2005年01月25日

エレクトロニクス・シティー

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昨年5月、私たちが旅に出たときにアメリカのハイテク産業におけるトレンドだったのは職場のポストを可能な限り海外へアウトソースすることだった。ハードウエアの生産は中国へ、そしてソフト開発のプロジェクトはインド、特にバンガロアへと送られていった。この街の名前はシリコンバレーの地方紙であるサンノゼ・マーキュリー・ニュースで頻繁に取り上げられていたし、社員が職場で交わす会話の話題になることも多かったため、そこがどんな街なのか、そこで何が起こっているのかについては深い関心があった。

バンガロアにはインドの他の主要都市と同様、高級レストランやトレンディーなパブ、本物のブランドショップ、スタイリッシュなナイトクラブ、そして大きなショッピングモールがある。磨かれたヨーロッパ車が走り、MGロード街の洗練されたライフスタイルショップは現地の買い物客で賑わっている。

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ここに着いてまず気づいたのは、聖なる牛が道路上を闊歩しておらず、そのお陰で糞を踏まないように気をつけながら歩くことなく周囲を見渡せることだった。「ガーデン・シティー」とも呼ばれるバンガロアにはインドの他の年に比べて緑と公園が多く、街の肺ともなっている。その結果、大気汚染は未だにあるものの、私が訪れた他の都市に比べるとそれ程悩まされることはない。私たちはラルバーグ植物園を楽しむ市民たちを眺めながら日曜日の午後を過ごした。ちょうど満開の花々に囲まれながら家族連れがピクニックをし、恋人たちが手をつないで歩いていた。

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また、この街では現地の人々に夕食に招かれる二度の機会にも恵まれた。彼らの職業はさまざまで、ソフト技術者、不動産開発者、美術の大学教授、生産系企業のビジネスマンなどだ。彼らとの和やかな会話を通じてバンガロアの現在について学ぶことが多かった。彼らの生活はヨーロッパやアメリカに住む人々の現代的生活と何ら変わることはない。この洗練された街は、彼らのような有能なプロフェッショナルに快適なライフスタイルと現代生活の便利さを可能にしていることが分かった。

昨今のハイテクブームによって、彼らは今風の環境で生活を営むことが可能なのだが、バンガロアを全体的な視点で見ると新たな現代化の波はその全てには及んでいないようだ。ハイテク化していると聞いていた街にしては停電はあるし電圧も不安定だ。インターネットカフェではWindows98のベータバージョンや、良くてもWindows2000の評価版が使われている。マシンにインストールされているソフトは頻繁にクラッシュするし、アクセススピードはケララ州のバックウォーターよりも遅い。「これが本当にインドのシリコンバレーなのか?」と私は考え込んでしまった。「バンガロアの噂はあれほど聞いていたのに、信じられない!」

バンガロアの中心街で用事を済ませようとすると、そうでなくても効率が悪いインドの中でも平均以下の場合もある。西洋のブランド商品が並ぶ高級商店街付近で小包を発送しようとしたときなどはインドでも最悪のケースとなった。コチなどの小さな町やアーメダバッドのような都市では、バンガロアで要求された込み入った手順を踏む必要などはなかったのだが。通常30分もかからない国際郵便がここでは2時間半を要する悪夢のような体験をすることとなった。

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私たちは、近年の好況の恵みを得ることなく取り残された人々がバンガロア市内には多くいて、貧富の差が急激に広がっていることを目の当たりにした。貧しい人々が路上で物乞いするのを気にも留めず懐の暖かい人々が闊歩して通り過ぎる。この街に対する私たちの期待は、ものの見事に打ち砕かれ、バンガロアは埃っぽく汚れたインドの街の典型として私たちの目に映り始めた。ハイテク企業はそのほとんどが20キロ離れたエレクトロニクス・シティーと呼ばれる地区に居を構え、バンガロアの中心とは一線を画した存在である。つまり私たちがバンガロアの姿を塗り替える機動力と考えていた企業と市の内部に存在するさまざまな問題とは接点がないのだ。

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バンガロアはインドについて多くの人が言う「この国は貧しい国ではなく、貧しい人々が多く住む国だ」という言葉を的確に反映した街だと思う。ニュースメディアは口を揃えて近い将来インドは世界をリードする経済大国になると報道しているが、それはこの国全体について言えることでは決してない。ハイテクブームや他の産業での成長がもたらす経済の繁栄によって、インドが予想されているようなステータスに達することになるとしても、それはごく限られた少数の人々にとってのステータスだ。インドの経済、現代化、そしてサクセスについて耳にすることは多いが、この人口100億人のうちそれを味わえない人々がほとんどなのである。

