2004年12月30日

アジアの海が揺れた日

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クリスマスの日、私たちは灯台の南側にあるヴィジンジャムという名の小さな漁村へ散歩に出かけた。村人たちは主に貧しい漁民で、その生活は海からのささやかな恵みだけで支えられていた。彼らは煉瓦の基礎の上にココナッツやバナナの葉で編んだ小屋に住み、その小屋は波打ち際ぎりぎりに並んでいた。あの日、小さな湾の南側では、クリスチャンの村人たちがお祭りのようにクリスマスを祝っていた。ティーンエイジャーは大音量で音楽を流し、男の子は砂浜で集まってサッカーに耽っている。女たちが笑顔でそれを見守っている。皆表情が明るく幸せそうで、素晴らしい天気に恵まれた祭日を祝っていた。しかしその翌日、祭り気分は恐怖に変わる。村は押し寄せる波にのまれ、この漁村はわずか数分で全壊した。

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この小さな漁民の村ヴィジンジャムが破壊されていた頃、そこからほんの2、3キロ北のコヴァラムビーチで、私たちはそんな惨事が起こっているとはつゆ知らず、いつものようにジャーマンベーカリーの二階から浜辺を見渡しながら朝食を食べていた。砂浜ではパラソルが開き、人々は寝椅子を借りて日光浴や読書や波乗りを楽しんだり、フルーツサラダを頬ばっていたりした。突然、目前で波の足が長くなり砂浜にいた人たちをずぶ濡れにしてしまったのだ。彼らは驚いて波と共に引いていくサンダルやバッグやブランケットを追いかける。波は普段に比べて決して高くはなかった。しかし、波が奥深く海岸沿いの歩道にまで達したのは普通ではなかった。それでもあわてる人たちの様子がちょっと滑稽で笑ってしまったほどだ。

朝食の間、私たちは波の様子を見続けた。ビーチ沿いに軒を並べる店に危険なほど近づくかと思うと、数分後に50メートルほど引く。このパターンが続くのを見ながら、この異常な波の原因を話し合った。その日がたまたま満月だったことからそれが原因かも知れない。いや、どこかで起こった地震の影響だろうか。この憶測が当たっていたとはその時の私たちには全く予期も出来なかったことである。

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結局この現象はその朝と午後一杯続いた。ライフガードは警戒はしていたものの、それ程緊迫した様子もない。人々はその後も砂浜で寝そべったり澄んだブルーの海で泳いだりしていた。現に、海は前日よりも穏やかでさえあっので、リンは朝食後のスイミングを楽しむことにしたほどだ。彼女は20分ほど泳いだのだが、潮はいつものように流れが強いとは言え、数日前ほどではなかった。彼女はこの湾の潮の流れの危険な速さには慎重で、水の中にはそれ程長くいたくはないと言っていた。浜辺に上がってブランケットで横になり、本に夢中になり始めた彼女にだったが、再び波が長くなったのを見てあわてて避難。暫く前は他の観光客が濡れてしまったのを笑っていたのに、と苦笑してしまった。

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現地の住民はモンスーンの季節に高くなる波には慣れてしまっているのだが、その彼らさえこの季節にこんなことが起こるのは初めてだと言う。午後1時頃、私たちはビーチに面したレストランでランチを食べることにした。南側の漁村の男たちがコヴァラムビーチに残したボートを確認するために息をせき切らせて走って来る。明らかに何かが異常だった。数組のチームに別れた男たちがそれぞれボートを浜辺の高いところへと引き上げる。波の昇降はそのときも続いていた。観察すると、波打ち際の地点のずれが大きく変化していることに気づいた。昼食後、店が並ぶ歩道に沿ってさらに北のビーチへと歩くことにした。地震があり、チェンナイ(マドラス)で多くの死傷者が出たという店の人たちの話声を聞いたのはその時が最初だった。なるほど、何か大きなことが起こったことは確かなようだが、この海で何が起こっているのか。私たちはそのときもまだ状況を把握していなかったのである。それと時を同じくして、ライフガードと海岸警備員たちが人々を海から揚げ、ビーチは立ち入り禁止となった。

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私たちがようやく正式なニュースで情報を得たのは、津波がスリランカとチェンナイを襲ったというBBCの報道が最初である。その時点での犠牲者数は千人。そして私たちがその全貌を知ったのはその数日後だった。12月26日、地球はあの神戸地震の300倍という飛んでもなく膨大なエネルギーを一気に放出し、余震は今も続いている。

