活様式」、そして「平和の条件」である。プレゼンテーションの言語として主に四つの言語が使われていた。スペイン語、英語、フランス語、そしてカタル語である。現地の人々に直にコミュニケートし、アピールするにはカタル語を用いるのはむしろ当たり前である。このイベントで「Voices」という素晴らしい展示を見た。そこで掲示された「ある言語の死は一つの国の死を意味する」という言葉が印象的だった。この言葉に無言で頷き共鳴する人々の中に現地のカタルニアの人々が含まれるのは言うまでもない。
「スペインには行かなかった」というと少々言い過ぎなのだろうか。どちらにせよ、私たちが文化として知ったのはカタルーニャだった。
