2005年04月13日

新年水掛祭り

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タイの4月は夏の到来と共に新年も迎える。新年の行事は「ソングクラン」と呼ばれ、3日間の祝いに国中が沸き立つ。この休日の間、タイの人々は寺院に参拝して健康と商売繁盛を祈り、家族や友人たちと過ごし、旧年の罪を国中で行われる水掛祭りで祝う。お互いに水を掛け合い、タルカムパウダーのペーストを顔に塗り合うのが習慣だ。街を歩くだけで全身びしょ濡れになるのは当たり前だが、一年を通じて最も暑いシーズンにふさわしく、汗を流し涼むことが出来る点では歓迎すべきことだろう。

国中で水を掛け合いながら新年を祝う習慣はここタイだけではなくラオス、ミャンマー、カンボジアなど、主に仏教国で広く見られるものだ。まず寺院に参拝し、家族と静かな一時を過ごした後は皆が水掛けに熱中する。私たちにとってすでに親しみ深くなったバンコック市内このご近所もその例外ではない。

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水鉄砲はソングクランの初日である4月13日の数週間前からすでに商店に出回り始める。子供たちはその初日を心待ちにしていた。大人たちも自ら参加し、路上に大きなバケツを並べて水で満たし氷を入れて「攻撃準備態勢」を整える。そして友人や近所の顔なじみがいつ訪れてもいいように、大量の食べ物と飲み物を用意する。

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バンガルンプー街の中心にそびえる戦勝記念碑ではバンコック市役所が照明、色彩、音楽で美しい装飾を施した噴水を設置していた。テーマは水の守護神である聖なる蛇、ナガ。大きな蓮の花がその周囲にあしらわれている。ファンファーレの音楽が大音量で鳴り響き、カラフルな照明が飛び交う中、噴水が全体に動きを加えて、新年を迎える準備に忙しいバンコックの人々を魅了する。彼らはスペクタクルを繰り広げる噴水の周囲に集まり、興奮を高まらせている。この他にもバンコックの至るところで市によってオーガナイズされたイベントが行われ、料理、舞踏、音楽などタイ伝統の文化を披露していた。

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4月13日の朝は静かに明けた。が、正午までには近所一帯が喜々とした叫び声と笑い声に満ち、人々は水戦争のまっただ中にあった。カラオケマシンが路上に置かれ、すでに酔いの回った若者たちがタイや欧米のポップソングを熱唱する。スピーカーを歩道に持ち出してヘビメタ、タイの民謡、ヒットソングなどを休むことなく大音量で流す連中もいる。この道路全体がありとあらゆる音で振動していた。蛇口からホースを引き、液体の砲弾を大きなバケツに詰め込んで補充は絶えることなく行う。その横にはいくつものテーブルに大量の食べ物とドリンクが置かれていた。

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最初は誰もが例外なくずぶ濡れになるのだろうと思い、いつどこから氷で冷やした冷水を浴びるかと警戒したものだった。時間が経つにつれて路上の状況がかなりエスカレートするのではないかとも考えた。しかしタイ人はその点よく心得たもので、一見混乱した祝いの中でも基本的なルールだけは忘れることがなかった。安全なゲストハウスのダイニングエリアから見ていると、想像していたよりもはるかに礼儀正しくお互いを扱っている。お年寄りや僧たちには必ず合掌しながら新年の挨拶を送り、許可を得てから差し出された手の上に水を掛ける。水を掛けられた人の中には伝統的な新年の挨拶を感謝する者もいる。大騒ぎの中をバックパックを担いで到着したトラベラーたちも水をかぶることはなかった。もちろん、彼らがゲストハウスにチェックインして一息つくまでのことだが。水掛けとタルカムパウダーは路上だけのものであって、家の中や食べ物を売る屋台には影響を与えないこともわかった。

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この近所の人々全てが水掛けに参加していた。他のご近所から「兵士」と「砲弾」をトラックの後ろに載せて攻撃に出るものもいる。ゆっくりと走るトラックが通るたびに大量の水が飛び交い、フレンドリーな応酬の中、路上は屈託のない笑顔と大きな笑い声で一杯になる。最初はただの傍観者だった私たちも我慢できず、水着に着替えて参戦した。ゲストハウスのスタッフ、いつも道の向かい側で料理を作ってくれる屋台の女の子たちを始め、通行人や見覚えのある近所の人たちと早速水を掛け合って瞬時にしてびしょ濡れになる。不意をつかれてタルカムパウダーを顔中に塗りたくられることもしばしばだ。淡い線香のような香りと肌に涼しい感触が嬉しい。近所をただ歩いている人たちも含め、いつしか皆が雨に濡れた部族集団のような様相を呈していた。タイに新年がやってきた。

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2005年03月28日

百万頭のゾウ、白いパラソル

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またまた世界遺産のサイトに来てしまった。ラオス北部のルアン・プラバーン(あるいはルアン・パバーン)は、その町全体がユネスコ指定の世界遺産である。ブランドも名高いあるガイドブックには「観光客にとってはラオスの中でも最大の見せ場」と銘打たれているため、私たちはむしろそれが心配だった。今までのラオスの旅で感じてきた静かな美しさが、ユネスコ指定のステータスに押しつぶされているかも知れないからだ。しかし、この町の文化と魅力が今も残されているのを見て、私たちの心配が無用だったことが分かった。

ルアン・プラバーンはタイ系ラオ族の中心都市として8世紀半ばに繁栄した町だ。1353年にはランサーン・ホムカーオ、つまり「百万頭のゾウ、白いパラソル」とよばれるラオ族最初の王国がこの町で誕生した。その後さまざまな王国の首都または旧都として王宮とそのステータスを、1975年の社会主義革命まで維持し続けた。14世紀以来建てられてきた寺院の多くは、社会主義政権のもとで幸いにも存続を許された。80年代には、観光促進のための海外援助と投資が特にフランスによって行われ、1995年には世界遺産に登録されるに至る。今日、ルアン・プラバーンは平穏な賑わいを見せる一方で、遠い過去と植民地時代へと誘われるような雰囲気が漂う町となっている。

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ナム・カーン川がメコン川に合流し、その周囲を山々が大らかに囲む地点にこの町はある。この地域に古くからある仏教信仰は、町に残る80以上の寺院だけではなく、川に沿ってある多くの洞窟内をミステリアスに覆う大小さまざまな仏像などに残されている。ラオス北部に住む多くの異なった少数民族の存在も、この町に見られる文化と芸術品の豊富さに大きく貢献している。彼らは伝統工芸品を主に観光客に売ることで収入を得ており、絹や木綿の染色、織物を始め、刺繍、手編みの籠、クワの皮材料とした手作りの紙などが店や露店を飾っている。

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ここは買い物好きのパラダイスである。スタイリッシュなブティックやクラフトショップが目抜き通りであるシーサワンウォン通りに軒を連ね、高級レストランやクラブ、ギャラリーも多い。夕方になるとこの道の一部は歩行者天国となり、路上に主にモン族の露店が展開するナイト・マーケットが開かれ、紙で作ったさまざまなクラフトからアップリケが縫い込まれたブランケットまで、ありとあらゆる工芸品が売られている。ここではセールスのひとつひとつがモン族の女たちの生活にとって大きな意味を持つ。特にその日の最初のセールスは「ラッキー・ラッキー」とされ、彼女たちの笑顔は一際大きく朗らかだ。

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夕方、寺院の門が閉ざされると僧たちの夜のお勤めが始まり、読経の声が静かな町角に響く。読経の声はまるでこの古い町のオフィシャルテーマソングであるかのようだ。日中、町を探索する間にである若い僧たちは、皆観光客を捕まえては英会話を練習したがり、欧米の文化について知りたがる。彼らの和やかな会話と微笑みは、明け方町中で行われる托鉢の時に見せる厳かな表情とは対照的だ。

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過去一ヶ月のラオスでの旅を振り返って、それがミャンマーで得たと同じような肯定的な発見の連続であったと感じている。これら二カ国が共に「やっかいな」政府によって統治されていることは興味深い事実だ。軍事政権または社会主義政権、どちらにせよ彼らは、国民を隔離し同時に貧困の中に押し込めてきた。驚くべきは人々とその文化が力強く存続し、それが今も存在することで国外の観光客や投資家たちにとって大きな魅力となっていることだ。そしてここルアン・プラバーンでは、今も残るうとうとするような優美さとその歴史深い環境が、ここを訪れる人々を魅了し続けている。

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2005年03月22日

小道の誘い

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ある風景が私を捕らえて放さないことがある。それは、他の人々には何の意味もなさず、ただ視界の片隅から一瞬のうちに消え去るものかも知れない。今回、それは単純な日常の風景だった。一週間、毎日飽きることなくその風景を見続け、その美しさに我を忘れた。私たちはラオス北部への入口、ヴァン・ヴィエンの町からさらに北へ4キロ行った小さな村にある有機農園で滞在している。メコンへ流れ込む清涼な水を提供するナム・ソン川の川岸に、その農園はひっそりとある。川を越えて西側には、中国の墨絵を思わせるような切り立った山がそそり立ち、その荒々しい側面には木々が思いがけない濃さで茂っている。

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川に面して立つ農園の小屋は、壁が無く見晴らしが良い。冷やしたオーガニックのクワ茶を味わいながら、私はそこから見える風景から目をそらすことが出来ない。川の向こう岸には一本の木が威厳を放って立っている。太く逞しい大枝を広げ若緑の葉に陽の光を受けながら、照りつける暑い日に嬉しい大きな陰を投げかけている。その根は土の上と地下に荒々しく走り、土手の側面をしっかりと握りしめながら、澄んだ川の水を思う存分吸い上げて繊維一筋一筋の糧としている。

そしてそこには川岸から土手の急斜を登ってその木の向こう側へと消える小道が這っている。石段もなく、ただ人々が通い慣れた土の道で、頭上は木の枝が覆っている。川の手前から見ると、夕方近い日の光が西から差し込み、その道を照らし、川の流れに反射してキラキラと眩しい。私はその小道を「誘う小道」と名付けることにした。もっともその道は、向こう岸の土手と背後の山の間にあるほんの小さな農地に至るだけのものだと知れているのだが。

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その風景はある時間になると水浴びに来る村人たちで賑やかになる。朝夕2度、村人たちは必ずここへ来る。乾燥した酷暑が続いていて、午後も早い時間、夕方の行水を待てない村の子供たちがこの川岸へやって来て川で遊ぶ。速い流れに乗って泳ぎながら発する彼らの無垢な笑い声が夕方まで絶えない。川向こうの農地で働く人々は、鍬を肩に載せ、歩いて川を渡る。日暮れも近い夕方になると、丸い石が広がる川岸は川の水を使いに来た村人で賑わう。洗濯したり赤ん坊を洗う母親たち。子供たちは身体を洗っているのか遊んでいるのか分からない。若い女たちはサロングに身を包んだまま身体を洗う。裸体を晒さぬように始終配慮しながらも女友達同士でにこやかなのが優美な印象を与える。

