2005年04月16日

あれから10年

04_16_mountains.jpg

私たちにとってバリは特別な意味を持つところだ。1994年10月、ハネムーンで始めて来たのがここだった。二人でアメリカの外を旅したのもそのときが初めてだった。あの頃、デンパサールは中堅の町で、ウブドには小さな村の雰囲気が漂っていた。あまりにも変わったバリの様子に、今回私たちが到着したときの印象は知らない町に迷い込んだときのそれと同じだった。ウブドは、しかし、バリ文化の中心地であり続けていたし、バリの人々にとっては今も重要な地位を占めている。そして10年間を経た今もこの町は田んぼに囲まれていて、そのことが初めて訪れたときの様子を思い出させる要因となった。

04_16_kites.jpg

これから1ヶ月滞在するのは今は忙しい町となったウブドの直ぐ外にあるロトゥンドーという村で、そこにある一軒の家を借りることにした。ウブドが車やオートバイの往来、人、レストラン、商店で混雑するかたわら、ロトゥンドーは有名な観光地の陰にひっそりと在る。借りた家の「裏庭」は真西に向かっていて、そこには田んぼが広がり、その背後にはココナッツの木々、はるか彼方にはバタカウとポホンの山々がそびえている。水田にはすでに水が引かれ、1年に3回行われるという耕作の準備が整っている。田植えが始まるのはもうすぐだ。

04_16_sunset.jpg

沈む太陽と雲が夕暮れの色を鮮やかに織りなし、ココナッツの暗いシルエットと共に鏡のような水田の表面に投影されて幻想的な景色を提供してくれる。このドラマチックなパノラマは毎日見逃せない景観となった。水田のほぼ中心にはバリ独特の米の神を祀る神社がエメラルドグリーンの島のように浮かんで見える。日が沈み、その後光も消えようとする頃、アジアの多くの場所で縁起がいい動物とされるコウモリと、その日最後のえさを追うツバメとが同時に田んぼの上を飛び交い、見分けがつかない。この環境に見られる昆虫の多様さと多彩なことには驚かされる。巨大なハチ、細小のアリ、鮮やかな色の甲虫、大きな模様を誇らしげに広げる蛾、虹のような光沢に輝く蝶、さまざまな色のトンボ、そして懐かしい子供の頃を思い出させるホタル。南半球独特の星座が夜の空に広がり、見慣れないミステリアスな美しさできらめく。

04_16_plowing.jpg

バリは今ちょうど雨期を終えようとしているところだ。日中は蒸し暑いが、午後から夜にかけて短い雨が降って涼しくなるのが有り難い。雨と雲が熱帯の色彩をより強調するようで、素晴らしい景色が力強く目に飛び込んでくる。この天気のパターンは、今まで旅をした東南アジアが全般的に乾期であり、乾燥した猛暑と靄がかった白っぽい空を見慣れた私たちにとっては新鮮な変化だった。半年近く青空が広がるカリフォルニアからの変化でもあるのだろうか。私たちはここで雲が与える景色のムードがいかに偉大なものかを改めて感じさせられた。

04_16_dancers.jpg

ウブドという町は文化の中心地であるだけにさまざまな伝統芸能の中心地ともなっている。観光客たちは町の至る所で行われる芸能を見ることが出来、その多くはバリ独特の建築様式による建物を背景とした南国ムードたっぷりのガーデンで行われる。これらの芸能は、しかし、ヒンズー教の式典の一部として現地の人々が参拝する寺院内で彼ら自身のためにも行われている芸能であり、その全ては神聖な儀式とされることを訪れる人々は知っておくべきだろう。演劇、舞踏、音楽のテーマはほぼ全てがヒンズーの神話、ラーマヤーナを題材となっている。バリの宗教生活の基本を成すのは、これらのヒンズー要素が古来この島に伝わるアニミズムと混じり合って生まれた独特の信仰だ。