過去3ヶ月インドを旅しながら痛感させられたのは、この国を一言、いや一行の文で表現するのが非常に困難だということだ。さまざまな表情とムードを持ち、それを理解したと思ったら一瞬のうちに豹変する。従って、インドの将来を思うとき、私たちはその動向を見守るしかない。このバンガロアという街については急激な変化が予想されると同時に、結局は何も変わらないだろうという予想も出来る。そしてインド全体についても全く同じことが予想できるのである。

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2005年01月19日

ハンピで「ホームステイ」

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ハンピはかつてインド史上最大のヒンズー帝国、ヴィジャヤナガルの首都があった土地にある観光地だ。この町のどこにいても望めるヴィルパクシャ寺院へと続く道ハンピ・バザールとトゥンガバードラ川の間にこぢんまりと納まっている小さな町である。今年のサンカランティ祭は、今月13日と14日に行われ、それを祝う多くの巡礼者たちがここ一帯に数ある寺院とトゥンガバードラでの沐浴にやって来ていた。低コストの宿泊を提供する多くのゲストハウスやダールマサラでリラックスするインド人と外来の観光客も加わって、この小さな町はかなりの賑わいを見せている。ハンピではそれでもゆっくりと時間が過ぎてゆく。訪れる人々もゆったりと周囲に広がる遺跡を探索している。私の場合、この町はマラリアが回復した後の休養地として最適の場所だった。

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周囲の環境はとてもユニークで、自然と人間が作り上げた驚きだとも言える。岩に覆われた地形とその間に点在する石彫刻に覆われた遺跡がまず全体的な色合いを定めている。巨大な岩がまるで巨人がばらまいたように危うく、美しく重なり合い何とかバランスを保っている。アリゾナ州のセドナやユタ州に見られるような風景と色だ。この地形の間にゆっくりと川が流れ、その西側には田んぼやバナナ農園やココナッツの林が淡い緑を添える。南側には岩をうがって彫り上げた寺院や石柱があり、その側面には初期のヒンズー教に見られる神々が洗練された技術で浮き彫りにされている。雲が少なく、青空が常にこれら全てを覆っている。日中は乾燥した鋭い日差しが暑く、何をする気にもなれない。私たちは日の出前後には起床し、朝食前に遺跡やバナナ農園や川の畔の畑を歩き回り、朝食後は夕方まで特に何もせずゆったりと過ごし、出かけたとしても大きなマンゴーの木の木陰でチャイを飲みながら寝そべるという生活を続けている。

宿泊しているのは、家族経営の宿泊所だが、ゲストハウスやホステルと言うよりも家族が住む家の一室と言った方がふさわしい。ハンピ・バザールから二筋ほど路地を入った所にあるこの家の周囲は一般家庭が住む現地の住宅地で、商店などは少ない。家の屋根からは繊細な石彫刻が白く浮かび上がる高さ50メートルのヴィルパクシャ寺院塔を真傍に望むことが出来る。部屋は小さな窓とやたら堅い鉄製のベッドがあるだけのごく基本的なものだ。ほんの30メートル足らずの路地にあるこの家の近所はお互い誰もが知り合いで何でもざっくばらんに話し合ったり井戸端会議をよく見かけるような、いわば長屋のような雰囲気だ。観光客目当ての売り込みたちが割り込んでこない静かな場所である。遺跡や周囲の環境の色合いが美しいこともさることながら、私たちが気に入ったのはこのご近所の人の良さと心地良さだった。

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この家族は柔和な笑顔を漂わせながらそれぞれの日課をこなしていく。奥さんは、門前の地面に広い砂を使って毎朝夕異なった幾何学模様の「ランガヴァリ」を描き、私たちの目を楽しませてくれる。多くの家の前でも二枚に描かれるこれらの模様は、シンプルなものから複雑なものまでバラエティーに富み、砂埃や動物の糞やゴミが目立つ歩道に美しいアクセントを添えてくれる。奥さんは、その日のランガヴァリを描いた後、香を焚き、鉢に赤、サフロン、白のティッカ粉を用意する。そして家中の扉と格子を掃除しながらそれぞれを香の煙で浄め、ティッカ粉で飾りを塗りつける。ご主人はどこかの銀行のマネージャで、毎朝9時半頃から丸1時間かけて熱心にヒンズー教のプジャ(祈祷)を行い、遅い朝食を食べて11時頃悠々と仕事に出かけていく。奥さんはその日のお浄めの後も掃除、洗濯、洗い物、宿泊客の世話、ゲストハウスの掃除などに忙しい。息子はここから13キロ離れたホスペットという街の商社で忙しく働く会社員だ。宿泊し始めて直ぐに私たちはこの家族とうち解け、ゲストハウス経営者と宿泊客との関係には留まらないお付き合いを楽しむことが出来た。