農園直営のゲストハウスには、宿泊客以外にも旅人たちが冷たい飲み物やオーガニックの食事に立ち寄る。彼らもこの光景に魅了されるようで、まるで瞑想に耽るように村人たちのこの日毎の営みを静かに見つめている。村人に加わって水を浴びたり子供たちと遊ぶものも多い。岩山のお陰で夕日が沈むのは早く、私たちは一足先に涼しくなり始めた夕方の光を楽しむ。

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町へ行く必要は全く無い。ナム・ソン川でチュービングを楽しむのも一案なのだが、私たちは農園に留まり、暑くなると浅い渓流に身を沈め、川が身体を冷たく流してくれる感触を味わうことが出来る。日が沈むとコオロギとカエルの大合唱が一帯を圧倒し、私たちは他の宿泊客と静かな会話を楽しめるのだ。

時はこうして正に夢のように過ぎていく。数日泊まるだけの筈だった予定が瞬く間に一週間になってしまう。この光景の中に「誘う小道」が見え、子供たちの笑い声と川の流れが聞こえ、満ちゆく月の光の中で木々の話し声が感じられるような、そんな澄み切った新鮮なエネルギーに満ちたこのオーガニック農園さえあれば、本を読むことさえも忘れてしまう。予定を変更して滞在を延ばさざるを得なかったのはむしろ自然だと言えるかも知れない。

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2005年03月18日

一国の首都

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ラオスの首都ヴィエンチャンが今まで訪れた国々の首都とは全く違っていることはまず間違いない。ある英語の上手いラオス人の女性が「この街を一言でどう表現しますか?」と聞いてきた。「眠くなるほどゆったりした街」という意味の「Sleepy」という言葉が真っ先に頭に浮かんだ。人口50万人の首都が眠くなってしまうほどのまったりさに満ちているのであれば、ラオス全国に住む600万人の国民もそれにも増してゆっくりゆっくり心地よく住んでいるのだろうと思えてしまうほどだ。(この事は、実際にラオス南部で経験済みである。)破壊と混乱に満ちたここ数十年の情勢がまだ記憶に新しいラオスだが、今日その首都はまるで何事もなかったかのように平然とし、穏やかだ。私たちが見る限り、怒りや緊迫した感情というものがここには見当たらないのである。

毎朝多くの市民がタラット・サオと呼ばれる中央市場に集まってありとあらゆる品物を物色する。午後にはご近所さん達が町角や家の前で井戸端会議に花を咲かせる。民放はもちろん、国営チャンネルさえ存在しないにもかかわらず、テレビは人々にとって欠かせない楽しみらしく、タイや中国のドラマやタイのポップス番組を夢中で見ている。夜になると、若者達は屋台でフルーツシェイクを飲みに集まり、大人達も屋台で呑んだり食べたりしている。トランプや、自家製のゲーム盤とビールやソーダのフタを使ったチェッカーで賭けをしている連中も多い。

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ヴィエンチャンは、観光客が訪れるような場所というもの自体あまり無い街だが、街並みはなかなかチャーミングな一帯がある。広い並木道にはラオス、タイ、中国、ベトナム、フランス、アメリカ、さらにはソビエトの影響を受けた建築が混在し、その間に寺院がひっそりと納まっていたりもして、そんな所では急がずリラックスして散歩できる。市街の南西側にはメコン川が流れ、タイとの自然な境を提供している。

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ここには私たちが外来の旅人として頻繁に悩まされる余計な勧誘もあまり無い。通常タクシーやトゥクトゥクの運ちゃんの強引で 絶えることのない勧誘に苛立つ私だが、ここではそれがないのが助かる。ヴィエンチャンでは穏やかな呼びかけに「ノー・サンキュー」と笑顔で答えると、運ちゃん達は笑顔を返しながら今度は「サムシング?」と訊いてくる。当初はこの「サムシング」がなんのことなのか分からぬまま「ノー・サンキュー」を繰り返していたのだが、暫くしてそれが「マリファナ買わない?」という意味であることが分かった。相変わらず首を振って「ノー・サンキュー」と返すと、彼らはそれ以上は何も言わずトゥクトゥクのシートで昼寝を続ける。

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ラオス南部とは異なり、ヴィエンチャンには美味い食べ物が多い。植民地時代にフランス人から学んだベーカリーの技術をラオスの人々が保持したお陰で、とても美味しいパンやバゲットやペイストリーは簡単に見つかる。ラオス風味のサンドイッチもある。長細いフランスパンにフレンチドレッシングまたはしょう油味のソースをからめた生野菜、チーズ、パテなどを挟んだもので、これが安くて非常にいけるのだ。ラオス産の豆で煎れた濃いコーヒー、チョコレート・クロワッサン、純正の中華餃子、そして高級ヨーロッパ料理店などがここには揃っていて、経済的というポイントを考えても最高である。

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街の中心街ではハーブを加えたスティームバスやマッサージのあるスパがトレンディーになっているようだ。その傍にはラオス伝統工芸品の厳選品を売るアップスケールなショップ。そこでは織物、刺繍、手編み籠、その他の伝統工芸が並ぶ。これらの製品の多くはモン族を始めとするラオス北部の少数民族が作るもので、質の高い製品で広く知られることで彼らの収入も安定するというわけだ。熟練した手で念入りに作られた製品は、さまざまな幾何学模様、生地、生き生きとした色彩を見せながら美しく仕上がっている。

この街のユニークさは他にもある。町中で走っている車の数が他の「首都」に比べて極端に少ないのである。これひとつだけでもゆったりした街の雰囲気を醸し出すに十分であろう。中心街の主要道路でさえも歩行者が道を渡るのは至って簡単だ。ラッシュアワーであるはずの時間帯の交通量も可笑しくなってしまうほど少ない。

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ヴィエンチャンのど真ん中には、ある種のゆったりした空っぽさと、他の国の田舎町にも等しいような印象がある。中心街から北東に向けて2キロほどにあるパタット・ルアングは、ラオスの人々にとって信仰の中心となる寺院であり、国民のアイデンティティーのよりどころである。同時にこの寺院はこの街で最も多くの観光客を集める場所なのだが、実際に行ってみるとほんの数えるくらいのビジターがいただけだった。

世界各国の首都に比べると確かに小さな街である。が、そんなヴィエンチャンにも変化と現代化が訪れていた。ミャンマーと同じく、ラオスも世界に向けてその扉を開き始めている。そして社会主義国が資本主義の未来に向けて直面し、もがいている場面を目の当たりにする場所としても、ヴィエンチャンは非常に興味深い街だと言える。あるトラベラーから聞いた言葉が思い出される。「ラオスは数十年前のタイを思わせるような国だ。」確かにそうなのかも知れない。事実、タイの大手銀行で多忙を極める一人の重役は私にこう言った。「ラオスのようなゆったりとした素敵な国で旅をしてみたい」と。

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2005年03月09日

メコンの流れのように

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タイヤチューブに乗っかってメコンの流れに身を任せ、思いっきり太陽の光を浴びる。ラオス南部のシー・ファン・ドン(「四千の島」の意)一帯で体験できる究極のリラックス法のひとつだ。場所によっては流れが少々トリッキーだが、危険に至る可能性などは無く(眠ってしまって下流の大きな滝に呑まれる可能性がないとは言えないが)、心地よい浮遊によって頭の中を空白にし、身体を弛緩させるには絶好の場所だ。この島、ドン・デット(デット島)の川岸には高床式の家とバンガロー形式のゲストハウスが並び、レストランが点在する。あるのはそれくらいなものだが、それが正にこの場所の素晴らしさなのだ。もし、有り余る時間をどうやって使うかを知っていれば、の話だが。

この川を私たちが最初に見たのは5ヶ月ほど前、中国の雲南省の山々を訪れたときのことである。怒濤の激流はあの山々を深く穿ち、麗江付近の虎跳峡を踊る大蛇のように走り抜ける。そしてその流れがラオスの平野に至る頃には翡翠の色を帯びた穏やかな川へと姿を変えていた。メコン川は乾期の今でさえも広く、そしてじれったいほどゆっくり流れている。シー・ファン・ドンは、その広大なメコンの流れの中に大小さまざまの島があり、その直ぐ下流には漁師が絶壁から滝壺へ釣り糸や網を投じるドラマチックな滝を有するというユニークな景観を持つ場所だ。

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メコン川はさまざまな形でそこに生息する動物や大勢のラオス人の生活を支えてきた。(ラオス人口の3分の1がメコンの流れに沿った地域に住んでいるという。)現地の人々にとってこの川は水源であり、魚を採取するところであり、水田用水の供給源でもある。そして川と島々は欧米人と日本人バックパッカーの間で近年注目され始め、観光産業を通じて川の恩恵を受けてもいる。旅行者達の間で何も考えずにリラックスできるところとして知られ始めると、すでに観光開発が進んだラオス北部と比べて未だ些少ではあるがツーリズムによる外貨が入ってきた。やって来るのは主に20代、30代の若いバックパッカーたちで、電気も土産物屋も無い環境を大いに楽しんでいる。

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外来の訪問客は川岸にある砂浜で日光浴したり、チューブに乗って穏やかな流れの上を浮かんだり、島々を自転車で探索したり、さらに読書、夕日を見ながらの「ビーア・ラオ」(現地ビールの銘柄)、ハンモックにくるまって昼寝などを楽しむ。発電機を持ついくつかのバンガローやレストランは夕日の時刻から夜10時頃まで電気を提供する。しかし、部屋の中で電灯を灯すと小さな虫を集めることになってしまうので電気はむしろやっかいだ。薄暗いロウソクの光の方がここでは効率がいい。

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遠い靄と森の茂みや収穫が終わった畑を燃やす煙の向こうに真っ赤な太陽が沈む。ここでの日没は多くの色合いや金色に反射する雲が無く、それ程ドラマチックとは思えない。しかし、日没の残光はピンクがかった灰色となって、闇に覆われる直前まで川岸に生える草や、時折家路を急ぐ小さなボートが横切る川の水面に漂っていた。

この島でバンガローや食事を提供する現地の人々の生活もゆったりまったりそのものである。夕食の忙しい時間には夕食のオーダーが出てくるのに2時間を要することは当たり前だ。厨房で働く数人の女性達はそれぞれのオーダーを全てイチから調理するため、たった3、4人の客が来ただけでも混乱の原因となる。オーダーが全く出てこない場合もある。私たちがある家族経営の小さなレストランへ行ったときのことだ。飲み物と食事を頼むと、ドリンクは直ぐ出てきたのだが、食事が来ない。1時間後に食事はどうなっているかと尋ねると皆きょとんとして反応がない。そう、私たちの食事のオーダーは忘れ去られていたのだ。そのとき、そのレストランには私たちしか客はいなかったというのに。

