2004年09月24日

古城のオアシス

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バスで麗江を出発した私たちは、大理に関してはそれほどの期待を抱いてはいなかった。四川省と雲南省を代表する「名所」からは、ある程度の楽しさを得ることは出来ても文化や人々の生活から大きな発見は無かったからである。大理では一体何を見、何を得ることが出来るだろうか、と少々不安さえ覚えていた。大理滞在は一泊か二泊に止め、中国最後の訪問地である昆明に落ち着こうかと考えたこともあった。

大理の古城を訪れる人々は、古い街並み、背後にそびえる蒼山や前方に広がる湖、耳海などの自然、大理王国時代に建てられた三塔などを主に楽しむ。「外人通り」と呼ばれる道には西洋人のトラベラーを対象としたゲストハウス、レストラン、カフェ、商店が集中するスポットがあり、外人観光客で賑わっている。そこには中国人観光客も押し寄せ、西洋人のトラベラー気分を味わっていた。

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そんな中で私たちの関心を捕らえたのは、現地の若者たちが静かに定着させつつあるカルチャーだった。この若者たちがごく自然に築いたこのコミュニティーは、現地の中国人と中国在住の西洋人との集合体である。中国人の若者たちの中には現地出身者もいるが、北京や上海から移り住んできた人たちが多い。移住してきた若者は口を揃えて「中国国内のいろんなところに住んだけど、面白いと思う人々に出会ったのはここ大理だった」と言う。私たちにとってもこれほど自由で、しかもほとんどの中国人とは異なる人々は彼らに出会うまでは見なかった。

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この中国と西洋のハイブリッド集団の中で、彼ら独自の思想と生き方、音楽、アート、人付き合いや会話が生まれ、一人歩きを始めた。この関係は、中国人の若者たちが「外部」、つまりアメリカやヨーロッパのトレンドや考え方を受け入れているという一方的なものでは決してない。彼らの関係はあくまでも同等であり、お互いから学びサポートし合うことでこの街独自のカルチャーを形成しているのである。

大理は観光地として広く名を知られるわりには非常に静かな街である。さらなる開発への動きは確かに見られるものの、街全体が観光開発の対象となった麗江などと異なり、賑わっているのは今のところ街の一部だ。この環境で大理の若者たちは主に観光関連の商売をしている。つまり、ゲストハウス、バー、カフェの経営しているわけだ。ここで面白いのは、彼らはコマーシャリズムの波には乗ろうとはしないことで、自由を確保出来ればそれで満足なようなのだ。

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その結果、私たちのような訪問者にとっては非常にアットホームで暖かい環境に受け入れられるという印象がある。数週間中国国内を渡り歩いた後大理に着いたトラベラーにとってはなおさらだ。通りかかる旅行者がこのコミュニティーと接触し、同調する機会を持ち、情報交換が行われる。私たち旅行者の休息地として長年続いて欲しいと思うオアシスがそこにあった。

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2004年09月17日

リンゴとひまわりの種

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雲南省は山が連なり、豊かな自然と肥沃な土壌に恵まれた土地だ。広大な中国の中でもユニークな特徴を持つこの一帯は、チベット、ミャンマー、ラオス、ベトナムとの国境を持ち、漢民族以外の文化を見ることが出来る地域でもある。点在する街と農村には様々な少数民族がそれぞれのコミュニティーを持ちながら、中国国民として生活している。雲南省にはシュアン、フイ、イ、ミアオ、チベット、モンゴル、ヤ、バイ、ハニ、ダイ、リス、ラフ、ワ、ナシ、ジンポー、ブラン、プミ、ヌ、アチャン、ジヌオ、ドルングなど25種族の少数民族が住んでおり、その中で麗江旧市街の観光産業に関わっているのはほとんどがナシ族だが、郊外の農村にはバイ族も住んでいる。

麗江の西南約75キロにあるバイ族の村、九河ではちょうどその日市場が開かれていた。市場では村人が必要とする日常品が売買されていて、特に民族特有と呼べるものはない。変わったものと言えばそこに迷い込んだ私たち自身であろう。そんな私たちを見て人々は屈託のない笑顔を見せてくれる。「試しに食べてご覧なさい」と手招きされて、私はおばさん二人が売っているコンニャクを食べてみた。一皿四切れで五角(日本円で五円)。日本のコンニャクよりも柔らかくジェリーの様で、大豆の甘さを少し味わった後、噛むまでもなく口の中で溶け、香辛料の後味が残る。

