2004年07月29日
草原を愛する人々

モンゴルの自然を要約するのは簡単である。天候は厳しい。土地のほとんどは草原か砂漠で、湖や川がいくつかある。そのような環境では、人々はお互いに助け合わなければ生き延びることは出来ない。以前お知らせしたウランバートルでの口論や喧嘩は、やはり街の生活の一部だというのが主な理由だろうと考えている。モンゴル人同志であれば、相手を知らなくても援助のてを差し伸べるのが彼らにとっては当たり前のことらしい。実際に私たちは、問題が多かったツアーの間に多くの人々に救われたのだ。
ツアーの初日、四回もあったパンクの三回は通りがかりの人々に助けてもらった。タイヤの修理店などは何もない草原や砂漠のまっただ中でスペアタイヤが無かったらどうするかと言えば、通りがかりの車やバイクに乗っている人々に何らかのサインを出して援助が必要だと訴えるしかないのである。親切な彼らは部品や道具、さらにはスペアタイヤを次の街まで貸してくれた。援助を求めた側は、持ち合わせがあればビール、ウオッカ、煙草や少々のキャッシュでお礼をするようだが、それは絶対必要なものではない。それどころか助ける側が援助の一環として飲み物や食べ物を分け与えるときもある。そして、パンクしたタイヤを囲んで何か楽しく話し合いながら修理を始める。そんなやりとりが交わされている間もお互いの名前を知らせることもない場合が多いそうだ。

モンゴルの自然、特に動物、草原、そして常に頭上に広がる大空は、常に人々の心の中にある。ウランバートルのような街に住む人々も、暇さえあれば草原に出かけたがる。それほどモンゴルの人々の草原に対する愛着は深い。一般に、土地は共有することが常識で、誰々所有の土地だから無断で入っては行けないということがない。だから草原の中を旅するときは、どこをどうやって走っても構わないし、キャンプする場合もどこでテントを張ってもいいわけだ。広大な土地の中を移動するときは、厳しい自然や安くて故障しやすいロシア製の車の品質などが手伝って常にトラブルが生じる。そのトラブルに対しての準備が不完全であれば、私たちのツアーのように立ち往生することになる。
彼らがお互いを助け合うことを常識とする態度の背後には、自然と土地を共有する一つの民族であるという自負があるのではないか。つまり、彼らが生きる環境そのものがモンゴル人としてのアイデンティティーになっている。モンゴルの国土が人々をつなぎ合わせている。人類学的な見地に立つとこのようなことは当たり前なのかも知れないが、世界の多くの国でそれが当たり前だとは言い難く、モンゴルの自然が全土を通じてほぼ一様であるという事実も相まって、このような例はむしろ稀だと考えられる。

モンゴルの将来については、フスタイ国立公園の管理スタッフの「モンゴルがアメリカのような発展を遂げることを望んではいるが、この草原だけは失いたくない」という言葉がとても印象に残っている。飽くなき開発と所有が日常であるアメリカの現状を知っている私たちには、草原を愛して已まないモンゴルの人々にとってそんなことが可能なのだろうか、と疑問に思えてならない。すでにウランバートルの郊外ではゲルの周りに木のフェンスを張り巡らせている光景が見られる。個人的には、草原を馬に乗って疾走するときの人々の誇りと笑顔を保つことが出来れば「アメリカのような発展」などどうでもいいと思う。もちろん、それは私たち外部者の勝手で一方的な思い込みに過ぎないのだが。
2004年07月28日
草原での四日間

ドーン!私たちが乗るロシア製のジープがモンゴル人夫婦のホンダアコードの左前輪辺りに突っ込んだ。7月24日、朝九時半。モンゴル人の運転手と通訳、そして私たちが四日間のツアーに出発して僅か十五秒後のことだった。幸い、双方共に怪我や後遺症は無かったが、この事故はその後三日間のツアー行程を暗示していたのかも知れない。このツアーの模様をタイムテーブルでお伝えしたいと思う。
7月24日(一日目)
09:30 ツアー出発。出発後十五秒後に交通事故。怪我人、負傷者無し。
10:00 ツアー「再出発」。
13:00 左前輪パンク(No.1)。
13:30 チューブをパッチして出発。
14:00 炎天下と土埃が舞う草原で、持参した太郎手製キムチ入りおにぎりの昼食。一人二個ずつ食す。
15:00 「ミニゴビ」と呼ばれる砂丘地帯付近で右後輪パンク(No.2)。ついでにミニゴビを見学。