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現代社会の便利さが欠如しているにもかかわらず、と言うよりは欠如しているからこそ、この地域を魅力的でゆったり出来るところだと思い始めている。ここでの生活はごく基本的でシンプル、時間は有り余るほどある。ラオスへ入ったばかりの私たちの感覚はここでのペースとまだ完全に同期してはいないが、それでも目的も無しにただ在るスペースとしては悪くない場所だと思う。メコンの流れのような時間の流れを感じることが出来るシー・ファン・ドンで数日過ごせばラオスのペースに慣れることは確実だ。

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2005年02月23日

ミャンマーの人々

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ミャンマーにもっといたい。出国の数日前、私はそんな思いを抱いている。ミャンマーでの私たちの旅はスケジュール的にはかなり忙しいものとなり、限られた時間で回るために行程も典型的な観光ルートになってしまった。ヤンゴンから15時間夜行バスに乗ってマンダレイへ、そこからアイェヤルワディ川を船で遺跡の町バガンへと下り、そしてミャンマーの北東部にあるシャン州にある湖、インレ湖へとやって来た。そしてこの後ヤンゴンへと戻るのだが、この国の見どころをじっくり味わいながら回るには私たちの2週間の旅程は明らかに短い。しかし、ここにもっといたいと思う第一の理由はミャンマーの人々に他ならない。

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この国の観光は中国、タイやインドのようにフルに開発されてはいない。そのためか人々が観光客慣れしていないというのが良い。私たちを客と見て寄ってくる人たちはアプローチの際も、断って退くときもフレンドリーさとあきらめの良さがある。マーケットの闇換金の勧誘はしつこくないし、どこの国へ行っても問題が多いタクシーの運ちゃんも、多少交渉する必要はあっても実にあっさりしたものである。土産物屋の店員たちも接客はガツガツしたところがなく、客が買わなくても中国でよく見たように後ろを向いて顔をしかめ舌打ちすることもない。観光客が急増しているインドでは外人を見かけるのが珍しくないはずの観光地でさえもジロジロと見られたが、ここではそんなこともない。見られているにしても、目つきが「舐めるようなジロジロ」ではなくてどこへ行っても「人なつっこく眺める」という感覚なのだ。目が合って相手が無表情でもこちらから微笑みかけると、決まって恥ずかしそうに、そして嬉しそうに笑顔を返してくれる。このような環境では金が絡むことのない場面でも現地の人々と会話や文化交流がしやすい。

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加えて外国語に長けている人が意外に多いのも会話の質が高いことの理由だ。(ミャンマーはかつてイギリスの植民地でもあった。)私たちの旅は個人旅行だが、現地で出会った人々の中にはプロのガイドが多くいて、彼らとのうち解けた和やかな会話からこの国について多くのことを学ぶことが出来た。ミャンマーで外人相手のガイドになるには免許取得を必要とする。(ここで言うガイドとは、一般の運転手やインレ湖の船頭など客を連れて町や湖を案内する人々とは異なる。)免許取得には英語を始めとする外国語に加えてミャンマーの歴史や観光地とその周辺の知識が問われる試験を通過しなければならない。若い世代の間ではガイドは魅力的な仕事のひとつのようである。

その中に一際面白い男がいた。秀才肌の男で、留学したわけでもないのに堪能な英語をペラペラと話し、かなりのヴォキャビュラリーを持っていた。国の各地方の知識にも長けている。どうやってあれだけの英語を習得したのかという質問に、彼は「仕事がない時は必ず数時間CNNとBBCを観る。以前は辞書を片手に苦労したけど今はそんな必要もなくなった。あとハリウッド映画もDVDでたくさん観るよ。スラングや会話の仕方を学ぶのに最高なんだ。英語版の新聞も手には入ったら必ず読むようにしている。」どおりで今の世界情勢にも詳しく、アメリカや日本について突っ込んだ質問をしてくるはずだ。

彼によると、海外からマスコミを通じて入ってくるニュースはセンサーシップ無しで入ってくるという。ハリウッド映画もカット無し、モザイク無しで「ノープロブレム」なのだそうだ。「音楽だって同じ。汚いスラングが入ったヒップホップもオッケーだよ」と、彼は冗談交じりに言った。ミャンマーの政府は人々の生活に直結した問題を少しずつではあるが解決してきており、貧富の差はあるにしても現在は大きな問題ではない。国全体の生活水準も高まってきているようだ。ミャンマーは少しずつその扉を世界に向けて開きつつあるが、その過程がゆっくりなのはあくまでも混乱を避けるためのものだと言う。確かに腐敗はあるが、政治には腐敗はつきものだしそれはこの国に限られたことではなく、アメリカだってそうだろう、とも。

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インレ湖は、湖上の高床式家屋に住む人々が村を形成して活気ある生活を営むことで知られている。ニュアングシュエは、湖畔に位置し多くのツーリストが訪れるところでもあるが、町自体は未だに静かで、そこでは時間がゆっくりと過ぎてゆく。現地の人々が住む一帯を歩き回ると、そこで繰り広げられている彼らの生活をつぶさに見て取ることが出来る。彼らは古くからある基本的な価値観を今も保っている。コミュニティー内での相互援助と協力、そして真の意味での「家族の価値」がそこにはある。日常生活の核としての家族観はどこにも明らかだ。年上の子供たちが年下兄弟姉妹の面倒を見、世話をする。子供は皆家事手伝いをする。年寄りは体力が続く限り若い世代と共に働き、愛情とふれあいを与えながら知恵と知識を次の世代へと伝える。これらの基本的な言動がここではごく自然に行われている。家族内で見られるこのような姿勢は近所の人々やその一帯のコミュニティーへも広がっている。どこにでも共通しているのは笑い声と歌声である。

ミャンマーの人々は歌が大好きである。民謡、今流行のラブソングやロック、アメリカのポップソングなどを大きな声で歌う。道を歩いたり自転車に乗るとき、木陰でリラックスするとき、店番をしているときなど、何をやっていても自然に歌い出す。彼らの生活は確かに楽なものではないだろうが、その歌声は人々の心の内にある幸福を知らしめるものだと思う。そうでなければ、日も暮れて満月に照らされた夜の道で仕事帰りの人々があれほど楽しそうに歌を歌えるはずがない。

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私たちのミャンマーでの旅は短かったものの、その間に意外なほど多くの現地人たちと話し合うことが出来た。親しみやすく好奇心ある人々の気性と彼らの英語能力がそれを可能にしたようだ。前述の英語が堪能なガイドの男は、「ミャンマーの将来は明るい、それがこれから先100年かかるとしても、この国は立派な世界が認める国になる」と言って微笑んだ。政府自体が世界の非難を浴びている一方で、この国の人々が驚くほどの人間性を保って生きているのを見て、ミャンマーの明るい未来と世界的な認識よりも、むしろ私はこの人たちの今のあり方を世界は認識すべきだと思う。私は出来れば近い将来再びここを訪れたいとすでに考えている。

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2005年02月17日

来て良かった

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旅先として考えるミャンマーという国は困惑と議論に満ちた国である。マスコミはこの国について独裁的で全てを牛耳る軍事政権や、民主化運動の功績でノーベル平和賞を受賞したアウン・サン・スウ・チー氏の勇気ある活動、人権損害の行為、さらに充満する腐敗などを取り上げている。インターネットの掲示板や著名ガイドブックでは「ミャンマーを訪れるべきか、否か?」についてその長所と短所が繰り返し討論され、分析されている。これについての私たちの考えは、「何とも言えない。が、私たちは自分の目でそれを確かめ、自分自身の意見を構築したい」である。今、私たちはミャンマーにいる。そして、到着直後の印象が様々な形で私たちの中に生まれ始めている。

ヤンゴン国際空港での入国手続きは至ってスムーズだった。移民局の担当員はビザをチェックしただけでパスポートにスタンプを押し、税関のオフィサーは荷物の点検もせずただ笑顔で私たちをこの国に迎え入れてくれた。この旅に出発する前にアメリカの友人たちはパソコンの持ち込みに関しては気をつけろと言ってくれたのだが、彼らのアドバイスは過去のものでパソコンやビデオカメラ、その他の電気製品の持ち込みに関する制限は暫く前に解除されていた。

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入国して直後に出くわした難点は換金だった。現地の通貨はKyat(「チャット」と発音する)だが、訪問者の立場ではミャンマー国内どこでもこのチャットがアメリカドルと併用されている点で、いつどれを使うかに悩まされることになるのである。ドルからチャットへの換金レートは銀行やブラックマーケットなどによって異常とも思えるほど異なる。空港にある正式な銀行では1ドルあたり450チャットがレートだが、ブラックマーケットでは1ドルが900チャットと二倍にもなる。さらに、一度チャットに換金してしまうと再びドルへ戻すことはほぼ不可能で、ミャンマーの外ではチャットは無価値同然なのだ。それに輪を掛けるように面倒なのが新しいデザインの100ドル紙幣による換金レートは最高で、50ドル札ではレートが下がり、それ以下の紙幣のレートはさらに低くなってしまうことだ。換金に使えるドル札のコンディションは新しくしかも完璧でなければならず(古いドル紙幣はコンディションが良くても換金レートは低くなる)、ちょっとでも破れていたり、表面が剥げていたり、しわが多かったりすると受け入れてはくれない。ジョージ・ワシントンの顔がちょっとだけかすれていた私たちのドル札も拒否されてしまった。

ホテル、アップスケールのレストラン、観光客のための商店などでは値段の表示が全てドルで書かれている。ホテルや商店の中にはドルをチャットに換算した上で(もちろん、外来者に不利なレートで)支払うことは可能だが、航空券やバスチケットを購入する際はドルしか使えない。その結果、私たちは換金という馬鹿馬鹿しいゲームに巻き込まれ、いくら換金すべきかや出国前にやたらと多額のチャットは持っていたくないなどでイライラすることになる。

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この意味不明な換金ゲームにもかかわらず、ミャンマーの首都ヤンゴンは、伝統的な価値観や多様な文化、植民地時代の建物、そして現代的で洗練された要素が混在しながら全体的にゆったりとした印象を持ち、親しみやすく魅力多い都市だと感じた。大きな街であるにもかかわらず、雰囲気はエキゾチックだ。子供や女性は「タナカ」と呼ばれるサンダルウッド(白檀)のような木の粉を水に溶かして顔に塗っている。この濃い肌色の塗料を頬や額にさまざまなトライバルデザインで描いているのだ。紫やオレンジ色のランの花が菩提樹の幹の間から顔を覗かせる。男たちは「ロンギー」というチェックパターンの布をズボン代わりに腰に巻き、ベテルナッツを噛み、「チェルーツ」という名の葉巻を吸う。