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息子のチャンドラがこの一帯で最も日の出が美しく見えるマタンガ丘に登ってはどうかと勧めてくれた。翌朝、彼は早起きをして、出勤前に丘の頂上までガイドしてくれた。奥さんが夕食に招待したいと言うので、ごちそうになった。チャパティ、バナナ・シカラニ(バナナをヨーグルトと砂糖であえたサラダ)、サンバー、スブジと呼ばれる野菜料理二種がテーブルに並んだ。何ヶ月も食べているレストランや食堂の料理とは全く異なり、やはり家庭料理は新鮮な食材と作る人の思いがこもっていてエネルギーが違う。夕食の値段を尋ねたら払う必要は無いという。私たちの狭い部屋では何も出来ないだろうと、母屋のダイニングルームを仕事場として使わせてくれた。リンの誕生日には朝食に彼女の好きなイドリとチャイも作ってくれた。一泊250ルピー(約600円)という安い宿泊費が申し訳ないような待遇である。

3ヶ月近くインドを旅してきたが、知り合いがいない場所で現地の人々と金と商売が絡まない会話が出来る機会はごく稀である。この国でのフレンドリーな会話は我々が「暫く話していればそのうち何かを買う気になるだろう」というビジネスの期待が常にその背後にあるからだ。買わないと分かった瞬間にあれほど振りまいていた笑顔が消え去るのをインドでは何度も見てきた。すぐ傍のハンピ・バザールでもすでに何度経験したことだろう。それとない現地の人々との会話がいつの間にか売り込みに変わり、私たちが興味を示さないとコミュニケーションは遮断され、売り手の目はすでに次の獲物を物色している。それだけにこのハンピの家族のようにビジネス関係の枠を越えて、真にフレンドリーなコミュニケーションを通わせる機会に巡り会うと嬉しく、正にこれが予定より長くこの町に滞在することにした理由だ。ハンピはインド国内でもよく知られる観光地だが、一方では観光地であり過ぎるこの町でも、この親切な家族の家に泊まり、朝早い内に周囲の遺跡を探検するだけで、雑踏と呼び込みの声を免れることが出来た。その上で、ハンピは私たちが訪れたインドの多くの場所の中でも最も印象深い町だと言える。

Posted by taro at 18:10 | Comments (0)

2005年01月12日

マラリア体験

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カルナタカ州のマイソールにあるJSS病院に入院していた。コチで刺された蚊が原因でマラリアにかかってしまったからだ。コチは歴史的な魅力やカルチャーがある街だが、下水、ドブ水や汚水の水溜まりが臭い非常に蚊が多いところだ。1月3日の夜行列車でコチを出発した。発車時間を待つ間も身体がだるく熱っぽくもあったのだが感冒か何かだろうかとしか考えていなかった。列車は冷房車だったにもかかわらず寝ている間に大量の汗をかいた。翌朝マングロア着、駅から市内へはオートリクショーで入り、さらにバスに乗り換えハサーンを経てほぼ一日がかりでベルールという小さな町に到着した。宿にチェックインした時点で頭が重く、寒気も少々感じるようになっていた。

感冒による節々の痛み、熱、寒気などの症状は今までに何度も体験しているが、旅先での病気ということもあり、大事をとって宿泊したホテルのすぐ傍にある医療所で診察を受ける。結果はマラリアの心配はなく、感冒か慣れない天候や悪い水などによる熱だということで、2日分の解熱剤と抗生物質を処方してもらった。実際には何が原因で、どんな病気なのかは、あの医師には分からなかったようだった。この小さな町の医療所では診察料は無料である。診察を受けている人々は皆貧しい人たちで、無料診察を受けるために長い間順番を待つ。彼らは薬代だけは払わなければならないが、それでも国民保険か何かのシステムで全額払うことはないようだった。ちなみに処方してもらった解熱剤と抗生物質3日分は52ルピー、日本円で150円にも満たない。