16:00 チューブをパッチして出発。
17:30 右後輪パンク(No.3)。修理の間、広大な草原の中程まで散歩。

19:00 チューブをパッチして出発。
20:15 右後輪パンク(No.4)。ハラホリン(カラコルム)まで15キロの地点。
21:15 通りかかったモンゴル人がスペアタイヤを貸してくれ、チューブをパッチして出発。日没。
22:00 ハラホリン市内に到着。タイヤ修理の店で右後輪およびジープのスペアタイヤをパッチ。
23:30 ハラホリンの街を見下ろす丘の中腹(らしき場所)に駐車。暗闇の中テントを張って就寝。夕食抜き。
7月25日(二日目)
08:00 空腹感で起床。
09:15 塩入りのお茶一杯を飲み、朝食抜きで出発。
09:45 カラコルムの遺跡、寺院に到着。遺跡を見学。その間ドライバーと通訳はタイヤを確保、修理すべく市内へ。意気消沈。カラコルム見学はそれ程時間を費やさず。車を待つ。
13:30 ハラホリン出発。
14:30 雷雨のため、付近のゲルに避難。右後輪パンク(No.5)。ゲルの中でカップヌードルの昼食。
16:00 チューブをパッチして出発。
16:45 エンジン部ベルト破損。
17:15 ベルトを修理して出発。どのようにして修理したかは全く不明。
18:30 オルギー湖畔到着。テントを張り、夕食の準備。気温が急激に下がり、強風に見舞われる。
20:00 夕食。天候はさらに悪化。
22:00 就寝。
7月26日(三日目)
00:00 雷雨。暴風雨のためテントがしなる。
02:00 この朝二度目の雷雨。一度目よりもさらに激しい雷雨。テントがひん曲がる。テント内に浸水。
08:00 起床。テントの外では馬の群が草を食べていた。前夜の夕食の残りを暖めて朝食。湖畔を散歩。
10:30 出発。
14:30 右後輪パンク(No.6)。

15:45 スペアタイヤのチューブをパッチして出発。
17:00 気温低下、天候悪化。強風、雷を伴う豪雨。風と雨がロシア製ジープ内まで吹きつけ、下半身が濡れる。滅茶苦茶寒い。
18:30 新しいタイヤを運んできた人と待ち合わせ。滅茶苦茶寒い。待ち合わせ場所を探す間、車体下方のワイヤー破損。
19:00 豪雨の中、洪水となった川のすぐ傍でワイヤーを修理し出発。修理方法は全く不明。
19:30 小さな街のタイヤ修理店に到着。新しいタイヤを右前輪と右後輪に装着。冷たい強風の中で待たされる。滅茶苦茶寒い。両手の感覚を失う。

20:30 フスタイ国立公園到着。
21:00 公園内に生息する馬類の原型と言われる馬を探しに公園管理スタッフと出発。幸運にも六頭の馬を発見。
22:30 公園管理スタッフの家族が住むゲルに到着。カップヌードルで夕食。
7月27日(四日目)
07:00 起床。ゲル家族の朝の仕事を見学。朝食。ゲル家族と会話。彼らの生活を見学。馬に乗せてもらう。
10:30 国立公園内をスタッフによるガイドで見学。車は快調の様子。ようやく気分が上昇気味に転向。
12:00 ゲルに帰還。家族が作ってくれた昼食を頂く。
13:00 フスタイ国立公園出発。
16:00 ウランバートルに帰還。
多くの問題があったツアーではあった。ツアーの運営にも疑問を感じる。が、決して無意味ではなかった。モンゴルの人々の本来の姿を垣間見ることが出来た。自然の様々な表情は、それがどのようなものであっても美しいと感じた。私たちは正にそのためにモンゴルを訪れたのだから。
2004年07月20日
UBのインナーシティーライフ

市街を歩いてみる。外国人居住者たちの間で「UB」と呼ばれるこの街は、社会主義体制の廃墟がようやく活力を帯びてきたという印象がある。それでも基本的な社会構造には問題が多い。
第一、まともに歩ける道、あるいは真っ直ぐ運転できる道というものがあまり無い。道路や歩道に穴がぽっかり空いていて、車も人も迂回を繰り返すことが常である。雷雨の夜が明けた朝は至る所に大きな深い水溜まりが出来る。ゴミは平気で路上に捨てられる。大きな動物の骨が放置されて悪臭を伴うこともしばしばだ。真っ黒な排気ガスと砂塵で息が出来ない。マンホールがぽっかり空いていて、その中では男たちが朝っぱらから酒を飲んでいる。