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市場を歩いていると子供たちが騒ぎ始め、私たちはいつの間にか大勢の子供たちに囲まれてしまった。デジカメを向けるとこれほど楽しいことはないかのようにはしゃぐ。子供たちに撮したデジカメ画像を見せるともういけない、次の画像に入りたいと大騒ぎになる。小学校の休み時間だったのだろうか、それとも授業を抜けて来ていたのか、先生が待つ校門の前に辿り着くと名残惜しそうに教室へと戻っていった。

穏やかな初秋の一日。ここ数日は雨続きだったが、この日も雲は多いものの太陽が顔を見せている。秋の収穫、特に米の収穫は間近だ。古い家屋の前では人々が集まって話し合っている。村全体が忙しくなる前に人々がゆったりと集える一時と言ったところだろうか。

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ナシ族の村、拉市は九河から麗江への帰り道にある。村はリンゴ樹園の中にあるのかと思うほどリンゴの木が多く、その枝は赤や緑の実で重い。昼下がりの静かな時間、女性たちは村の中心にある腰掛けのある交差点に座り、手仕事をしながら井戸端会議に花を咲かせていた。ここでも村人たちは東洋人の男とアメリカ人女性というおかしなカップルに警戒心を感じさせない大らかな笑顔を見せる。

二人の老婆が彼女たちの自宅へと招待してくれた。私たちが訪れた二軒の家はそれぞれ立派な門を持っていた。門を過ぎ、20メートルほど歩くと家屋に囲まれた中庭がある。門に近く、北向きに建てられた小屋は豚や鶏の家畜が飼われ、番犬が彼らを守り、中庭の奥に人間が住む南向きの母屋が建っている。南に向かって左右の建物には子供たちとその家族が住む。

中庭は綺麗に整理されていて、クルミの木などの植物が鉢に植えられ、その広い地面にはトウモロコシとひまわりの種が干してある。老婆たちは中庭を見渡す縁側に私たちを座らせ、新鮮なリンゴとひまわりの種を勧めてくれる。大量のひまわりの種を私たちのポケットにまで突っ込んでくれた。家畜と番犬に囲まれて、私たちは彼女たちの話を聞く。

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この二人の老婆それぞれの長い人生は、中国の近代史並びに現代史を反映して変化に富みかつ複雑である。彼女たちは農民であることで文化革命を乗り切り、亭主が亡くなった後もそれぞれの家族を守りきった。今は子供や孫たちに囲まれながら農作業に励み、静かにゆったりと過ぎる時を楽しむ満足な生活を送っているようだった。何にも増して笑顔が彼女たちの幸福を語っていた。

Posted by taro at 18:55 | Comments (1)

2004年09月14日

赤い灯り

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雲南省の麗江へは峨眉から中継点の挙枝花へ夜行寝台列車で向かい、さらにバスで8時間揺られて辿り着いた。麗江の旧市街はその風情ある街並みと1996年の震災でもその大部分が崩壊しなかったこの地方独特の堅固な家造りで知られ、峨眉山と同じくユネスコ世界遺産に指定されている。震災で崩れたのは新市街の建物がほとんどで、その後中国政府は旧市街の建築方法を取り入れて新たに開発に取り組んでいるほどだ。

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雲南省の人口の五割は漢民族、その他はバラエティーに富んだ少数民族が共存している。高瀬川が流れる京都の木屋町を思わせる街並みを、それぞれ美しい民族衣装をまとった女性たちが歩き回るさまは、中国の膨大な文化背景をまざまざと感じさせる。旧市街の屋根屋根を見下ろす周囲の丘からの景観を目にすると中国の歴史を数百年遡ったような感覚に捕らわれる。夜になると無数の赤い提灯に灯りが点り、川の流れにも灯りが映っていかにもアジアらしい、由緒ある街の風情を見せる。

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石敷きの歩道を歩くと、丘の上から見た旧市街とは全く別の顔が現れる。かつて歩道に面した古い家屋の一階は、生活必需品を売る店がぽつぽつとあっただけだった。今はそのほとんどがお土産屋、食堂、カフェ、ホテルや旅館になっていて、その前を観光客が群れを成して歩き回り、買い物をし、食事をするだけの街になっている。この状況を最初目の当たりにしたときは「何が世界遺産だ」と憤りさえ感じた。しかし、この変貌にはこの土地独自の理由があった。