ベルールで滞在する間、この体調であまり外出することが出来なかったが、6日の朝、熱が下がったのをみて石彫刻が素晴らしいチャンネケシャヴァ寺院を訪れた。しかし、解熱剤が切れると感じる悪寒はますますひどくなり、熱も39度を上回るようになってしまった。この病状悪化の様子でこれがただの感冒や気候、さらには悪い水によるものという単純なものではなさそうだ。この町の医師の診察では心許ないという結論に達し、翌日7日の朝、リンが車をチャーターしてカルナタカ州南部にあるマイソールへ至急向かうことに決めた。マイソールは病院の設備が整った中堅サイズの街の中で最も近距離にあったからである。4時間のドライブの間にも極度の悪寒に襲われ、車を止めて強烈な日差しの中で「暖を摂る」場面もあった。

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マイソールには政府経営の大きな病院があり、まずそこへ行くことにした。その病院に乗り付けたのが午後1時。受付では登録料10ルピーを払って診察カードなるものを作ったのだが、午後1時から2時までは急患の部署も「お昼休み」で受け付けてはくれなかった。この事自体想像の域を超えた病院運営である。しかも、居合わせた若い医師が言うには「JSSという病院の方が良い治療を受けられるよ。」いかにも「インド政府経営病院」といった感じで呆れてものが言えない。JSS病院は幸いそこから直ぐ近くにあり、早速急患診察所に入った。ERのベッドの横たわって測った体温は40度を越える高熱となっており、私が外人であることも手伝ってか医師たちもさすがにまともに対処する気になったようで、体調が崩れ始めてからの経過を何度も尋ねた後、早速点滴を開始し、解熱剤を注射し、さらにてきぱきと診察と治療のプランを立てていた。

JSS病院はいわゆる医科大付属病院で、したがって診察に当たっている医師や看護婦にはインターンが多い。私の診察はインターンから医学部博士課程の大学院生へと引き継がれ、遂に大学教授まで達することになった。教授は直ちに入院手続きをとり、血液検査を行うよう助手に伝えた。入院手続きはこれもインドらしく書類記入や誰かの承認が必要だったりで、個室の病室に入るまでにはかなりの時間を要した。検査のための採血もしたのだが、病院内の検査では時間がかかり過ぎるということでマイソール市内にある専門のラボで検査を行うことになった。感情を表情に出さない神経質そうな大学院生が彼の車で街のラボへと連れて行ってくれ、再度採血してからわずか20分後、マラリアの陽性反応が判明。病室に帰ってから即刻点滴に抗マラリア薬を混入した治療を開始した。治療期間は5日間。「速攻治療」ということだった。

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教授を囲むインターンや医師たちはそれぞれ内科、医薬、伝染病などの分野での専門家たちで、皆優秀で確かな知識も持っているようだった。この専門家のグループは教授を囲んで意見の交換を行い、治療方法の詳細を確認し合い、そして教授を最終的な決定者として実際の治療を進行させる。あの無表情で神経質そうな大学院生は、インドの医者は途上国には、普段西洋の医者たちが見ることもない多岐に広がる健康衛生問題や病状と常に対処しているため、西洋の医者たちよりも経験を積んでいると言っていた。

看護婦たちは全く別問題である。彼女たちが親切でフレンドリーなのは助かることは確かなのだが、医師たちが指示した治療を実際に患者に施すのは彼女たちで、これがかなり適当で時には医師の指示を誤解していたこともあったりした。点滴針を挿入するときも血管に的中せず、何度も失敗するのには苛立ったし、正しい薬の服用回数や時間帯などについても何度も問いたださなければ正確な答えが返ってこない。従って看護婦たちの治療は毎回注意してフォローしなければならなかった。

病室は狭く、お世辞にも清潔とは言えない。専用のトイレ付きバスルームの清掃は頻繁には行うが、水と汚れた雑巾、木の枝を束ねたほうきを使って掃除するだけで消毒はしていない。バスルームの天井からは何か液体が落ちてきていて、まるでどこかの鍾乳洞のように床の数カ所で蓄積している。大きなゴキブリが這い回る。蚊も入ってくる。マラリアの治療を受ける病室で蚊の心配をしなければならないところが正にインドである。蚊取り線香は配布してくれたが。廊下には「静粛に!」と看板があるが、インドでは静粛なところなどは存在しない。患者の咳き込む声やうめき声、生まれたばかりの赤ん坊の泣き声、廊下で井戸端会議に熱中する人たちなどで一日中やかましい。