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どっしりとした方形の基礎から鐘の形をした黄金色の仏塔、ゼディが雲ひとつ無い青空にそびえ、午後の厳しい日差しを受けてギラギラと反射させている。そんな仏塔の中でも最大、最も聖なる寺院とされるシュウェダゴン・パヤは市内のいたる場所からもその神々しく瞑想的で魔法のような姿を望むことが出来る。夕日の光りの中で、その巨大な仏塔のシルエットが街の風景の中に浮かび上がる。ミャンマーの人々の大半は信仰厚い仏教徒である。そのことは知っていたのだが、市内には意外に多くのモスクも見られる。一日を通じて比較的静かな時間にはモスクからの祈りの声も聞こえるが、音量はインドで聞いたものほどは高くはなく、日中には騒音で掻き消されてしまう。この街にはその他にもヒンズー寺院やキリスト教会、カテドラルなども多くあるようだ。

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茶店はどの道路や街角にもあり、一日中客足は絶えることがない。店によって朝早く開くものもあれば夜遅くまでやっているものもあるようだ。客たちは雑談をしたり、簡単な食事やスナックを食べるためにやって来て、低い木製かプラスチックのテーブルを囲んで座り、欠けた陶器の茶碗で茶をすすり、飲茶のような方法で豚まん、あんまん、春巻き、ジャムサンド、麺、餅米とココナッツのミックスなどを食べる。通常、彼らが注文するのは濃い紅茶かコーヒーをコンデンスミルクで甘くしたものだ。薄目のウーロン茶は魔法瓶に入れて全てのテーブルに置いてあり、客は何かを注文しさえすればそこからいくらでもウーロン茶を飲むことが出来る。アメリカドルでわずか50セント払えば二人が紅茶二杯ずつと満腹になるまで小品を味わえる。

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ヤンゴンの中心街には現代的な高層ビルがいくつか立ち、ビジネスオフィス、ハイエンドのホテル、ブランド商品店、トレンディーなカフェがビルの中に点在している。ビルの周辺の歩道は穴ぼこだらけで、穴に足を踏み入れたりつまずかないように歩くのに一苦労する。乾燥期の道路は埃っぽいが、インドに比べるとゴミは目立たず、比較的きれいに維持されている。道路を走る車は自家用からバスにいたるまでその大半が日本から輸入された中古車である。それを見ていると滑稽でもあり懐かしくもある。私が子供の頃には新車だった小さなマツダが、数十年後にここヤンゴンでまだ庶民の足として活躍している。日本から輸入した後、再度ペイントすることはしないようで、どの車も日本のどの会社のものだったのか、どの地方で走っていたバスだったのかが分かる。故郷の京都で走っていた薄緑と深緑の市バスをこの街で何台も見かけたのには驚きもし、笑いもした。

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ミャンマーは至って安全な国である。ヤンゴンの市内を歩き回っている間も、旅の途上で少なくとも持ち続けている警戒心や身の回りの注意といったものが、ここでは全く不必要に感じるくらいだ。見た限りでは私たちに対してはもちろんのこと、人々の間でも暴力らしきものは全く見当たらず、他の国ではどこでも見かける路上での白熱した口論さえない。市民の間ではある独特の平和さと穏やかさが普通のようである。政府は、世界への対面を保つために国民に外国人には優しく親切に振る舞うことを奨励しているという。言うまでもなく、政府は観光客が持ち込む金(つまりアメリカドルのことだが)を意識しているようだ。が、人々が漂わせる優しさは、なにも政府がお膳立てしたからだけではないと私は思う。彼らの笑顔はこわばったものでも皮一枚だけのものではなく、まだ観光ずれしていないごく自然で純粋なものだと感じる。

この国を訪れる他の訪問者たち同様、私たちはミャンマーの深刻な歴史を知っている。大英帝国による植民地時代、第二次大戦中の日本による侵略、戦後の混乱に満ちた不安定な内部情勢、世界中に知られることとなった軍事政権による独裁と民主化の否定。人権蹂躙の記録。腐敗したシステム。貧しさにあえぐ人々。ミャンマーの生活が困難であることは明白だ。が、人々の姿勢は前向きでその表情は明るい。私たちがここに来てからわずか二日ほどだが、人々からはこれらの困難を感じず、心地よい雰囲気を味わっている。予想していた全体的に厳正で堅いムードに反して、私たちは優しい微笑みと無垢な笑い声に囲まれている。世界世論を意識して、ミャンマーは少しずつ世界への扉を開きつつある。観光客が旅費として使う金は、10%の税金以外は人々の手に残るという。とすれば、このささやかな献金が、いつかは人々の経済的独立に貢献し、さらに政治的な独立にもつながってゆくものになるよう我々は望むばかりである。ミャンマーの外では、多くの矛盾を抱えるこの国を訪れるか否かで今日も意見が交わされているのだろう。しかし、今ここにいる私たちは来て良かったと正直に言える。

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2005年02月02日

「ミスター・シッダウン」

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彼の本名は知らない。いつか尋ねる気になるかもしれない。それまでは「ミスター・シッダウン」というあだ名で彼を呼ぶことにしている。毎日夕方6時頃、彼の黒いおんぼろトラックが角のセブンイレブンの真ん前に停まる。そこが彼のスポットである。暫く道具を並べたり準備したりした後、トラックの後ろでラーメンを作り始める。夕食の時間だ。腹を空かせた近所のタイ人たちが群がってくる。バンコックを訪れるときはいつもここが私たちのご近所さんとなる。私が彼の屋台へ食べに行くときばかりではなく、ただセブンイレブンへ行く道でまえをとおりかかるだけでも、彼は笑顔になりあの優しいタイ訛りの英語で「シッダアァァウゥゥゥン」と手招きする。これが私がこの愛すべき老人のあだ名の由来だ。そして彼のタイ風ラーメンは最高に美味い。

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一杯のラーメンを作る最初のステップは麺とワンタンを茹でることから始まる。バンコックでラーメンが食べられる屋台では、普通細い米麺、太めの米麺、中華麺、そして(なぜかは理解に苦しむが)インスタント麺などから数種類の麺から選ぶことが出来るのだが、ミスター・シッダウンは中華麺だけを使う。一杯に4個入れる自家製のワンタンは豚肉入りだ。次に椀の底にさまざまな材料を入れる。タイのホウレンソウ、刻んだ青ネギ、皮ごといぶしたニンニク、野菜の漬け物を少々、油で揚げた豚の脂、そして一口サイズに刻んだ大量のチャーシュー。タイ風フィッシュソースと酢を少々。麺とワンタンが茹であがると水を切って椀に移す。豚からとったコクのあるスープをかけ、油で揚げたワンタンの皮を上に載せて出来上がりだ。客は好みによって一味唐辛子、フィッシュソースと酢、生の唐辛子を漬けた酢などを加えて食べる。

数年前初めて食べてからというもの、私はこのラーメンにはまっている。私よりもバンコックに詳しい外人たちに訊いても皆口を揃えてこのラーメンが街で最高だと言う。その秘密はやはりスープにあるようだ。コクがあって食べた後の満足感を促するような味を出すのにも、彼は「味の素は使ってないよ」と念を押す。肉をほとんど口にしなかった(そして口にしたいとは思わなかった)3ヶ月間のインドの旅の間に、この「豚オンパレードの一杯」を夢見ることが何度もあった。このラーメンは夕食によし、夜食によし、時にはその両方にしても私は構わない。

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客層にはタイに詳しい西洋人のトラベラーも多い。その一人はタイにはこれまで16年間訪れてきたタイ語と東南アジアの研究者だった。タイ語を操る彼に通訳を頼んでミスター・シッダウンにいくつか質問をしたのだが、彼はこの同じ場所で30年ラーメンを作り続けてきたそうである。始めた当初はこの一角も密集していたわけではなく、数軒の家しかなかったのだが、そばにある市場で賑わっていたらしい。車やバイクもはしっていなかったという。当時は一杯2バートだったラーメンも、時が変わり30バート(米ドルで75セント)になった。最近は忙しい夜は大人になった娘が手伝いに駆けつける。だが、ラーメンそのものは変わることなく、毎日多くの客が食べに来て満足して帰ってゆく。

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夜中を過ぎるとしばらくの間ミスター・シッダウンの屋台に客が見られない時間帯がある。彼の休憩時間だ。ビールを飲んで近所を見渡す。少々飲み過ぎると目が眠そうにトロンとなる。夜明け前、運搬トラックの運転手たちが腹を空かせて市場に到着する。バンコックのどこかで飲んでいた外人たちも夜食を探してやって来る。中には、ミスター・シッダウンのラーメン目当てにわざわざ街の反対側からやって来る人もいる。タイでの旅の最後の夜、次の旅先あるいは祖国へ帰る前に美味いラーメンを食べてから、というトラベラーまでいる。店終いは朝3時。何人もの深夜の客が来る。彼は家に帰って眠り、明日またこの同じ場所で同じラーメンを作る。バンコックの風物詩のひとつである。

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2005年01月19日

ハンピで「ホームステイ」

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ハンピはかつてインド史上最大のヒンズー帝国、ヴィジャヤナガルの首都があった土地にある観光地だ。この町のどこにいても望めるヴィルパクシャ寺院へと続く道ハンピ・バザールとトゥンガバードラ川の間にこぢんまりと納まっている小さな町である。今年のサンカランティ祭は、今月13日と14日に行われ、それを祝う多くの巡礼者たちがここ一帯に数ある寺院とトゥンガバードラでの沐浴にやって来ていた。低コストの宿泊を提供する多くのゲストハウスやダールマサラでリラックスするインド人と外来の観光客も加わって、この小さな町はかなりの賑わいを見せている。ハンピではそれでもゆっくりと時間が過ぎてゆく。訪れる人々もゆったりと周囲に広がる遺跡を探索している。私の場合、この町はマラリアが回復した後の休養地として最適の場所だった。

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周囲の環境はとてもユニークで、自然と人間が作り上げた驚きだとも言える。岩に覆われた地形とその間に点在する石彫刻に覆われた遺跡がまず全体的な色合いを定めている。巨大な岩がまるで巨人がばらまいたように危うく、美しく重なり合い何とかバランスを保っている。アリゾナ州のセドナやユタ州に見られるような風景と色だ。この地形の間にゆっくりと川が流れ、その西側には田んぼやバナナ農園やココナッツの林が淡い緑を添える。南側には岩をうがって彫り上げた寺院や石柱があり、その側面には初期のヒンズー教に見られる神々が洗練された技術で浮き彫りにされている。雲が少なく、青空が常にこれら全てを覆っている。日中は乾燥した鋭い日差しが暑く、何をする気にもなれない。私たちは日の出前後には起床し、朝食前に遺跡やバナナ農園や川の畔の畑を歩き回り、朝食後は夕方まで特に何もせずゆったりと過ごし、出かけたとしても大きなマンゴーの木の木陰でチャイを飲みながら寝そべるという生活を続けている。