コヴァラムビーチはなぜかこれらの被害を免れていた。ランタ島の友人たちの安否を思い(有り難いことに彼らは無事である)、インドの旅を終える場所だと考えていた海岸沿いの都市チェンナイの様子が気遣われた。日を追う毎にアジアでの犠牲者数と被害の規模が倍増していく。私たちがこうしてここにいることがとてつもなく幸運であることを思い知らされる。そしてその北と南では被害が出ているにもかかわらず、なぜ私たちがいたコヴァラムの海岸では大した被害が無かったのかと不思議に思われるのだ。津波自体も、死の可能性も、被害も私たちが直接体験することはなかったのだから。

コヴァラムビーチから西海岸に沿って北に向かい、現在私たちはコチという街にいる。この街は本土から橋で渡れるほど近い島にあるのだが、ここでも被害は少々あったようだ。ここに着いた12月28日、島と本土をつなぐフェリーは運航休止となっていて、漁船も出ていなかった。

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この街に来てから、街のホールやレストランでは救済援助のベネフィットコンサートが開かれたりしている。各コミュニティーではこの大惨事の救済と援助に乗り出す動きが活発化しており、海に流された必需品を調達すべく、自ら寄付を集めるヴォランティアたちも多く見かけるようになった。最も必要とされているのは衣服、靴、食料、調理具などである。現地の人々によれば、政府や宗教団体によって集められた募金は、終わりのない政治的な動きの中で蒸発してしまい、実際に援助に当てられるのは極めて遅いという。この人道的危機に際して、「先進国」と呼ばれる国々がいち早く支援行動を起こし、速やかにそれを実行して欲しいと望む。被害者たちへの援助は日本やアメリカからでも出来る。募金される場合は、赤十字やNGOなど信用できる援助団体を通じての送金を呼びかけたい。

私たちは今も何ごともなく津波から免れたことを幸運に思い、有り難いという気持ちで一杯である。この恐るべき災害で家族や友人たちを失った人々に心からお悔やみと祈りを送りたい。

Posted by taro at 15:17 | Comments (2)

2004年12月25日

熱帯のクリスマス

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「ゴアとケララ、あなただったらどちらへ行きますか?」アーメダバッドに滞在中、多くの人にこの質問を投げかけた。誰もがケララを推薦した。ケララ州はインド亜大陸最南端の西側に位置する熱帯地域で、アーメダバッドの人々が言ったように海岸沿いの地域は豊富な植物による緑、空と海のブルーが美しい。そしてここはココナッツの国だ。数日前までいた北インドとは気候も食べ物も全く違う。インドの多様性を目と肌で再び体験した。

ケララに外来の人々が訪れ始めたのは3000年も前だと言われ、商人や船乗りがスパイスや象牙を求めアラビア海を渡ってやって来た。16世紀、ヨーロッパ諸国の植民政策が始まると、ポルトガル、オランダ、イギリスが香辛料貿易の主導権を巡って争った。バスコ・ダ・ガマを代表とするポルトガルからの宣教師たちを受け入れ、キリスト教の影響も未だに根強く残っている。インドと西洋の融合が見られるユニークな文化がここにはある。芸術と教育に力を入れる州政策のお陰で、インドで最もプログレッシブな地域でもある。

私たちが最初にやって来たのはコヴァラムというビーチタウン。空港からダッシュボードにガネシャを祀ったプリペイドタクシーとマリア像のステッカーを貼った三輪タクシーを乗り継げばそれ程遠くはない。この宗教的なミックスはインド北部では見られなかったもので、インド文化の深さを思わせる。

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某ガイドブックによれば、1960年代にはヒッピー天国だったが今は寂れた印象を拭えないとあったが、実際に来てみると、多少の開発が進み値段もアップされてはいるものの、かえって静かにまったりするには絶好の小さな町である。「ライトハウスビーチ」と呼ばれる砂浜は、小さな湾の南側にある灯台から北に2キロほど広がり、海に突き出た岩場が北に隣接する「ハワービーチ」との境となっている。ビーチ前の歩道に沿ってホテル、レストラン、土産店が連なっている。インド古来の「アユルヴェディック法」によるハーブ薬店、マッサージやヨガセンターもある。海岸から丘に上る斜面はココナッツで覆われ、その中に現地の人々の住居、さらにレストランやホテルがある。

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ライトハウスビーチは休日前後のハイシーズンにはかなり賑わう所だが、その環境でゆったり過ごしていれば大して気になるものでもない。浜の砂質はきめが細かくしっとりとソフトで肌触りが良い。海水も滑らかで鮮やかなトルコ石の色に澄んでいる。波はタイの島の海岸に比べれて荒く、午後から高くなって波に乗って遊ぶにはちょうどいい具合だ。アラビア海の潮は水流が速くしかも強力で、しばらく浮かんでいるだけで深い沖へと流されてしまう。それはこのビーチだけではなく、近辺の海岸も同じらしい。そのため、ここでは常勤のライフガードが警官のような制服で頑張っていて、海に入る人たちに忙しくホイッスルを吹いている。赤道近くだけあって暑いが、穏やかな潮風が涼しく、何よりも空気が新鮮なのが有り難い。