伝統芸術に加え、この町ではコンテンポラリーアート、特に絵画、彫刻、ジュエリーデザインの分野で盛り上がっている。多くのバリ人と欧米人のアーティストたちがウブドの町とその近郊に居を構え、クリエイトし、その作品を展示している。町の中には注目すべき美術館もいくつかある。アジアのアートシーンはバリで生まれる芸術作品に注目し、コレクターはアジアのみならず世界各地に広がる。

ウブドのメインロードは10年前に訪れたときとは比べものにならないほど整備されている。あの頃は車も少なかったものの道はどこも埃っぽく、それに沿って土産物屋や換金ブースが所々にあったものだった。現在はスタイリッシュなレストラン、カフェ、ブティック、アクセサリーショップ、アートギャラリーがずらりと軒を並べている。これから数週間、この新しいウブドを探索する機会もあろう。

私たちにとって一番嬉しく感じられるのは、しかし、グローバル・フュージョンの最後の一月をロトゥンドーの水田に囲まれて過ごすことが出来ることだろうか。この場所で、私たちはもうすぐ終わろうとしているこの素晴らしい1年間の旅を振り返るかも知れない。あるいは、ただ田んぼの端っこに座って稲が育つのをぼんやりと見守るだろうか。

Posted by taro at 14:46 | Comments (1)

2005年04月13日

新年水掛祭り

04_13_aim.jpg

タイの4月は夏の到来と共に新年も迎える。新年の行事は「ソングクラン」と呼ばれ、3日間の祝いに国中が沸き立つ。この休日の間、タイの人々は寺院に参拝して健康と商売繁盛を祈り、家族や友人たちと過ごし、旧年の罪を国中で行われる水掛祭りで祝う。お互いに水を掛け合い、タルカムパウダーのペーストを顔に塗り合うのが習慣だ。街を歩くだけで全身びしょ濡れになるのは当たり前だが、一年を通じて最も暑いシーズンにふさわしく、汗を流し涼むことが出来る点では歓迎すべきことだろう。

国中で水を掛け合いながら新年を祝う習慣はここタイだけではなくラオス、ミャンマー、カンボジアなど、主に仏教国で広く見られるものだ。まず寺院に参拝し、家族と静かな一時を過ごした後は皆が水掛けに熱中する。私たちにとってすでに親しみ深くなったバンコック市内このご近所もその例外ではない。

04_13_running.jpg

水鉄砲はソングクランの初日である4月13日の数週間前からすでに商店に出回り始める。子供たちはその初日を心待ちにしていた。大人たちも自ら参加し、路上に大きなバケツを並べて水で満たし氷を入れて「攻撃準備態勢」を整える。そして友人や近所の顔なじみがいつ訪れてもいいように、大量の食べ物と飲み物を用意する。

04_13_naga.jpg

バンガルンプー街の中心にそびえる戦勝記念碑ではバンコック市役所が照明、色彩、音楽で美しい装飾を施した噴水を設置していた。テーマは水の守護神である聖なる蛇、ナガ。大きな蓮の花がその周囲にあしらわれている。ファンファーレの音楽が大音量で鳴り響き、カラフルな照明が飛び交う中、噴水が全体に動きを加えて、新年を迎える準備に忙しいバンコックの人々を魅了する。彼らはスペクタクルを繰り広げる噴水の周囲に集まり、興奮を高まらせている。この他にもバンコックの至るところで市によってオーガナイズされたイベントが行われ、料理、舞踏、音楽などタイ伝統の文化を披露していた。

04_13_gottcha.jpg

4月13日の朝は静かに明けた。が、正午までには近所一帯が喜々とした叫び声と笑い声に満ち、人々は水戦争のまっただ中にあった。カラオケマシンが路上に置かれ、すでに酔いの回った若者たちがタイや欧米のポップソングを熱唱する。スピーカーを歩道に持ち出してヘビメタ、タイの民謡、ヒットソングなどを休むことなく大音量で流す連中もいる。この道路全体がありとあらゆる音で振動していた。蛇口からホースを引き、液体の砲弾を大きなバケツに詰め込んで補充は絶えることなく行う。その横にはいくつものテーブルに大量の食べ物とドリンクが置かれていた。