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食事は出ない。従って食事は外から持ち込むか近所の食堂へ外食しに行くしか方法はない。さらに点滴、点滴用機材、注射セットから服用薬に至るまで、医師の指示に従って全て自分で付属薬局へ行って購入しなければならない。当然これらの雑用は患者の家族の仕事となる。看護婦たちは患者が自ら買ってきたものを使って治療に使うのである。私の場合、リンが同じ部屋に滞在することが出来、これらの雑用をこなしてくれたのが不幸中の幸いだった。一人旅でこのような状況に置かれたトラベラーたちは一体どうしているのだろうか、と考えてしまう。

抗マラリア薬の点滴を始めて直ぐに熱が下がった。この点滴による治療に3日を費やし、さらに念のため2日間服用薬で血液中のマラリア全滅を図る。教授を始めとするスタッフチームは毎朝10時頃さっそうとやって来て体温、脈拍、血圧のデータを確認し、看護婦から治療経過の報告を受け、指示を与える。そして入院5日目、血液検査を再度行った。その結果、マラリアの陰性反応が確認できた。12日の朝、教授はその結果を見たうえで退院許可をくれた。教授と彼の生徒たちによる診断と治療は非常に的確でスピーディーだが、入院や退院の際の手続きはいかにもインドらしくじれったいことこの上ない。退院手続きだけに約3時間待たされた。

JSS病院は医大と訓練校も兼ねた施設であるため、診察、治療、入院のコストはかなり低い。そのため、患者たちは一般に貧しい人たちが多い。個室の場合、入院費は個室で一日250ルピーと安いことは確かだが、入院手続きの際に2000ルピーの前払いをしなければならない。この前払いが出来るか出来ないかでどの病室に入るかが決まるようだ。後に聞いた話では、マイソールには全般的により良い環境が整った病院が何件もあるそうだが、治療費は5倍するらしい。

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今回マラリアの治療にかかった診察費、治療費、血液検査、薬代、個室での入院費などを含めた全ての経費は250ドルに満たなかった。JSS病院には清潔で蚊のいない病室や現代の最新医学技術があるわけではなく、看護婦も非常に頼りない。反面、適切で民主主義的な医師の診察と治療は先進国の病院と同じであろう。アメリカでは一般消費者が負わなければならない医薬品のコストの高さが大きな社会問題になっている。健康保険費がべらぼうに高く、それに加えて実際の治療費もさらに高いという現状は、アメリカ市民の多くが医療制度の恩恵を受けることが出来ないといった「先進国」にはあるまじき現象を生んでいる。インドでも将来は医療コストが大幅に上昇するとは聞いているが、現在はベルールのような小さな町でも(たとえ誤診するような医師でも)人々が容易に診察や治療を受けることが出来るのだ。

インドでの入院経験など自慢にもならないし、決して心地の良い体験ではなかったのも事実だ。が、無事回復した今、通常決して見ることのないインドの側面を垣間見ることが出来たのは思いも掛けない貴重な経験と言えるかも知れない。

Posted by taro at 15:51 | Comments (4)

2005年01月02日

燃えるサンタ

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2005年はインド南部ケララ州のコチ(またはコーチン)で迎えることになった。この島上の街は、16世紀、ポルトガル、オランダ、イギリスなどのヨーロッパ諸国が植民地政策を掲げてインド西岸へと進出し始めた頃に築かれ、様々な西洋文化の名残が今も市内に多く見られる。本土側にあるエルナクラムという街から大きな川と海峡を渡る二つの橋を隔てたわずか9平方キロメートルの島にあるコチには、ヨーロッパ諸国によって建設された要塞やオランダ風宮殿を始め、海岸に沿って中国様式の網、カテドラルやシナゴーグが、ヒンズー寺院とモスクと共に点在しているのである。シナゴーグ周辺のユダヤ人街にはユダヤ系のインド人が今も彼ら伝統の生活を営んでいる。小さな島のメルティングポット。歴史の流れが織り込んだ多国籍文化のマイクロコズムだ。