ウランバートルという街のせいか、それとも肉の食い過ぎか、酒が入っているのか、男たちは非常に短気で、口論や暴力が至る所で見られる。主要道路の交差点で三人の運転手が車から出てきて三つどもえの喚き合い、そして殴り合い。昼間から酔っぱらった挙げ句、血まみれの顔でぶっ倒れている若者。女性への暴力や公然のセクハラも日常の出来事だ。
車の運転ともなると、男たちはあたかもティーンエイジャーが運転免許を取っていきなり何かの権力を獲得したかのような感覚で運転するものだから危険極まりない。見た限りでは信号の一部と一方通行以外に交通ルールは存在しない。歩行者を見ても一向にスピードを落とす気配がない。むしろ加速して威嚇しているようだ。従って、青信号だからと横断歩道に歩み出るのは命に関わる危険な行為に他ならない。

これも社会主義体制崩壊後、市場社会へと急激に変化している不安定な社会の仕業なのか、それとも彼らが誇りに思うチンギス・カン以来の力の伝統なのか。気のせいか、男たちはみんな肩を怒らせているように見える。
モンゴルでは高度な教育を受け、キャリアをもつ女性が増えているという。ロシア人が残していった汚染の一つであるウォッカに溺れ、家庭内でも暴力を振るう男たちに愛想を尽かし、彼女たちは一人歩きを始めた。彼女たちの間では離婚も稀ではない。
そんな環境の中で、多くの家族たちが平和に、賢明に生き延びている光景も見られる。長く暑い一日の終わり、日が沈んで涼しくなると、近所の家族たちが部屋から出てきてアパートの玄関前に集まって来る。彼らがお互いを見る眼差しには大らかな愛情が感じられ、言葉を理解出来ない私にも伝わってくる。特に子供たちに対しては誰の子供であっても優しく楽しく接する大人が多い。彼らの間では家族というものが至上の宝なのだろう。
この街のインナーシティーはこれらの全てが混在する一見不思議なスペースだ。が、一歩引いて考えると、先進国や発展途上国を問わず、これらの光景はどこの国にもあることに気づく。おそらく私が文化面での多少の違いに気をとられ、錯覚を起こしているだけに過ぎないのだろう。
それにしても、この生活の臭いが強くたちこめる街中に少々疲れてきたことも確かだ。だから広大な草原へ行く予定を立てている。草原のただ中に住む人々の生活には興味があるからか、それとも人間の生活から離れて、だだっ広い草原の真ん中に座って朝日と夕日と星を見たいからか。それ自体を解明するのが楽しみだ。
2004年07月10日
祭典前夜

モンゴル最大の祭典、ナーダムを三日後に控え、私たちが到着したばかりの街は活気に満ちていた。幸い今回の宿もホテルではなく、間取りの広いアパートを借りることになった。多くのホテルと観光客が集中する中心街から暫く歩いた場所で、周囲は一般市民の住宅街だ。市場もすぐ近くにある。外国人はたまにしか見かけない、ウランバートルのアーバンライフのただ中にいるという実感がある。
ナーダムは相撲、乗馬、弓矢などを競うモンゴル版オリンピックとも言える競技大会が中心だが、モンゴル人たちにとっては大切な祭日であり、人によっては一週間の連休でもある。正月よりも大きな祭日週間といっても良いだろう。近所の市場はナーダムの数日前から祭日を祝う料理の準備をする人たちで賑わっていた。アパートの玄関から少年がお金を握りしめて飛び出していく。数分後、彼はパスタ二袋と正体不明の食材を持ってアパートビルの中に飛び込んでいった。使いっ走りとはよく言ったもので、私にはどこか懐かしい風景だが、アメリカでも日本でもそんな光景は近頃全く見た覚えがない。
ナーダムの前夜、アパートの門前で夕涼みをしていた私の前に一台の車が止まった。太った中年女性が大きな買い物袋を下げて降りてきた。それに続いてその亭主と思われる男性が一頭の動物を車から引きずり出した。生きた山羊だった。そして、彼らは近所の人たちの手助けを借りてその山羊をアパートの一室まで引きずり上げたのである。通常のアパートが屠殺場になり得るとは想像もしなかった。新鮮な肉であるには違いない。しかしその後三日間、この山羊の死臭がアパート中に充満したのには大いに閉口した。