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クリスマスのデコレーションは通常西洋や日本でも見るものもあるが、一般に大げさではなくひっそりと静かな飾り方だ。ケララでユニークなのは中が空洞になった紙製の星。表面にはパターンがくり抜かれているものもあれば、ホリデーシーズンのメッセージを印刷したものもある。中に電球を灯して天井や軒下に掛けるとほんわかとしたムードを醸し出し、波の音や海風とともにエキゾチックなクリスマスを演出してくれる。

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クリスマスの当日、朝から近辺の漁村の男たちが船を連ねてコヴァラムのビーチへと大挙押し寄せてきた。観光シーズンの盛りではあっても前夜までは静かだったビーチは大いに賑わう。彼らはこの湾で泳ぎ、水辺を走り回り、砂の上を転がり、アイスクリームを食べ、西洋人の若い女性をからかって(ここに限らずインドの男はどこでも同じで、欲情剥き出しの目を白人や日本人女性に投げかける)、一日中子供のように遊びまくった。聞けば、ごく近くの漁村に住んではいても、彼らがこうして一日中仕事をせずに遊ぶのは年に一度、このクリスマスの日だけだという。

アメリカのクリスマスシーズンは10月末日のハロウィーンが過ぎた翌日から本格化する。このクリスマス商戦が旗揚げすると、メディアはもちろん街のショッピングモールや商店街はこれでもかと言わんばかりのコマーシャルとデコレーションに染まる。そんな環境では嫌でもそれに応じなければならないような気分になってしまい、仕事とショッピング、パーティーに追われる忙しない生活を強いられることになる。今年の私たちのクリスマスは、それを全く感じることが無く、南インドのトロピカルな環境の中で静かに過ぎていった。正直言って、その方が良いのではないかと考えている。贅沢を言えば、家族や友人たち、近所の人々と祝いたかった。この休日はそのためにあるようなものなのだから。

Posted by taro at 15:02 | Comments (1)

2004年12月09日

サンデーマーケット

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毎週日曜日の朝開かれる「サンデーマーケット」はアーメダバッドの中心を流れるサバルマティ川を渡るエリス橋の傍の川岸で開かれる。エリス橋の袂周辺は、普段は土手と水辺の間に広い空き地と「ジプシーピープル」の居住地がある汚いだけの場所のだが、日曜日になると大勢の人々で賑わうという奇妙なところである。橋の袂は新しい家具や家庭用品を売る屋台と市場に出入りする人々で混雑していた。そしてさらに川に近づくと、この市場でもっとも興味深いエリアに入り込む。

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川縁には崩れかかった煉瓦建ての小屋、テント、コンクリート製の洗濯場がその一角にあって、生活の臭いが漂っている。対岸を望む水辺を見ると、川の傍での生活が見て取れる。子供たちが凧揚げをして遊ぶ。老人たちはゴミの中で何かを掘り出している。その直ぐ傍で何人かは大便中だ。ブタの一家がその間を歩き回り餌を漁っている。売る者はプラスチック製のシートを広げ、その上に商品を並べる。買う者はその間を歩き回って物色する。乾燥した土埃が舞う。強烈な12月の太陽の下で繰り広げられるインドの日曜日の光景だ。

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ここで売られているものは新品の日用雑貨から中古品やアンティークなど。どんな「中古品」なのかと訊かれたら、「バリエーションに富んでいる」とか「ありとあらゆるもの」としか表現できない。あるいはこれらの物質が陳列されている様子を表現して「即席のインスタレーションアート」とも呼べるかもしれない。つまり、我々が日常生活で何気なく買い、使い、捨てるもの全てがゴミの中から手で掘り出され、中古品あるいは再利用品として売られているのである。

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売られている物の中で、明らかにアンティーク以外のものは、全てゴミから緻密とも言える驚くべき分別作業の結果採取されたものだ。その細かさは切れていない輪ゴム、安全ピンや押しピン、フタ付きのガラス瓶、メガネのレンズ、電気製品のコードや回路各種などに至る。壊れて機能しないものも、その場で修理できるものは直して売る。先進国にすむ人間の目から見れば驚きではあっても、この人々にとっては別に変わったことではない。使えるものは使い切る。壊れていれば直す。ゴミの山から再び売れるようなものは集めて分別する。彼らにはそれをこなす時間がある。