宿泊しているのは、家族経営の宿泊所だが、ゲストハウスやホステルと言うよりも家族が住む家の一室と言った方がふさわしい。ハンピ・バザールから二筋ほど路地を入った所にあるこの家の周囲は一般家庭が住む現地の住宅地で、商店などは少ない。家の屋根からは繊細な石彫刻が白く浮かび上がる高さ50メートルのヴィルパクシャ寺院塔を真傍に望むことが出来る。部屋は小さな窓とやたら堅い鉄製のベッドがあるだけのごく基本的なものだ。ほんの30メートル足らずの路地にあるこの家の近所はお互い誰もが知り合いで何でもざっくばらんに話し合ったり井戸端会議をよく見かけるような、いわば長屋のような雰囲気だ。観光客目当ての売り込みたちが割り込んでこない静かな場所である。遺跡や周囲の環境の色合いが美しいこともさることながら、私たちが気に入ったのはこのご近所の人の良さと心地良さだった。

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この家族は柔和な笑顔を漂わせながらそれぞれの日課をこなしていく。奥さんは、門前の地面に広い砂を使って毎朝夕異なった幾何学模様の「ランガヴァリ」を描き、私たちの目を楽しませてくれる。多くの家の前でも二枚に描かれるこれらの模様は、シンプルなものから複雑なものまでバラエティーに富み、砂埃や動物の糞やゴミが目立つ歩道に美しいアクセントを添えてくれる。奥さんは、その日のランガヴァリを描いた後、香を焚き、鉢に赤、サフロン、白のティッカ粉を用意する。そして家中の扉と格子を掃除しながらそれぞれを香の煙で浄め、ティッカ粉で飾りを塗りつける。ご主人はどこかの銀行のマネージャで、毎朝9時半頃から丸1時間かけて熱心にヒンズー教のプジャ(祈祷)を行い、遅い朝食を食べて11時頃悠々と仕事に出かけていく。奥さんはその日のお浄めの後も掃除、洗濯、洗い物、宿泊客の世話、ゲストハウスの掃除などに忙しい。息子はここから13キロ離れたホスペットという街の商社で忙しく働く会社員だ。宿泊し始めて直ぐに私たちはこの家族とうち解け、ゲストハウス経営者と宿泊客との関係には留まらないお付き合いを楽しむことが出来た。

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息子のチャンドラがこの一帯で最も日の出が美しく見えるマタンガ丘に登ってはどうかと勧めてくれた。翌朝、彼は早起きをして、出勤前に丘の頂上までガイドしてくれた。奥さんが夕食に招待したいと言うので、ごちそうになった。チャパティ、バナナ・シカラニ(バナナをヨーグルトと砂糖であえたサラダ)、サンバー、スブジと呼ばれる野菜料理二種がテーブルに並んだ。何ヶ月も食べているレストランや食堂の料理とは全く異なり、やはり家庭料理は新鮮な食材と作る人の思いがこもっていてエネルギーが違う。夕食の値段を尋ねたら払う必要は無いという。私たちの狭い部屋では何も出来ないだろうと、母屋のダイニングルームを仕事場として使わせてくれた。リンの誕生日には朝食に彼女の好きなイドリとチャイも作ってくれた。一泊250ルピー(約600円)という安い宿泊費が申し訳ないような待遇である。

3ヶ月近くインドを旅してきたが、知り合いがいない場所で現地の人々と金と商売が絡まない会話が出来る機会はごく稀である。この国でのフレンドリーな会話は我々が「暫く話していればそのうち何かを買う気になるだろう」というビジネスの期待が常にその背後にあるからだ。買わないと分かった瞬間にあれほど振りまいていた笑顔が消え去るのをインドでは何度も見てきた。すぐ傍のハンピ・バザールでもすでに何度経験したことだろう。それとない現地の人々との会話がいつの間にか売り込みに変わり、私たちが興味を示さないとコミュニケーションは遮断され、売り手の目はすでに次の獲物を物色している。それだけにこのハンピの家族のようにビジネス関係の枠を越えて、真にフレンドリーなコミュニケーションを通わせる機会に巡り会うと嬉しく、正にこれが予定より長くこの町に滞在することにした理由だ。ハンピはインド国内でもよく知られる観光地だが、一方では観光地であり過ぎるこの町でも、この親切な家族の家に泊まり、朝早い内に周囲の遺跡を探検するだけで、雑踏と呼び込みの声を免れることが出来た。その上で、ハンピは私たちが訪れたインドの多くの場所の中でも最も印象深い町だと言える。

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2005年01月12日

マラリア体験

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カルナタカ州のマイソールにあるJSS病院に入院していた。コチで刺された蚊が原因でマラリアにかかってしまったからだ。コチは歴史的な魅力やカルチャーがある街だが、下水、ドブ水や汚水の水溜まりが臭い非常に蚊が多いところだ。1月3日の夜行列車でコチを出発した。発車時間を待つ間も身体がだるく熱っぽくもあったのだが感冒か何かだろうかとしか考えていなかった。列車は冷房車だったにもかかわらず寝ている間に大量の汗をかいた。翌朝マングロア着、駅から市内へはオートリクショーで入り、さらにバスに乗り換えハサーンを経てほぼ一日がかりでベルールという小さな町に到着した。宿にチェックインした時点で頭が重く、寒気も少々感じるようになっていた。

感冒による節々の痛み、熱、寒気などの症状は今までに何度も体験しているが、旅先での病気ということもあり、大事をとって宿泊したホテルのすぐ傍にある医療所で診察を受ける。結果はマラリアの心配はなく、感冒か慣れない天候や悪い水などによる熱だということで、2日分の解熱剤と抗生物質を処方してもらった。実際には何が原因で、どんな病気なのかは、あの医師には分からなかったようだった。この小さな町の医療所では診察料は無料である。診察を受けている人々は皆貧しい人たちで、無料診察を受けるために長い間順番を待つ。彼らは薬代だけは払わなければならないが、それでも国民保険か何かのシステムで全額払うことはないようだった。ちなみに処方してもらった解熱剤と抗生物質3日分は52ルピー、日本円で150円にも満たない。

ベルールで滞在する間、この体調であまり外出することが出来なかったが、6日の朝、熱が下がったのをみて石彫刻が素晴らしいチャンネケシャヴァ寺院を訪れた。しかし、解熱剤が切れると感じる悪寒はますますひどくなり、熱も39度を上回るようになってしまった。この病状悪化の様子でこれがただの感冒や気候、さらには悪い水によるものという単純なものではなさそうだ。この町の医師の診察では心許ないという結論に達し、翌日7日の朝、リンが車をチャーターしてカルナタカ州南部にあるマイソールへ至急向かうことに決めた。マイソールは病院の設備が整った中堅サイズの街の中で最も近距離にあったからである。4時間のドライブの間にも極度の悪寒に襲われ、車を止めて強烈な日差しの中で「暖を摂る」場面もあった。

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マイソールには政府経営の大きな病院があり、まずそこへ行くことにした。その病院に乗り付けたのが午後1時。受付では登録料10ルピーを払って診察カードなるものを作ったのだが、午後1時から2時までは急患の部署も「お昼休み」で受け付けてはくれなかった。この事自体想像の域を超えた病院運営である。しかも、居合わせた若い医師が言うには「JSSという病院の方が良い治療を受けられるよ。」いかにも「インド政府経営病院」といった感じで呆れてものが言えない。JSS病院は幸いそこから直ぐ近くにあり、早速急患診察所に入った。ERのベッドの横たわって測った体温は40度を越える高熱となっており、私が外人であることも手伝ってか医師たちもさすがにまともに対処する気になったようで、体調が崩れ始めてからの経過を何度も尋ねた後、早速点滴を開始し、解熱剤を注射し、さらにてきぱきと診察と治療のプランを立てていた。

JSS病院はいわゆる医科大付属病院で、したがって診察に当たっている医師や看護婦にはインターンが多い。私の診察はインターンから医学部博士課程の大学院生へと引き継がれ、遂に大学教授まで達することになった。教授は直ちに入院手続きをとり、血液検査を行うよう助手に伝えた。入院手続きはこれもインドらしく書類記入や誰かの承認が必要だったりで、個室の病室に入るまでにはかなりの時間を要した。検査のための採血もしたのだが、病院内の検査では時間がかかり過ぎるということでマイソール市内にある専門のラボで検査を行うことになった。感情を表情に出さない神経質そうな大学院生が彼の車で街のラボへと連れて行ってくれ、再度採血してからわずか20分後、マラリアの陽性反応が判明。病室に帰ってから即刻点滴に抗マラリア薬を混入した治療を開始した。治療期間は5日間。「速攻治療」ということだった。

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教授を囲むインターンや医師たちはそれぞれ内科、医薬、伝染病などの分野での専門家たちで、皆優秀で確かな知識も持っているようだった。この専門家のグループは教授を囲んで意見の交換を行い、治療方法の詳細を確認し合い、そして教授を最終的な決定者として実際の治療を進行させる。あの無表情で神経質そうな大学院生は、インドの医者は途上国には、普段西洋の医者たちが見ることもない多岐に広がる健康衛生問題や病状と常に対処しているため、西洋の医者たちよりも経験を積んでいると言っていた。

看護婦たちは全く別問題である。彼女たちが親切でフレンドリーなのは助かることは確かなのだが、医師たちが指示した治療を実際に患者に施すのは彼女たちで、これがかなり適当で時には医師の指示を誤解していたこともあったりした。点滴針を挿入するときも血管に的中せず、何度も失敗するのには苛立ったし、正しい薬の服用回数や時間帯などについても何度も問いたださなければ正確な答えが返ってこない。従って看護婦たちの治療は毎回注意してフォローしなければならなかった。

病室は狭く、お世辞にも清潔とは言えない。専用のトイレ付きバスルームの清掃は頻繁には行うが、水と汚れた雑巾、木の枝を束ねたほうきを使って掃除するだけで消毒はしていない。バスルームの天井からは何か液体が落ちてきていて、まるでどこかの鍾乳洞のように床の数カ所で蓄積している。大きなゴキブリが這い回る。蚊も入ってくる。マラリアの治療を受ける病室で蚊の心配をしなければならないところが正にインドである。蚊取り線香は配布してくれたが。廊下には「静粛に!」と看板があるが、インドでは静粛なところなどは存在しない。患者の咳き込む声やうめき声、生まれたばかりの赤ん坊の泣き声、廊下で井戸端会議に熱中する人たちなどで一日中やかましい。

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食事は出ない。従って食事は外から持ち込むか近所の食堂へ外食しに行くしか方法はない。さらに点滴、点滴用機材、注射セットから服用薬に至るまで、医師の指示に従って全て自分で付属薬局へ行って購入しなければならない。当然これらの雑用は患者の家族の仕事となる。看護婦たちは患者が自ら買ってきたものを使って治療に使うのである。私の場合、リンが同じ部屋に滞在することが出来、これらの雑用をこなしてくれたのが不幸中の幸いだった。一人旅でこのような状況に置かれたトラベラーたちは一体どうしているのだろうか、と考えてしまう。