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麗江周辺の山々は、玉龍雪山、虎跳峡や中国政府が「正式に定めた」シャングリラなど素晴らしい自然と景観を持つほか、木材の産地として知られていた。しかし繰り返し発生する洪水と土砂崩れの原因は木々の過剰な伐採によるものだとされて以来、中国政府は木材産業をほぼ全面的に禁止し、逆に植林政策に転じたのである。その結果として起こった失業問題を解決するために麗江旧市街の観光開発を進めたというわけだ。

世界遺産に指定され、ワールドクラスの観光地となったこの街は中国の人々の誇りでもある。街を訪れる観光客はお土産を買い、民族衣装をまとった女性たちと記念スナップを撮って、夜は酒場通りで酔いしれる。絵葉書や写真集で見る古い白黒写真だけがこの街の真の美しさを物語っているように思う。

Posted by taro at 17:50 | Comments (0)

2004年09月11日

四川の名所巡り

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四川省の首都、成都からバスで雲南省に向けて出発してからは名所巡りの旅になった。まず世界最大と言われる大仏があり、二千以上もの仏像が崖の側面に彫られていることで知られる千仏峡にも近い楽山へ。ちょうどその日が二年に一度行われる大仏祭りがあり週末だったことも手伝って、大仏には大勢の中国人観光客が押し掛けていた。大渡河と青衣江が合流しミン江となる地点にそそり立つ大仏そのものは、「仏像の命は顔である」と子供の頃言われて育った私にはあまりぱっとしないただでかい石仏でしかなかった。千仏峡でも二千ある筈の仏像のうち六十数個しか観ることが出来ず、がっかりだった。

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楽山で最も良かったのは街の人々だ。フレンドリーでお土産を押しつけることもない。小さな食堂では近所の住人と同じように接してくれる。大仏祭りは日本の灯籠流しによく似た祭りで、三河の合流地点付近から大仏の前に流れるように花を模した灯籠を三隻の船から流す。橋の上で見ていた私たちに現地の人が話しかけてくる。警備の警察官もリンに英語で話しかけ、彼女だけ橋の欄干で写真撮影を許してくれたりした。フレンドリーなだけではなく、おっとりとした優しさを感じた街でもある。

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次に訪れた峨眉山も四川西南部の名所として、また1996年にユネスコ世界遺産に登録されて有名である。標高3,099メートルを越え仙境とも呼ばれたこの山には仏閣が点在し、渓谷や滝や森を散策出来るところだ。今では数カ所の拠点までバスで行け、山中の拠点を結ぶリフトとロープウエイが走っている。案の定清音閣や伏虎寺などの要所には中国人観光客の大群が押し寄せていて、確かに綺麗なところではあるのだがそれ程味わいを感じる場所ではなかった。中国では名所らしい景観と静けさを楽しめるのは、交通の便が無く辿り着くのに労力を要する場所へ行かなければならない。峨眉山の場合、それは数千段の石段を何時間も上り下りする道を意味する。多くの欧米人トラベラーは、まずバスで中腹まで行ってからハイクするのが一番だと言う。一日ではこの一帯を一日で回ることは不可能だが、各寺院に宿泊所があるので数日を山中で過ごすことは出来る。

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中国人観光客に疲れたからか、これらの名所自体がそれ程説得力の無いものだったのか、私たちの興味をそそるものは特に無かった数日間だった。中国の名所と自然は世界でも有数の美しい場所であると思う。しかし、北京やチベットでもそうだったように、中国国内の観光産業開発については少々観察出来たと思う。どの国の名所にも必ず開発しすぎた場所がありがちだが、現在の中国では過度な開発がほとんどでその場所の本来の素晴らしさが削り取られている印象が強い。この国の真価を見るには少々遅く訪れたかも知れない、と感じることが多いのだ。

Posted by taro at 22:57 | Comments (1)

2004年09月04日

レティングの風

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私は夕暮れ近いラサを早足で歩いていた。小型のデイパックは買い込んだ野菜やカップラーメン、菓子パン、スナックなどの食料で一杯だった。そのわずか一時間ほど前、私たちはナムツォ湖からレティングを巡る三泊四日のツアーを終え、北京東路のバナクショル・ホテルへ帰還。そして翌日の朝、再びレティングへと舞い戻ろうとしていた。あの広々とした谷間を望む山の中腹にあるチベット寺院へ。