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一方、物色している人々は単に貧しい人たちが節約を目的として品物を探しているばかりではない。ここでは、一般の商店で今は扱っていない品物も売られているため、専門的な道具などを必要とする人たちにとっては掘り出し物を探す絶好の場所である。コレクターやコラージュアーティストにとっては最高の素材採集の機会だろう。NIDで同じく集中ゼミを教えているイスラエル人講師は木工による家具デザインやアートの専門家だが、彼は木工を始め古いが今も必要な中古の工具がふんだんに並べられているのを見て大いに感心していた。

この市場、聞けば同じ場所で千年以上も続いているらしい。今見るこの状況も驚きだが、これがそんなに長い間行われてきたというのも凄い。昔は一体どんなものが売られていたのだろうかと思いをはせるのも興味深い。その間、おそらく何物も無駄にされることなく全てのものを極限まで使い切ったのだろう。この人たちが今も水瓶や宗教的な偶像や道具を必要するのを見ると、千年の間も基本的な日常の必需品にはそれ程変化はないのかも知れない。

Posted by taro at 16:57 | Comments (0)

2004年12月01日

スモッグの中の魅力

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インド最大の産業都市、アーメダバッドは公害と砂埃と騒音に満ちた街である。しかし、これらの要素を拭えば(それ自体容易なことではないのだが)その背後にはちょっとした魅力が隠されている。この街は、かつてインド独立運動の間、ガンジーが活動の本拠地としたアシュラムがあったことで知られている。その名は旧市街と新興市街を分けるサバルマティ川にちなんで名づけられたものだ。

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アーメダバッドはインド西部グジャラット州に位置する。この地域には独自の言語と文字があり、人々の多くはグジャラット語、ヒンズー語、そして英語をこなす。この州は近年、暗いニュースで世界に知られることとなった。2001年のマグニチュード7.9の大地震で州西部のクッチ地区とアーメダバッド市に大きな被害を及ぼした。そして2002年には、乗客列車の放火で59人の犠牲者を出した事件が、イスラム教徒はその犯人として非難された。それが元でヒンズー教徒とイスラム教徒との間で大規模な紛争が勃発。その結果、千人以上が死亡、大勢の住民は街への帰還を恐れているという。幸いにも現在のグジャラット州における治安は至って平穏である。

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グジャラット州は事業家が多いことでも知られる。この気質がグジャラットを経済的に潤し、国内で最も産業が盛んな州に押し上げた。その直ぐ北に隣接するラジャスタン州では観光が主要産業であるのに比べ、この興味深い西海岸の州では観光客などの外来者がほとんど見られない。そのためか土産商人などが少なく、人々はむしろ人懐っこくフレンドリーである。

アーメダバッド市内には驚くほどソフィスティケートされた要素が多い。州と街の経済的な潤いを反映しているからだろう。レベルの高いサービスと商品を売る店が多く、そのクライアントは主に現地の人々だ。「スワティ・スナックス」というレストランは清潔でモダンなインテリアで現地のお金持ちたちを魅了し、伝統料理をコンテンポラリーなプレゼンテーションで提供している。この店の上階には「360ギャラリー」がスタイリッシュな家具やアクセサリーを展示していて、そのスペースを使ったアート展示会も行われている。アップスケールで上質のブティックもある。「バンデージ」はデザイナーであるインド人女性が経営する伝統とモダンを融合させたファッションが売り物だ。トレンディーなエスプレッソバーが新興市街に点在し、若者や家族で賑わっている。「CGロード」と呼ばれる目抜き通りには世界のブランド商品や高級品を並べている店や、高級レストランが軒を並べている。

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それにしてもこの街の公害はもの凄い。インド国内で最も公害がひどいと言われ、アーメダバッドの魅力をそぎ落とす要因となっている。特に大気汚染はインドのみならず、この旅で訪れた場所の中では最悪である。主要工業地帯であることがその原因のひとつ。他の都市圏で発令された三輪タクシーによる灯油の使用禁止法はこの地域ではまだ存在しない。それに加え、夜になると住民はゴミや木材を自由に燃やす習慣があり、その煙が市内に充満する。(酷暑の気候では摂氏15度の気温も寒く感じるらしく、暖を摂るためにたき火をするようだ。)結果として生まれる極度の大気汚染は、街灯の下で濃い霧のようにみえる。風が無い日などは耐え難いほどで、常に交通が発する噴煙のたちこめる街へとリクショーに乗って出かける気にはなれない。

私たちはこのような環境でしばしば咳き込み、深刻な公害に驚きもし、困惑しながらもこの街のベストを見つけようとしている。

Posted by taro at 20:40 | Comments (5)

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