抗マラリア薬の点滴を始めて直ぐに熱が下がった。この点滴による治療に3日を費やし、さらに念のため2日間服用薬で血液中のマラリア全滅を図る。教授を始めとするスタッフチームは毎朝10時頃さっそうとやって来て体温、脈拍、血圧のデータを確認し、看護婦から治療経過の報告を受け、指示を与える。そして入院5日目、血液検査を再度行った。その結果、マラリアの陰性反応が確認できた。12日の朝、教授はその結果を見たうえで退院許可をくれた。教授と彼の生徒たちによる診断と治療は非常に的確でスピーディーだが、入院や退院の際の手続きはいかにもインドらしくじれったいことこの上ない。退院手続きだけに約3時間待たされた。

JSS病院は医大と訓練校も兼ねた施設であるため、診察、治療、入院のコストはかなり低い。そのため、患者たちは一般に貧しい人たちが多い。個室の場合、入院費は個室で一日250ルピーと安いことは確かだが、入院手続きの際に2000ルピーの前払いをしなければならない。この前払いが出来るか出来ないかでどの病室に入るかが決まるようだ。後に聞いた話では、マイソールには全般的により良い環境が整った病院が何件もあるそうだが、治療費は5倍するらしい。

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今回マラリアの治療にかかった診察費、治療費、血液検査、薬代、個室での入院費などを含めた全ての経費は250ドルに満たなかった。JSS病院には清潔で蚊のいない病室や現代の最新医学技術があるわけではなく、看護婦も非常に頼りない。反面、適切で民主主義的な医師の診察と治療は先進国の病院と同じであろう。アメリカでは一般消費者が負わなければならない医薬品のコストの高さが大きな社会問題になっている。健康保険費がべらぼうに高く、それに加えて実際の治療費もさらに高いという現状は、アメリカ市民の多くが医療制度の恩恵を受けることが出来ないといった「先進国」にはあるまじき現象を生んでいる。インドでも将来は医療コストが大幅に上昇するとは聞いているが、現在はベルールのような小さな町でも(たとえ誤診するような医師でも)人々が容易に診察や治療を受けることが出来るのだ。

インドでの入院経験など自慢にもならないし、決して心地の良い体験ではなかったのも事実だ。が、無事回復した今、通常決して見ることのないインドの側面を垣間見ることが出来たのは思いも掛けない貴重な経験と言えるかも知れない。

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2004年12月25日

熱帯のクリスマス

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「ゴアとケララ、あなただったらどちらへ行きますか?」アーメダバッドに滞在中、多くの人にこの質問を投げかけた。誰もがケララを推薦した。ケララ州はインド亜大陸最南端の西側に位置する熱帯地域で、アーメダバッドの人々が言ったように海岸沿いの地域は豊富な植物による緑、空と海のブルーが美しい。そしてここはココナッツの国だ。数日前までいた北インドとは気候も食べ物も全く違う。インドの多様性を目と肌で再び体験した。

ケララに外来の人々が訪れ始めたのは3000年も前だと言われ、商人や船乗りがスパイスや象牙を求めアラビア海を渡ってやって来た。16世紀、ヨーロッパ諸国の植民政策が始まると、ポルトガル、オランダ、イギリスが香辛料貿易の主導権を巡って争った。バスコ・ダ・ガマを代表とするポルトガルからの宣教師たちを受け入れ、キリスト教の影響も未だに根強く残っている。インドと西洋の融合が見られるユニークな文化がここにはある。芸術と教育に力を入れる州政策のお陰で、インドで最もプログレッシブな地域でもある。

私たちが最初にやって来たのはコヴァラムというビーチタウン。空港からダッシュボードにガネシャを祀ったプリペイドタクシーとマリア像のステッカーを貼った三輪タクシーを乗り継げばそれ程遠くはない。この宗教的なミックスはインド北部では見られなかったもので、インド文化の深さを思わせる。

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某ガイドブックによれば、1960年代にはヒッピー天国だったが今は寂れた印象を拭えないとあったが、実際に来てみると、多少の開発が進み値段もアップされてはいるものの、かえって静かにまったりするには絶好の小さな町である。「ライトハウスビーチ」と呼ばれる砂浜は、小さな湾の南側にある灯台から北に2キロほど広がり、海に突き出た岩場が北に隣接する「ハワービーチ」との境となっている。ビーチ前の歩道に沿ってホテル、レストラン、土産店が連なっている。インド古来の「アユルヴェディック法」によるハーブ薬店、マッサージやヨガセンターもある。海岸から丘に上る斜面はココナッツで覆われ、その中に現地の人々の住居、さらにレストランやホテルがある。

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ライトハウスビーチは休日前後のハイシーズンにはかなり賑わう所だが、その環境でゆったり過ごしていれば大して気になるものでもない。浜の砂質はきめが細かくしっとりとソフトで肌触りが良い。海水も滑らかで鮮やかなトルコ石の色に澄んでいる。波はタイの島の海岸に比べれて荒く、午後から高くなって波に乗って遊ぶにはちょうどいい具合だ。アラビア海の潮は水流が速くしかも強力で、しばらく浮かんでいるだけで深い沖へと流されてしまう。それはこのビーチだけではなく、近辺の海岸も同じらしい。そのため、ここでは常勤のライフガードが警官のような制服で頑張っていて、海に入る人たちに忙しくホイッスルを吹いている。赤道近くだけあって暑いが、穏やかな潮風が涼しく、何よりも空気が新鮮なのが有り難い。

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クリスマスのデコレーションは通常西洋や日本でも見るものもあるが、一般に大げさではなくひっそりと静かな飾り方だ。ケララでユニークなのは中が空洞になった紙製の星。表面にはパターンがくり抜かれているものもあれば、ホリデーシーズンのメッセージを印刷したものもある。中に電球を灯して天井や軒下に掛けるとほんわかとしたムードを醸し出し、波の音や海風とともにエキゾチックなクリスマスを演出してくれる。

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クリスマスの当日、朝から近辺の漁村の男たちが船を連ねてコヴァラムのビーチへと大挙押し寄せてきた。観光シーズンの盛りではあっても前夜までは静かだったビーチは大いに賑わう。彼らはこの湾で泳ぎ、水辺を走り回り、砂の上を転がり、アイスクリームを食べ、西洋人の若い女性をからかって(ここに限らずインドの男はどこでも同じで、欲情剥き出しの目を白人や日本人女性に投げかける)、一日中子供のように遊びまくった。聞けば、ごく近くの漁村に住んではいても、彼らがこうして一日中仕事をせずに遊ぶのは年に一度、このクリスマスの日だけだという。

アメリカのクリスマスシーズンは10月末日のハロウィーンが過ぎた翌日から本格化する。このクリスマス商戦が旗揚げすると、メディアはもちろん街のショッピングモールや商店街はこれでもかと言わんばかりのコマーシャルとデコレーションに染まる。そんな環境では嫌でもそれに応じなければならないような気分になってしまい、仕事とショッピング、パーティーに追われる忙しない生活を強いられることになる。今年の私たちのクリスマスは、それを全く感じることが無く、南インドのトロピカルな環境の中で静かに過ぎていった。正直言って、その方が良いのではないかと考えている。贅沢を言えば、家族や友人たち、近所の人々と祝いたかった。この休日はそのためにあるようなものなのだから。

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2004年11月07日

ガンガに浸かる

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ガンジス川、現地の名はガンガ。ヒンズー教徒にとってこの川は聖なる川または水であり、インドそのものの母であり、存在の源である。ガンガが流れる聖地としてはインド北部のベナレスが広く知られていて、多くの観光客や旅人たちがこの国を代表する文化や風習を見ようと集まる街らしい。残念ながら私たちのインド滞在予定にはベナレスを組み込むことが出来なかったが、ウッタランチャル州にある二つの街でこの川と人々が織りなすスピリチュアルな光景に接することが出来た。共に観光客が比較的少ない街である。

ハリドワルはガンガがちょうどヒマラヤ山脈からデリーを擁する大平野へと流れ出す地点にあり、数あるインドの聖地の中でも最も重要だとされる。また、ハリドワルは宗教的な祭りの中でも世界最大と言われ12年に一度行われるクンブー・メラのサイトでもある。インド国内外からの巡礼者も後を絶たない。街そのものはそれ程大きなものではなく、インドでは比較的静かな所だ。ガンガの水は澄んでいて、ドキュメンタリーなどで観たベナレスの水に比べて清潔さでは格段の差があるようだ。

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この街の大きなガート(沐浴場)で人々は聖なる流れと神々に祈るだけでなく、ありとあらゆる日常生活そのものを営んでいる。私たちの通常の生活では常に家の中や壁の向こうで行われている行為、特に水を必要とする仕事がこのガートでは公然と、しかも全てが同時進行で繰り広げられていた。この場所で人々が表現する感情にも喜怒哀楽の全てが同時に見て取れた。その光景は驚きであり神秘的であるとともに、ユーモア一杯でもありサイケデリックでもある。(逆に、日本人や西洋人にも共通の「日常」は、それを全部同時にさらけ出してしまえば驚きとなり得るものなのだ、とも言えはしないか。)

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ハリドワルの北東約25キロにはリシケシがある。今日ヨガや瞑想の中心地であるこの小さな街は、1960年代にビートルズが彼ら(特にジョージ・ハリソン)のグル、マハリシ・マヘシュ・ヨギを慕って訪れた場所として世界的に知られることとなった。熱心なヒンズー教徒にとっては、ヒマラヤ山中にある巡礼地へ向かう拠点となる。インド北西部は11月でも暑さを感じるのに比べ、ガンガに臨む谷に位置するこの街では毎日夕方から朝にかけてヒマラヤからの強風が吹き、夜はかなりの寒さを感じた。

夕日が沈む頃には花、お香とロウソクを聖なるガンガに流して祈る人々で川縁が賑わう。この儀式は「ガンガ・アールティ」と呼ばれ、リシケシュだけではなく、ハリドワラはもちろんインド各地の聖地で行われるものだ。川の流れ、鐘の音、人々の祈り、川岸で奏でられる音楽が聞こえる中で、巡礼者たちが油に灯を点して念願だった祈願を唱えるのを私たちは無言で見つめていた。

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ある友人がここに来るのを勧めてくれたこと、中国の昆明で出会ったトラベラーが「ベナレスには行かなくてもリシケシはインドへ行く度に必ず訪れることにしている」と言ったことの理由が分かるような気がする。リシケシでの二日目、自分たちもガンガの水で身を清めようと散歩に出かけた。渓谷に架けられた吊り橋を両岸にあるアシュラムを見ながら渡り、川の上流に向かって少しばかり歩くと大きな岩の合間に砂浜が点々とある場所が見つかった。下流では広くゆったりと流れるこの川も、ここではまだ渓流である。谷間のガンガは恐ろしく深く、流れは速く、そして水は冷たい。川から上がった後、稚拙ながら気功をやってみた。強く乾いた日差しの中にもかかわらず、ガンガの清い流れのすぐ傍で感じたエネルギーは静かで冷ややかな清浄力に満ちたものだった。ふと見ると数人の旅行者たちもそれぞれのやり方で瞑想に耽っていた。