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私たちがコチに着いたのは津波が起こってから2日目の午後だった。エルナクラムとコチ一帯での被害は最小限だったようだが、ここから直ぐ北のヴィピーン島では多くの人々が津波に流されて犠牲となった。ここ一帯の人々はその時もまだ全貌が知られていない悲劇を嘆いていた。ホテルや商店などは正常に営業されていたが、フェリーによるエルナクラムとの交通は停止中で、漁船も出ていなかった。やはり高波を警戒しているようだ。毎年元日に行われる海岸でのカーニバルも今回はキャンセル。西洋人のトラベラーはそこそこいるが、カーニバルにやってくる大勢のインド人観光客の姿はなく、街は結果的にひっそりとしている。それでも現地の人々の表情は明るく、心配されていた「第二の津波」についても「ここなら安心だ。ゆっくり楽しんでくれ」と笑う。

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海風が街の中では吹かず、通風がないコチ市内の空気は蒸し暑く重い。夕方になるとやたら多い蚊につきまとわれるのには大いに閉口する。が、その多文化が混在する市内のたたずまいとアートや芸能を奨励する環境はなかなか面白い。絵や彫刻の展示スペースを持つカフェが一軒。ユダヤ人街にも現地アーティストを含むコンテンポラリーアーティストの作品を展示するギャラリーが二軒あった。伝統芸能もある。その代表はインド南西地域に古くから伝わり、今も活発に行われているカタカリ舞踏だ。コチにはこの舞踏が観られるケララ・カタカリ・センターがあって、毎日カタカリや他の伝統舞踏、インド古典音楽などを提供している。

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大晦日の夜、私たちはこのカタカリ舞踏を観に行くことにした。この日の上演は津波生存者たちへの募金も兼ねていた。カタカリは舞踏によるドラマで、その起源は古く2世紀に溯るとされる。加えてこの舞踏は神聖なものとされ、舞台小屋に続く小道は、水を打ち、花を添え、香を焚き、白い粉でランガヴァリのパターンを描いて浄めてある。この舞踏は役者による演技、奏楽と歌によるストーリーによってミステリアスに進行する。舞台際と両袖にはオイルランプを灯し、香を焚いてその神聖さを強調している。内容はマハーバラータ神話が中心である。小さな舞台、百人足らずの観客。それでも舞台は神懸かりにも近い強烈で白熱したエネルギーを帯びる。これをほんの1時間でやってしまうのだから驚きだが、正式な舞台は6時間以上続くというからそれがどんな体験なのかは想像もつかない。

舞台がはねた後、私たちはホテル周辺で年が明けるのを待った。現地のクリスチャンたちが聖書を手に聖フランシス教会へと歩いていく頃、街は静けさに覆われていた。このカテドラルは、ポルトガルのペドロ・アルヴァレズ・カブラル率いる遠征隊と共に上陸したフランシスコ派によって1503年に築かれたといわれ、ヨーロッパ人によって建てられたインドの教会としては最古のものである。現在は聖公会の教会として現地の人々に慕われている。この教会に入ってしばし静かに座る。信者たちは三々五々新年のミサに出席するため集まり、聖堂に入ると静かに跪いて祈りを捧げている。

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ケララの新年はどういう訳かサンタクロースの衣装とお面で覆ったわら人形を燃やして祝う。真夜中も間近に迫ると、近所の人たちがサンタを担ぎ出して点火場所を決める。その一つは聖フランシス教会の壁の外側だった。カテドラルからは聖歌が一段と高らかに聞こえてくる。そして午前0時。サンタに火が点けられ、燃え始めた。すでに近所の人々や歓声を上げながらバイクで通りかかった若者たち、西洋人観光客などが取り巻いて騒ぎ始める。突然、爆竹が数十個炸裂した。どうやらわら人形の中に仕込まれていたらしい。仕込まれていたのは爆竹だけではなく、打ち上げ花火も数個入っていて、どこへ向かって発射されるかはその時になってみないと分からず、物騒極まりない。幸運にも打ち上げ花火が我々に向かって発射することはなかったのだが、あの忌まわしい「アトムボム」も一発仕込まれていて、そこにいた人々は当然その爆音とショックの犠牲となった。

サンタが燃えてしまった後、取り巻いていた人々は「ハッピーニューイヤー!」を言い、握手したり抱き合ったりしていた。皆の表情は明るい。年を越えるとき、そこに必ず笑顔があるのはどこでも同じのようだ。神秘的なカタカリ舞踏の沸き上がるエネルギー、カテドラルから流れる聖歌の厳かさ、燃えて爆発するサンタの滑稽さとが頭の中で相混ざった。今まで「不思議なニューイヤーズの体験」は何回もしてきたが、さすがに今回のような異色の大晦日は始めてである。この旅を通じて経験することが出来た恵みのひとつでもあるだろう。

Posted by taro at 15:27 | Comments (0)

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