04_13_driveby.jpg

最初は誰もが例外なくずぶ濡れになるのだろうと思い、いつどこから氷で冷やした冷水を浴びるかと警戒したものだった。時間が経つにつれて路上の状況がかなりエスカレートするのではないかとも考えた。しかしタイ人はその点よく心得たもので、一見混乱した祝いの中でも基本的なルールだけは忘れることがなかった。安全なゲストハウスのダイニングエリアから見ていると、想像していたよりもはるかに礼儀正しくお互いを扱っている。お年寄りや僧たちには必ず合掌しながら新年の挨拶を送り、許可を得てから差し出された手の上に水を掛ける。水を掛けられた人の中には伝統的な新年の挨拶を感謝する者もいる。大騒ぎの中をバックパックを担いで到着したトラベラーたちも水をかぶることはなかった。もちろん、彼らがゲストハウスにチェックインして一息つくまでのことだが。水掛けとタルカムパウダーは路上だけのものであって、家の中や食べ物を売る屋台には影響を与えないこともわかった。

04_13_splash.jpg

この近所の人々全てが水掛けに参加していた。他のご近所から「兵士」と「砲弾」をトラックの後ろに載せて攻撃に出るものもいる。ゆっくりと走るトラックが通るたびに大量の水が飛び交い、フレンドリーな応酬の中、路上は屈託のない笑顔と大きな笑い声で一杯になる。最初はただの傍観者だった私たちも我慢できず、水着に着替えて参戦した。ゲストハウスのスタッフ、いつも道の向かい側で料理を作ってくれる屋台の女の子たちを始め、通行人や見覚えのある近所の人たちと早速水を掛け合って瞬時にしてびしょ濡れになる。不意をつかれてタルカムパウダーを顔中に塗りたくられることもしばしばだ。淡い線香のような香りと肌に涼しい感触が嬉しい。近所をただ歩いている人たちも含め、いつしか皆が雨に濡れた部族集団のような様相を呈していた。タイに新年がやってきた。

Posted by taro at 15:22 | Comments (1)

2005年04月04日

砂塵の彼方へ

04_04_food.jpg

シエムリープの4月は耐え難い乾燥した猛暑に覆われていた。町の道路は埃っぽくて汚い。路上に住む子供たちがそれを如実に反映していた。赤ん坊を抱えた母親たちは観光客が集まるレストランの直ぐ前に立って小銭をせがむ。この町の人々は皆どこかとげのある態度を持っていた。暗い過去を背負った国が未だに漂わせるムードなのか、それとも継続的な貧困のせいなのか。4月を迎え、この町の観光シーズンは終わろうとしていて、高級ホテルの窓のほとんどに灯りが点ることはない。観光市場向けのサービスは欧米、日本対応の価格で高い。現地の人々が立ち寄る屋台さえもが外人用の値段表を用意している。私たちはこの町に着いたばかりなのだが、この町とはどうも相性が悪いようだ。

04_04_angkor.jpg

ここに来た理由はもちろん世界の7大驚異のひとつ、アンコール・ワットである。バンコックには幾度も訪れてきたにもかかわらず、タイの近隣国であるカンボジアまで足を延ばしたことはなかったが、今回ここを訪れることは私たちの計画中でも優先度の高い訪問だったのだ。バンコックからシエムリープへ向かうには飛行機で飛ぶのが簡単(お勧め!)だが、そうしなかった私たちにはここから再びバンコックへと戻る旅程を残しており、それを考えただけでも意気消沈するような、地獄のような行程でここへやって来たのである。

お世辞にも楽しいとは言えないバンコックからシエムリープへの旅は、しかし、安かった。片道5ドル以下なのだ。飛行機の場合は一人当たり往復200ドルかかる。格安とあって時間のかかることと乗り心地の悪い点については天下一品だった。バンコックを発ってタイとカンボジアの国境町、ポイペットに着くまではタイの現代的なハイウエーのお陰で楽な旅だった。ドラえもんが大きく描かれたエアコン着きバスが、ナンバープレートの更新をしていなかったために警察に止められるというハプニングはあったものの、すんなり国境に到着。出発してから僅か5時間だった。