モンゴル人の食べ物は主に肉で、大量の山羊、羊、馬、牛などを消費する。市場の周辺には動物の肉の臭いが充満している。ボロボロのロシア製ワゴン車の荷台には頬肉まで削がれた馬の首が横たわって笑っていた。大きな骨が路上に捨てられていたり、肉売りの露店のテーブルの下には山羊の首がごろごろ転がっていたりするのは通常のようだ。そのテーブルの上にはありとあらゆる肉と内臓が転がっていて、人々は喜々として雑談しながらそれを品定めをし、買っている。私たちの感覚では壮絶な風景と言わざるを得ないが、日本では頭付きの生魚やまだ動いている伊勢エビなどが新鮮な食べ物だと見なされるのだから、それと同じ感覚だとも言える。
2004年07月04日
ミステリアスなシベリア

ユーラシア大陸をさらに東へ。6月29日、シベリア横断鉄道でモスクワを出発した私たちはバイカル湖の畔にあるシベリア随一の都市、イルクーツクへとやって来た。列車がこの終点駅に到着したのは7月3日、朝九時半だった。
イルクーツクから車で約一時間、バイカル湖岸を走って着いたのがリストヴィアンカという小さな湖畔の街。湖から丘へと登る道路沿いの集落の中に私たちの宿がある。バイカル・カルチャー・センターとアート・ギャラリーに隣接したログキャビンがそれだ。

その周囲は遅い初夏の新緑が爆発したようだ。淡い緑の野草。紫、白、黄色、オレンジ、ピンクの彩りで野花が咲き誇る。その間を強い鉄分を含んだ小川が流れている。草地を挟む丘には針葉樹と白樺が濃く茂り、風が吹くと緑に波立つ。そんな景色の中にバイカル湖が冷たく広がり、広大な水面からの靄の向こう、五十キロ彼方の対岸には山々が連なっている。
バイカル湖は地球上の淡水の20パーセントを有する巨大な湖である。水面面積は大きくないが、その深さは1,600メートル以上に及び、世界で最も深い。
地殻変動でアザラシが閉じこめられて世界でも稀な淡水生物に進化した。その水は清々しく澄んでいた。湖底に生息する微生物やエビが有機物を処理する役目を果たし、水質の維持に貢献しているという。湖畔を歩くと風が寒い。夏の盛りでも水温が15度前後の巨大な水冷機が目の前に横たわっているからだ。冬の厳しさが初夏の湖を見ているだけでもゾクゾクと感じられる風景だった。残念なことに、環境保護に関しては全く粗野なロシア人観光客たちが美しい景観が見られる水辺でも、そして波止場でも平気でゴミを捨てていた。

人々の表情はむしろシベリアの小さな街の方が穏やかだという印象を受けた。この宿の料金は朝食込みだが、それを食べるのはお隣のおばさんの家だった。お早うございます、と入っていくと笑顔で出迎えてくれ、さあさお食べなさいといろんな料理を持ってきてくれる。ロシアン・ホスピタリティーというのは、これなのだと初めて知った。おばさんの家の裏手には自らの手で耕した畑と菜園がある。やはりジャガイモが最も広い面積を占めていた。主にトマト栽培用の温室もあった。摘んだばかりのレタスが二種類、朝食のテーブルに出る。
おばさんの家のお隣には老婆が孫娘、孫息子と住んでいる。芋畑で働いていた彼女は、写真を撮って良いかどうかと尋ねる私たちを自宅に招いてくれた。長い長い冬の間、彼女は農民から画家に変身する。シャガールのようなモチーフで、自画像とごく身近な対象を素朴だが意外に現代的なタッチで描いている。
アート・ギャラリーは残念ながら一年ほど前に焼失してしまった。カルチャーセンターの世話役さんは自らの手でその再建に忙しい。焼け残った絵の数々は臨時施設で展示されている。その内容には全く期待していなかったのだが、覗いてみると素晴らしい発見がそこにはあった。シベリアの人々のイマジネーションは実にミステリアスで、時にサイケデリックでさえある。今も展示されている絵の中にはオリジナルのアイディアとメルヘンや童話のようなデザインに富んだ作品が多い。ロシア独特のイコンを描くテクニックをモダンに応用し、曼陀羅のようなデザインにも目を見張った。
ほんの三日間ではあったが、リストヴィアンカでの滞在で美しくも厳しい自然の中で営まれるシベリアの人々の、静かでミステリアスな生活をほんの少し垣間見る事が出来たように思う。