ヒンズー教徒ではない人々までが惹かれるこの地もある程度の騒音は免れないが、カオス的なインド各地の街にはない精神的な静けさがある。ヨガや瞑想を学ぶもよし、川岸で日光浴をするもよし、旅の疲れを癒すもよし。目的が何であろうと、ここにはヒマラヤの麓を流れるガンガが人々を招いているような気がする。

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2004年10月30日

ハウスボートにて

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カシミールに来てしまった。四季折々の自然と文化に恵まれるこの地域は、かつては「インドの冠」と呼ばれ、その美しさと軍事的な位置ゆえに紛争の舞台となってきた悲劇のヒロインのような所である。そんなカシミールに憧れてはいたが、実際にこの地へ足を踏み入れることは全く予期していなかった。それがある偶然でここジャムー・カシミール州の首都、スリナガルのダル湖に浮かぶハウスボートで滞在することになったのだ。

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ダル湖上でホテルとして機能するハウスボート(略して「HB」)は約2,500隻あると言われている。各HBは現地のハウスボート協会によって施設、サービスなどの観点からデラックス、A、B、Cの四段階にランクされている。私たちが宿泊しているHBは「HB Mantana」という名のデラックス級で外観、内装、サービス共に至れり尽くせり。私たちの部屋は今年6月に滞在したベルリンのアパート以来の豪華版である。

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面白いのはこれらHBの名前で、もっともなものから笑えるものまでバラエティーに富んでいる。「Crown of India(インドの冠)」や「Heaven of Kashmir(カシミールの天国)」は当然のネーミングだ。「Sunflower(ひまわり)」や「Morning Glory(アサガオ)」などの花の名前。世界各国の地名も頻繁に使われる。やはりイギリスやオーストラリアなどからの訪問客が多いのだろうか、「Buckingham Palace(バッキンガム宮殿)」、「New Australia(ニュー・オーストラリア)、「New Sydney(ニュー・シドニー)」などもあるが、よく知られてはいてもこの土地には似つかない「Hollywood(ハリウッド)」、「Chicago(シカゴ)」、「Bangkok(バンコック)」、果ては「Texas(テキサス)」まである。同系列の名も笑える。「Mona Lisa(モナリサ)」とその姉妹店の「Young Mona Lisa(若いモナリサ)」があったり、幅広く経営されているものとしては「Dawn(夜明け)」、「New Dawn(新たな夜明け)」、「Happy Dawn(幸せな夜明け)」、「Lucky Dawn(ラッキーな夜明け)」。「Apollo Eight(アポロ8号)」と「Neil Armstrong(ニール・アームストロング)」のコンビは実に楽しい。日本のラブホテルの名前のようだと言えばそうかも知れない。

ダル湖はそれ程深くはなく、冬と悪天候以外は強風が吹かないため、湖面は大変なめらかで鏡のようだ。HBからシカーラでスリナガルを囲む山々の景観が水面に映えるのを見たり、湖上の船や島に住む人々の生活を垣間見たりするのもこの土地の文化と生活を知る楽しみのひとつだろう。

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カシミールの観光シーズンは夏だが、モーターボートや水上スキーもいない秋深まる静かなダル湖とスリナガルを、私たちはHBとシカーラでゆったりと味わった。寒い夜が明け太陽が湖面に当たる頃、水面や霜が降りた畑から湯気が立ち上ってミステリアスな雰囲気を演出する。ここ数年のような安定した情勢下であれば、誰もがユニークな体験を望める場所だと思う。

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2004年10月12日

シーズン前

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観光シーズンを迎えようとしているコ・ランタ(ランタ島)では未だに雨が多い。この島は、リゾート地として有名なプーケットやピピ島の南、クラビ県に位置する。島の西側は砂浜が多く、ビーチに沿ってリゾートホテルやカジュアルなバンガローが建ち並んでいるが、ハイシーズンではないせいか今のところひっそりとしている。東側には砂浜は無く、マングローブが水辺まで生える海岸線が主で、小さな漁村が点在する。その中で最も大きな村がオールド・タウン・ランタと呼ばれる集落で、私たちはそこに住む友人を訪れることにした。

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ここでのハイシーズンは毎年11月から5月。西側ではシーズンを前にホテルやバンガローの改築、増築、修理などで忙しい。雨期の盛りはそのような仕事は全くはかどらず、シーズンに入ってしまうと接客に追われるため、多少雨は降るが晴れる時間もあるという今が準備期間なのだ。東側に住む漁民たちには観光のハイシーズンなどは無く、今はただ雨期だというだけだが、彼らも家の修理や改築に忙しい。この時期風が吹く方角は一定しておらず、雷雨やスコールはいろんな方角からやって来る。早朝から午後の早い時刻は何とか晴れるが、午後から夜にかけての天気は不安定になる。

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オールド・タウンの夕暮れのひととき。雨雲がどこからか近づいて来て(あるいは雷雨が去った後に)夕日に照らされると、身の回りのもの全てが暗いオレンジ色に映える。雲はもちろん、海や他の島々、水際に立つマングローブの木々、人々の顔、山を覆うゴムの木やココナッツ、バナナ、マンゴーなどの葉、村の家々、そして熱帯の空気までがこの色に染まっているかのように見える。山の麓の森からはカエルや虫の声が聞こえ始める。

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島の西側での夕日は素晴らしい。雲の無い夕日も素晴らしいだろうが雲が多いときの夕焼けは、文字通り天に火が点いて燃えているような光景を演出する。私たちの目は沈む太陽そのものよりも夕日に映える雲を追い、そこにくり広げられる黄金のドラマに言葉を失ってしまう。砂浜近くに住む漁師たちは、ちょうどその頃になると夜の漁を求めて船を出す。沖を目指す彼らの船のシルエットがオレンジと赤の間にわずかに見え、そして島は夜を迎える。

雨期について島に住む人々はまんざらでもないようで「涼しい時期だ」と言ってむしろ嬉しそうだった。島を走る道路がぬかるんで車やオートバイの運転は困難になるが。私たちにとってもこれらの光景はちょっとした拾いものだったかも知れない。寝て食う以外に何かする事があれば(私たちの場合はフュージョン・ジャーナル第二号の編集だった)、常夏の島の雨期も悪くはない。

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2004年10月01日

バンコックの笑顔

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タイは多くのトラベラーが訪れるだけでなく、周囲の国々を旅する人々にとって休息の一時を提供する所でもある。その理由には他国との交通が整っていることや、タイ国内での旅の便利さ、文化などもあるだろうが、タイの人々が生み出すある種の安心感が旅人を引き寄せているように思えてならない。昆明からわずか二時間弱でバンコックに到着した私たちは、瞬時にして肩の力が和らぐのを感じた。

この旅のオリジナルプランでは、この時期ここバンコックに来ることは計画してはいなかった。チベットからヒマラヤ越えでネパールに入り、さらに南下してインドへ向かう予定だった。ネパールには1999年に訪れて素晴らしい体験を得ることが出来たのだが、ネパールの不安定な情勢がその時の思い出にも影を落とす可能性があることと、チベット入境時には中国?ネパール国境が閉鎖されていたことなどから予定を変更、タイで一ヶ月過ごすことにしたのである。

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バンコックに来たのはこれで四回目。最初は1996年、そして前回は五年前、ネパールからアメリカへ帰国する途上で一週間滞在した。そして今回、この街を徒歩やバスで回って感じたのは、バンコックは今やワールドクラスの都市に成長したという確信だった。

以前は真っ黒な噴煙をまき散らしながら走っていたタクシーやトゥクトゥク(三輪バイクタクシー)やトラックは、今は条例によって新しいマフラーの使用が義務づけられ、歩いていてもそれ程苦にならない。タクシーはほとんどが新しい車種でしかも冷房完備。以前は本物のブランド商品を売る店は少なく、しかもタイ人の客はごく稀だった。現地の人々は主に氾濫するブランド銘柄の海賊版を買っていた。今回驚いたのはショッピングセンターに本物のブランド商品が並び、一般のバンコック市民が客層を占めていることだ。(コピー商品が無くなったというわけでは決してないが。)

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そしてビルの現代化と高層化は今も着々と進んでいる。街の衛生状況は向上しており、先日まで居た中国の主要都市に比べても明らかに勝っている。交通渋滞は相変わらずだが、前回は工事中だったBTSが走り、今年の八月には地下鉄も開通した。もちろん発展途上国と呼ばれる国の特徴も残ってはいるが、今はむしろそれが愛嬌のようにも感じてしまう。

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しかしこの都市開発がもたらした変化は、現在世界中で行われている都市の現代化に比べると必ずしも急激なものではない。バンコックの場合、その変化はゆっくりと時間をかけて向上している印象がある。これは私たちが持つある種の偏見であろうか。そして何よりも現代化に伴うストレス度の上昇によって人々の顔が緊迫した頑なな表情に変わることはなく、このコスモポリタンに住むタイの人々は今も大きく、ゆったりとした笑顔を見せてくれるのである。今後、さらに現代化してゆく間も、タイの大きな魅力であるこの吸い込まれるような笑顔だけは残って欲しいと私たちは望んでいる。

Posted by taro at 00:51 | Comments (3)

2004年09月24日

古城のオアシス

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バスで麗江を出発した私たちは、大理に関してはそれほどの期待を抱いてはいなかった。四川省と雲南省を代表する「名所」からは、ある程度の楽しさを得ることは出来ても文化や人々の生活から大きな発見は無かったからである。大理では一体何を見、何を得ることが出来るだろうか、と少々不安さえ覚えていた。大理滞在は一泊か二泊に止め、中国最後の訪問地である昆明に落ち着こうかと考えたこともあった。

大理の古城を訪れる人々は、古い街並み、背後にそびえる蒼山や前方に広がる湖、耳海などの自然、大理王国時代に建てられた三塔などを主に楽しむ。「外人通り」と呼ばれる道には西洋人のトラベラーを対象としたゲストハウス、レストラン、カフェ、商店が集中するスポットがあり、外人観光客で賑わっている。そこには中国人観光客も押し寄せ、西洋人のトラベラー気分を味わっていた。

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そんな中で私たちの関心を捕らえたのは、現地の若者たちが静かに定着させつつあるカルチャーだった。この若者たちがごく自然に築いたこのコミュニティーは、現地の中国人と中国在住の西洋人との集合体である。中国人の若者たちの中には現地出身者もいるが、北京や上海から移り住んできた人たちが多い。移住してきた若者は口を揃えて「中国国内のいろんなところに住んだけど、面白いと思う人々に出会ったのはここ大理だった」と言う。私たちにとってもこれほど自由で、しかもほとんどの中国人とは異なる人々は彼らに出会うまでは見なかった。

