2004年09月04日
レティングの風

私は夕暮れ近いラサを早足で歩いていた。小型のデイパックは買い込んだ野菜やカップラーメン、菓子パン、スナックなどの食料で一杯だった。そのわずか一時間ほど前、私たちはナムツォ湖からレティングを巡る三泊四日のツアーを終え、北京東路のバナクショル・ホテルへ帰還。そして翌日の朝、再びレティングへと舞い戻ろうとしていた。あの広々とした谷間を望む山の中腹にあるチベット寺院へ。
ツアーでは1980年代型トヨタのランドクルーザーに乗ったが、今回は公共バスに乗っての単独の旅だ。私たちとツアーを共にしたオックスフォード大の学生、ポールも一日遅れて再びレティングへ向かうと言う。
翌朝8時、私たちはラサの東バスターミナルから出発。チベット人と中国人で満員のバスは、ラサ河に沿って東に走り、そしてラサ河の支流をたどって北へと向かう。ラサを発って8時間、でこぼこ道と六人の下品極まりない中国人の乗客と尻の痛さに悩まされた後、私たちは別世界に降り立った。終点の村からパックパックを背負ってレティング寺院へと向かう。標高4310メートルの土地では未だに息が荒くなる。
レティング寺は、かつてチベットの内政上重要な地位にあった寺院だ。理事を務めた高僧、レティング・リンポチェの生地として知られている。この場合「理事」とは、ダライ・ラマ14世の幼年時にチベットの摂政を執り行う重要な役目を意味する。

この寺はまたこの地域で最大の規模を誇った。ラサのポタラ宮殿の小型とも言える建物には数百人の僧が生活し、活気に満ちた寺院だったという。1958年、人民解放軍の砲撃によってそのほとんどが破壊されて以来、ここは数十人の僧が辛うじて活動を続けるものの、未だにその大部分が廃墟である。(上の写真は1948年に撮影されたもの。)
寺の小さな宿泊所を管理、運営する二十代の僧たちは、前日の朝別れたばかりの私たちがまた突然現れたのに目を白黒させながらも大きな笑顔で迎えてくれた。観光客を見るのは稀で、訪れるのは巡礼者と少数のトラベラーだけである。私たちは持参したナスとタマネギを渡して肉抜きの夕食を頼んだ。夕食が出来るのを待つ間、私たちは遙か谷底を走る川の流れ、鳶の声と風の音に耳をすませた。時折聞こえる鈴の音は山のどこかにいる牛だろう。聞こえるのはただこれだけだ。
この寺院を囲むのは実に美しい杜松(トショウ)の古木である。この林の木々は、その一本一本が自然と人間たちが数百年をかけて形作った見事な盆栽でもある。一般に盆栽という芸術は木と人間が共通の美を追究するものだが、これらの杜松の木たちを美しくしようとする意図は全く無かった。林の周囲に住む人間たちは、火をおこすためにその枯れた枝を必要とし、その葉は仏に祈る際の香のひとつとして使い、高地独特の厳しい自然が幹と枝を整えてきた。これらの木々の間に立ち目を閉じると、この場所の不思議に優しくも力強いエネルギーを体で感じるのだ。

毎日午後には付近の尼寺や山の頂上に近い小さな寺院へとハイクした。尼寺ではバター茶をごちそうになり、タンカ画やレティング・リンポチェの像を見せてもらった。尼たちはきゃあきゃあと騒ぎながら私たちの撮影に応じてくれた。
レティング寺と飛び交う鳶たちを見下ろす小さなゴンパには五十五歳の僧が、さらに上方の建物には二十八歳の僧がそれぞれ独りで住んでいた。若い方の僧が住む建物は、ダライ・ラマ十四世が再びこの地を踏む日のためにと書斎と寝室が小さく飾り気はないもののきれいに保存してあった。この若い僧は、建物の片隅で生活しながらこの場所を守っているのだ。