ツアーでは1980年代型トヨタのランドクルーザーに乗ったが、今回は公共バスに乗っての単独の旅だ。私たちとツアーを共にしたオックスフォード大の学生、ポールも一日遅れて再びレティングへ向かうと言う。

翌朝8時、私たちはラサの東バスターミナルから出発。チベット人と中国人で満員のバスは、ラサ河に沿って東に走り、そしてラサ河の支流をたどって北へと向かう。ラサを発って8時間、でこぼこ道と六人の下品極まりない中国人の乗客と尻の痛さに悩まされた後、私たちは別世界に降り立った。終点の村からパックパックを背負ってレティング寺院へと向かう。標高4310メートルの土地では未だに息が荒くなる。

レティング寺は、かつてチベットの内政上重要な地位にあった寺院だ。理事を務めた高僧、レティング・リンポチェの生地として知られている。この場合「理事」とは、ダライ・ラマ14世の幼年時にチベットの摂政を執り行う重要な役目を意味する。

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この寺はまたこの地域で最大の規模を誇った。ラサのポタラ宮殿の小型とも言える建物には数百人の僧が生活し、活気に満ちた寺院だったという。1958年、人民解放軍の砲撃によってそのほとんどが破壊されて以来、ここは数十人の僧が辛うじて活動を続けるものの、未だにその大部分が廃墟である。(上の写真は1948年に撮影されたもの。)

寺の小さな宿泊所を管理、運営する二十代の僧たちは、前日の朝別れたばかりの私たちがまた突然現れたのに目を白黒させながらも大きな笑顔で迎えてくれた。観光客を見るのは稀で、訪れるのは巡礼者と少数のトラベラーだけである。私たちは持参したナスとタマネギを渡して肉抜きの夕食を頼んだ。夕食が出来るのを待つ間、私たちは遙か谷底を走る川の流れ、鳶の声と風の音に耳をすませた。時折聞こえる鈴の音は山のどこかにいる牛だろう。聞こえるのはただこれだけだ。

この寺院を囲むのは実に美しい杜松(トショウ)の古木である。この林の木々は、その一本一本が自然と人間たちが数百年をかけて形作った見事な盆栽でもある。一般に盆栽という芸術は木と人間が共通の美を追究するものだが、これらの杜松の木たちを美しくしようとする意図は全く無かった。林の周囲に住む人間たちは、火をおこすためにその枯れた枝を必要とし、その葉は仏に祈る際の香のひとつとして使い、高地独特の厳しい自然が幹と枝を整えてきた。これらの木々の間に立ち目を閉じると、この場所の不思議に優しくも力強いエネルギーを体で感じるのだ。

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毎日午後には付近の尼寺や山の頂上に近い小さな寺院へとハイクした。尼寺ではバター茶をごちそうになり、タンカ画やレティング・リンポチェの像を見せてもらった。尼たちはきゃあきゃあと騒ぎながら私たちの撮影に応じてくれた。

レティング寺と飛び交う鳶たちを見下ろす小さなゴンパには五十五歳の僧が、さらに上方の建物には二十八歳の僧がそれぞれ独りで住んでいた。若い方の僧が住む建物は、ダライ・ラマ十四世が再びこの地を踏む日のためにと書斎と寝室が小さく飾り気はないもののきれいに保存してあった。この若い僧は、建物の片隅で生活しながらこの場所を守っているのだ。

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この短い滞在の間、宿泊所の若い僧たちとはすっかりうち解けて新しい友達と呼べるまでになった。彼らの好奇心には限りが無く、デジカメやコンピュータ、英語、アメリカでの生活など、あらゆる質問を投げかけてくる。彼らの家族のことも話してくれた。僧たちは料理や宿泊部屋の掃除の他にも、新しい部屋を建てたり家具を作ったりしている。仕事をする間もチベットの民謡を歌い、果ては甘ったるいハウスミュージックのテープをかけ、腰を振って愛嬌を振りまく。

彼らの無垢で清々しい笑顔と谷間を吹く身が引き締まるような風、そして杜松の林が醸し出すこの土地の不思議なエネルギーが私たちをこの場所に引きつけたのだと思う。出発の朝はお別れをせずに村のバス停へと下った。遅いバスを待つ間、寺院の方からお勤めの時間を知らせるチベットのシンバルの音が聞こえたのに続き、あの民謡のテープが聞こえてきた。僧たちの一日が始まったようだ。

Posted by taro at 19:34 | Comments (1)

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