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この中国と西洋のハイブリッド集団の中で、彼ら独自の思想と生き方、音楽、アート、人付き合いや会話が生まれ、一人歩きを始めた。この関係は、中国人の若者たちが「外部」、つまりアメリカやヨーロッパのトレンドや考え方を受け入れているという一方的なものでは決してない。彼らの関係はあくまでも同等であり、お互いから学びサポートし合うことでこの街独自のカルチャーを形成しているのである。

大理は観光地として広く名を知られるわりには非常に静かな街である。さらなる開発への動きは確かに見られるものの、街全体が観光開発の対象となった麗江などと異なり、賑わっているのは今のところ街の一部だ。この環境で大理の若者たちは主に観光関連の商売をしている。つまり、ゲストハウス、バー、カフェの経営しているわけだ。ここで面白いのは、彼らはコマーシャリズムの波には乗ろうとはしないことで、自由を確保出来ればそれで満足なようなのだ。

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その結果、私たちのような訪問者にとっては非常にアットホームで暖かい環境に受け入れられるという印象がある。数週間中国国内を渡り歩いた後大理に着いたトラベラーにとってはなおさらだ。通りかかる旅行者がこのコミュニティーと接触し、同調する機会を持ち、情報交換が行われる。私たち旅行者の休息地として長年続いて欲しいと思うオアシスがそこにあった。

Posted by taro at 19:43 | Comments (0)

2004年08月15日

クリエイトする中国

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世界のニュースメディアを賑わせる中国。昨今中国関連のニュースのほとんどは経済、産業、そして政治の分野に限定されている。アテネオリンピックが開催されてから数日後経った現在、スポーツでもこの国の名前は頻繁に挙がるし、人文科学の分野ではその長い歴史とそこに培われた伝統文化が話題になる。ではモダンアートの世界ではどのような活動が行われているのだろうか。私たちは、北京の街のそこここで静かに、しかし着実に広がるアートシーンを垣間見た。

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北京の中央美術学院はその分野で中国のエリート校である。この大学のデザイン学科に限って言えば、毎年五万通にも及ぶ入学願書に対して新入生は五百人、つまり百倍の競争率だ。日本を含むアジアからの留学生も少なくない。学科は中国伝統美術からデジタルメディアに至るまで揃っているが、学生たちが意図する作品が専攻学科の範疇に限られるようなことはなく、あくまでも学生個人の創造性によってクリエイティブな活動が行われている。

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中央美術学院からそれ程遠くない辺りに、文化革命以来、人民工場地区として使われている場所がある。新たに建てられた高層住居ビルの間に、古びた小規模な工場が建ち並ぶ一帯だ。ここ数年加速化する製造業の発展の影響で未使用となったスペースを使って大小様々なアートギャラリーとアーティストたちのためのワークスペースとして使われている。壁には毛沢東時代のプロパガンダが意図的に残され一見不思議な印象を与えるスペースに、「自称共産国」とは思えない自由な表現に満ちた作品が展示される。作品内容も斬新だ。ヨーロッパのアーティストやキュレイターとの合同活動も活発に行われている。トレンディーでファッショナブルなカフェやレストランもあり、大変興味深い地域だと思った。

アート、特に現代美術は先進国の余力を表す分野でもあると私は思う。発展途上国にその力がないわけではない。が、一般的に発展途上国におけるアートとは伝統文化であって、新たなフォルムでの自己表現ではない。国によっては観光客相手のお土産レベルに留まっている場合もある。

中国の産業界は、欧米諸国からの生産依頼を低コスト高効率でこなす、いわば大規模な代行屋で、オリジナリティーとか創造性とは全く関係のないものだ。伝統美術においてさえ、中国の歴史上名高いマスターたちのコピーに終始していることが多い。一方、モダンアートで注目されるにはこの二つの要素は必須だ。私たちは、中国がこの分野でもいつ世界の熱い目が注がれてもおかしくない要素の数々を目の当たりにしたと同時に、先進国としての余力を蓄え始めた事実を目撃したようだ。

Posted by taro at 09:42 | Comments (0)

2004年08月08日

満腹!

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さすがに世界三大料理の一つ、中華料理だ。モンゴルでは食事に関しては苦労が多く、結局アパートでの自炊が多かった。バリエーションが少ないモンゴルの料理では選択の余地が無かった。北京に来てからというもの、台所がない学生寮で滞在していることも手伝って、食事は全て外食である。どのレストランや街角の売店でも種類が豊富な食材と味付け、調理法のバリエーションが数多く、言語上の問題さえ克服出来れば観光そっちのけで楽しめる。その場合、中国語を知らずともある程度の漢字が理解できるのは大きな利点だろう。実際に何を注文したのかは料理が出てくるまでは分からないのだが。

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中国人の食事は非常にバランスが取れていて、豊富な肉や魚を使った料理が数多く提供されていても、彼らは常に野菜料理も同時に食べる。しかも野菜類は日本料理と同じように旬のものを尊重するようだ。辛さや脂濃さにもいろいろあり、客の側が様々な面でバランスの取れた食事となるように注文する。大人四人がレストランでオーダーするのを観察していると、その内容は例えば前菜一品、野菜料理二品、肉または魚料理三品か四品といった具合だ。北京に来た当初は、周囲のテーブルでオーダーされる食事の量が余りにも多いのに驚いたものだが、今は二人でも四品は注文してそのほとんどを平らげるようになってしまった。しかも一度の食事で摂取する油の量が並大抵のものではないにもかかわらず、胸焼けに悩まされることもなく、四、五時間後には再び空腹を感じるのだから不思議な料理だと感心してしまう。

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この学生寮のすぐ傍に、北京でも手打ち麺のベストとして知られる店がある。日本でもよくあるように店の前には手打ち麺の実演が見られるように大きな窓がある。麺は冷やしたものか熱湯でさっと茹でたものを選ぶことが出来る。小振りの椀に麺を入れ、好みで青豆やネギなどの薬味を加える。そして注文した味付け汁を入れてよく混ぜると準備完了である。ラーメンのようなスープは無い。あまりの暑さのため、程良く冷えた麺に脂の乗った牛汁と味噌を合わせたソースやピーナッツソースを和えて食べるのが美味い。しかも麺の腰のある歯ごたえと喉越しは絶品。この店では、この麺料理をご飯代わりとして他の料理と一緒に食べるのが普通らしいが、私たちにはこの麺一杯で昼食には十分だ。ここでも周りを見ると昼間から三品も四品も注文している。

それ程裕福ではない旅人である私たちにとって嬉しいのは、毎日外食してもコスト的なプレッシャーを感じないことだ。安いのである。日本語のガイドブックに載るような高級店に行くことさえしなければ、三食二人分の食費は一日当たり10米ドルで十分で、節約を特に念頭に入れずともそれでかなり満足な食事が出来る。私たちが見つけたお気に入りの朝食は、卵入りのパンケーキに甘味噌を塗ってネギと香辛料の薬味を振り掛けたもの。これが一個15セント以下で買える。むしろ飲み物の方が高い。上記の手打ち麺の店では、麺一杯1米ドルだ。

何万とある北京のレストランの中から手頃な値段で食事が出来る店を選ぶのは比較的簡単だ。私たちが一週間の駄目もと体験で学んだレストランの選び方は次のようなものだ。露店などで買う朝食やスナック代わりの簡単な品は出来たてが買える店に限る。昼食と夕食の店を選ぶ場合は、清潔を第一の条件とし、客が多い店を選ぶ。カフェでない場合は、明るいムードの店を優先する。オーダーする前にぬるいお茶が出てきたら即刻退却する。店の所在地、つまり主要道路に面しているか裏道かの違いは余り無い。むしろ前者の場合同じ質の料理がコスト高になる可能性がある。観光スポット周辺にある店の場合はさらに値段が高くなる一方質の保証は無い。などなどである。

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ちなみに、菜食主義者はどの店でも充実した中華料理を味わうことが可能である。英語のガイドブックにはご丁寧に菜食主義者のためにお勧めのベジタリアンレストランがリストアップされている。しかし最初の二、三日一般のレストランでメニューを観察し、失敗を覚悟で注文した結果ようやく分かったことがある。メニューのほとんどは、最初にその店の自慢料理が載っており、その後前菜、スープ、肉料理、魚料理、野菜料理、デザート、そして飲み物という順で紹介されている。従って、菜食主義者は野菜料理のページから選べば良いわけで、わざわざ中華版ベジタリアンレストランなどへ行く必要は全くないのである。中国でベジタリアンレストランというのは、豆腐や湯葉に肉類各種の味付けを加えた「肉もどき」を使う店のことらしい。ご注意あれ。

Posted by taro at 17:38 | Comments (2)

2004年05月16日

Kröller-Müller美術館

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Kröller-Müller美術館を私たちが訪れるのはこれで二度目である。最初は1995年秋だった。その時は静かな雨が降っていた事もあって主に屋内のコレクションを堪能した。今回は幸運にも天候に恵まれたので、前回ほんの一部だけ見ることが出来た彫刻ガーデンをまず楽しむことにした。

Hoge Veluwe国立公園の中にあるこの美術館は、ダイナミックではないが平坦な土地の森と人工の庭園を組み合わせた彫刻の屋外展示が以外に広く、内容も素晴らしい。作者と作品名、制作年などが書かれた標識は見えるのだが、実際に作品そのものが最初は分からないものも稀ではなく、林の木々や新緑の葉の間に目を凝らすこともたびたびである。

どんな作品が潜んでいるか分からない。だから胸が踊る。茂みを縫って続く小道に足を踏み入れ、ハイキング感覚で歩く。彫刻達は見上げる高さの木の枝や、ほんの小さな丘の向こうや、林の木々の間に見え隠れする陰などに鳥たちの声を聞きながら静かに潜んで、 散歩する訪問者達を待っているかのようだ。そして予期しなかったほど巨大なオブジェがいきなり目の前に立ちはだかったりする。

私たちは四時間以上もこの彫刻庭園で過ごした。平日なので訪問者は少ない方だが高校生のグループがクラスで来ていたり、もちろん観光バスも数台やって来た。それらの人々がくり出して来て帰っていった後、見渡す限り誰もいない時間がある。鳥のさえずりだけが聞こえて、彫刻作品が新緑の芝生の中で黒々と光っている。

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日本人団体客の一人が絵の具を持ち出して写生を始めた。閉館時間と観光場バスの出発が迫っている中、彼は写生に全力集中して一枚の小さな絵を描き上げようと賢明だった。「次は奥さんと二人だけで来てよ」と言葉をかけたくなった。

Posted by taro at 23:25 | Comments (1)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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