この短い滞在の間、宿泊所の若い僧たちとはすっかりうち解けて新しい友達と呼べるまでになった。彼らの好奇心には限りが無く、デジカメやコンピュータ、英語、アメリカでの生活など、あらゆる質問を投げかけてくる。彼らの家族のことも話してくれた。僧たちは料理や宿泊部屋の掃除の他にも、新しい部屋を建てたり家具を作ったりしている。仕事をする間もチベットの民謡を歌い、果ては甘ったるいハウスミュージックのテープをかけ、腰を振って愛嬌を振りまく。
彼らの無垢で清々しい笑顔と谷間を吹く身が引き締まるような風、そして杜松の林が醸し出すこの土地の不思議なエネルギーが私たちをこの場所に引きつけたのだと思う。出発の朝はお別れをせずに村のバス停へと下った。遅いバスを待つ間、寺院の方からお勤めの時間を知らせるチベットのシンバルの音が聞こえたのに続き、あの民謡のテープが聞こえてきた。僧たちの一日が始まったようだ。
2004年08月26日
悲しいラサ

ラサは悲しい街だった。歴史上、チベット仏教の中心地そして聖地のひとつでもあるという事実は私たちの落ち込んだムードに何ら変化を及ぼすものではなかった。活気溢れる街ではある。チベットで最も聖なる寺院とされ、市内でも最大の大昭寺。その金色に輝く屋根を中心として、バルコール・コーラと呼ばれる巡礼の回路に沿った市場や商店街はチベット風の品々が売られ、常に賑わっている。

その直ぐ近くを走る主要路のひとつ、北京東路はラサの街を東西に貫く。路上には常にヤクのバター、羊の肉と内蔵、そして香の臭いが漂い、僧たちや物乞いが歩道脇に座り、路面にはゴミが散らばり立小便の跡が悪臭を放っている。ウランバートルの住宅街との共通点が多いのだ。しかしこれらの要素は、モンゴル人やチベット人など基本的に放牧民である人々が基本的に馴染めない定住地としての都市を形成する際に生まれる環境なのかも知れない。。
むしろ、私たちにとってこの街の印象を決定的なものとしたのはポタラ宮殿に向かい合う不必要に巨大な碑石にある文字だった。言うまでもなく中国中央政府によって建てられた真っ白な岩石のモニュメントにはこう書かれていた。「西蔵和平解放記念碑」。つまり、中国の人民解放軍によってチベットは悪しきダライ・ラマと彼を支える封建主義体制から解放され平和がもたらされたというわけだ。その前で軍服を着た中国軍兵士たちが記念写真を撮っているさまは正に「支配者」で象徴的だった。ポタラ宮殿を見上げる歩道正面の壁にはトウ小平前主席の生誕百年記念を祝うメッセージが掲げられ、その一つは「チベットの人民と共に祝い繁栄する」という内容だった。
1950年、中国赤軍がチベットを侵略し、ダライ・ラマ14世を始めとする10万人ものチベット人がインドへ亡命し、残ったチベット人のうち120万人が虐殺される前、ポタラ宮殿は数千の僧たちが住み、社会的、政治的な中心構造として活気溢れる「都市」だった。私たちが見たポタラは、数十人の僧または中国人が管理役を務める、ただの「中国政府戦利品博物館」に過ぎない。中国語、英語、日本語の他、主要言語で解説が聞ける音声ガイドの内容も、中国の歴史を誇るプロパガンダである(と、ヨーロッパ人のトラベラーから聞いたので私たちは使わなかった)。この壮大な建築物には生活の声も臭いもなく、私はポタラ宮殿は死んだと再確認せざるを得なかった。事実、歩道からは壁に遮られて見えないが、宮殿の屋上からはかつて僧たちや人々が住んだ家屋が廃墟となっているのが見える。これらも2008年オリンピックまでには新築の建物に変わっていく。
チベットとチベット仏教は今やグローバルな観光市場において名だたるブランドである。ご存じのように、チベット仏教、ダライ・ラマ14世、そしてチベットの風土に魅了される欧米人や日本人は多く、ラサ市内に滞在している外人訪問者の数もこのトレンドを反映していた。それに加えて高慢な支配者階級の中国人団体旅行者やアウトドア系の中国人学生が街を闊歩して、想像していた以上の賑わいを見せている。これら旅行者たちがチベットを訪れることで現地の人々の懐は潤うはずなのだが、そんな様子はあまり見られない。このようなラサの様子を見て思い浮かべたことがある。チベット人がたどった運命は、アメリカン・インディアンや日本のアイヌ人のそれと同じではないか。

このような環境の中でも変わらないのは仏教、ダライ・ラマ、そして神聖な山々と湖に対するチベット人の信仰の厚さだ。私はチベット仏教について詳しくは知らない。が、信仰だけは彼らの中で唯一の光として不変であると信じたい。