04_04_skulls.jpg

タイ出国、カンボジア入国の手続きは幸いにも1時間ほどで完了し、フレンドリーなタイ人の運転手にさよならを言ってカンボジアに入った。が、そこで全てががらりと変わる。カンボジア側の世話人は、理由もなく苛立ち、怒り心頭に走った男で、そんなにこの仕事が嫌ならさっさと辞めろと言いたくなった。その男は、聞き取りにくい英語を大声で喚き散らしながら、入国したわれわれ外人グループを集め、そして暫く待たせた後でシエムリープ行きのポンコツのミニバスに私たちを押し込んだ。ヘッドライトとブレーキが機能していたのが不幸中の幸いだった。道路は舗装工事を途中で辞めてしまったような酷い状態で、視界が常にブレ続け路上の土埃で呼吸が出来ない有様は正にモンゴルの悪夢の再現だったと言える。窓の外には広大で平坦な農期が終わった畑が延々と広がり、あると言えばほんのまばらに点在する農家と木が淋しそうに立っているだけだ。

一方、運転手は乗客の印象などに構ってはいない。彼(またはカンボジア側の旅行会社)の意図はシエムリープに可能な限り遅く着くことなのだ。出発して僅か1時間後には平原のただ中にあるレストランで停車し、彼は一時の仮眠と休憩をとる。その2時間後、小さな集落で再び停車。道路に面している全てのものが砂埃に分厚く覆われているような村だった。バスが止まると同時に若い女の子たちが絵葉書、フレンドシップ・ブレスレット、冷たい飲み物などを掲げて私たちを取り囲む。表面的には欧米人と楽しく英会話のレッスンを交わし、笑い声を上げる彼女たちだったが、何も売れないと分かるとその笑顔が歪むのも早かった。

シエムリープにようやく着いた頃には私たちは疲労困憊していた。14時間の旅の終着点は、前もって話が付いているゲストハウスだった。疲労のあまりそこに泊まる乗客を想定してのことで、運転手のコミッション目当てが理由だ。一応部屋は見せてもらったが、案の定高いレートを理由に丁重にお断りして暗い町へと向かう。夜も9時を過ぎ、タイ側で昼食を食べてからは何も食べていない。長い旅の後、何も知らない町でその夜の宿を探すのは常に憂鬱なものだ。が、その一方でシエムリープの観光開発は過剰で選択肢には事欠かなかった。

04_04_school.jpg

何も良いところがないような町だが、そんなところでもほのかな希望はある。ここにはカマー・ルージュの虐殺を逃れた孤児や彼らの子供たちが集団生活するコミュニティーがある。町の郊外にはキリング・フィールド記念公園とそれを囲む寺院があり、それに寄り添いながら癒されているようにその集落はひっそりとたたずんでいた。そこに住む人々は貧しく、掘っ建て小屋に住みながらも、何とか生き抜こうとしているようだった。何千という地雷が今も武装解除され続けている国の現実だ。ここでは、僧や外来のヴォランティアたちが、語学力が少しでも彼らの将来に役立つようにと子供たちに英語、日本語、フランス語などを教えている。この町独特の苛立たしさは別として、カンボジアは深い傷とトラウマを振り切ろうともがいているように思う。このコミュニティーはそんな姿勢の一例のように見えた。

04_04_cooking.jpg

事実、カンボジア全般は出会う旅人たちの間では非常に良い。「東南アジアの隠された宝」と呼ぶ人もいる。シエムリープに蔓延する観光開発や個人旅行者たちへの町の扱いなどで苦い思いをしている私たちにとって、今回この国の他の場所を訪れることが出来ないのが残念でならない。果たしてそれ程までの疲労とフラストレーションを感じながら、ここへの旅は価値があるものだったのだろうか?と自問することもあるほどだが、その答えは「アンコール・ワットはそれでも素晴らしい!」なのである。どのように素晴らしかったのかは、別の機会(フュージョン・ジャーナル第6号)でお知らせすることになるだろう。

Posted by taro at 21:31 | Comments (0)

Copyright © 2004, LynTaro. All rights reserved worldwide.