2005年03月28日

百万頭のゾウ、白いパラソル

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またまた世界遺産のサイトに来てしまった。ラオス北部のルアン・プラバーン(あるいはルアン・パバーン)は、その町全体がユネスコ指定の世界遺産である。ブランドも名高いあるガイドブックには「観光客にとってはラオスの中でも最大の見せ場」と銘打たれているため、私たちはむしろそれが心配だった。今までのラオスの旅で感じてきた静かな美しさが、ユネスコ指定のステータスに押しつぶされているかも知れないからだ。しかし、この町の文化と魅力が今も残されているのを見て、私たちの心配が無用だったことが分かった。

ルアン・プラバーンはタイ系ラオ族の中心都市として8世紀半ばに繁栄した町だ。1353年にはランサーン・ホムカーオ、つまり「百万頭のゾウ、白いパラソル」とよばれるラオ族最初の王国がこの町で誕生した。その後さまざまな王国の首都または旧都として王宮とそのステータスを、1975年の社会主義革命まで維持し続けた。14世紀以来建てられてきた寺院の多くは、社会主義政権のもとで幸いにも存続を許された。80年代には、観光促進のための海外援助と投資が特にフランスによって行われ、1995年には世界遺産に登録されるに至る。今日、ルアン・プラバーンは平穏な賑わいを見せる一方で、遠い過去と植民地時代へと誘われるような雰囲気が漂う町となっている。

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ナム・カーン川がメコン川に合流し、その周囲を山々が大らかに囲む地点にこの町はある。この地域に古くからある仏教信仰は、町に残る80以上の寺院だけではなく、川に沿ってある多くの洞窟内をミステリアスに覆う大小さまざまな仏像などに残されている。ラオス北部に住む多くの異なった少数民族の存在も、この町に見られる文化と芸術品の豊富さに大きく貢献している。彼らは伝統工芸品を主に観光客に売ることで収入を得ており、絹や木綿の染色、織物を始め、刺繍、手編みの籠、クワの皮材料とした手作りの紙などが店や露店を飾っている。

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ここは買い物好きのパラダイスである。スタイリッシュなブティックやクラフトショップが目抜き通りであるシーサワンウォン通りに軒を連ね、高級レストランやクラブ、ギャラリーも多い。夕方になるとこの道の一部は歩行者天国となり、路上に主にモン族の露店が展開するナイト・マーケットが開かれ、紙で作ったさまざまなクラフトからアップリケが縫い込まれたブランケットまで、ありとあらゆる工芸品が売られている。ここではセールスのひとつひとつがモン族の女たちの生活にとって大きな意味を持つ。特にその日の最初のセールスは「ラッキー・ラッキー」とされ、彼女たちの笑顔は一際大きく朗らかだ。

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夕方、寺院の門が閉ざされると僧たちの夜のお勤めが始まり、読経の声が静かな町角に響く。読経の声はまるでこの古い町のオフィシャルテーマソングであるかのようだ。日中、町を探索する間にである若い僧たちは、皆観光客を捕まえては英会話を練習したがり、欧米の文化について知りたがる。彼らの和やかな会話と微笑みは、明け方町中で行われる托鉢の時に見せる厳かな表情とは対照的だ。

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過去一ヶ月のラオスでの旅を振り返って、それがミャンマーで得たと同じような肯定的な発見の連続であったと感じている。これら二カ国が共に「やっかいな」政府によって統治されていることは興味深い事実だ。軍事政権または社会主義政権、どちらにせよ彼らは、国民を隔離し同時に貧困の中に押し込めてきた。驚くべきは人々とその文化が力強く存続し、それが今も存在することで国外の観光客や投資家たちにとって大きな魅力となっていることだ。そしてここルアン・プラバーンでは、今も残るうとうとするような優美さとその歴史深い環境が、ここを訪れる人々を魅了し続けている。

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2005年01月02日

燃えるサンタ

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2005年はインド南部ケララ州のコチ(またはコーチン)で迎えることになった。この島上の街は、16世紀、ポルトガル、オランダ、イギリスなどのヨーロッパ諸国が植民地政策を掲げてインド西岸へと進出し始めた頃に築かれ、様々な西洋文化の名残が今も市内に多く見られる。本土側にあるエルナクラムという街から大きな川と海峡を渡る二つの橋を隔てたわずか9平方キロメートルの島にあるコチには、ヨーロッパ諸国によって建設された要塞やオランダ風宮殿を始め、海岸に沿って中国様式の網、カテドラルやシナゴーグが、ヒンズー寺院とモスクと共に点在しているのである。シナゴーグ周辺のユダヤ人街にはユダヤ系のインド人が今も彼ら伝統の生活を営んでいる。小さな島のメルティングポット。歴史の流れが織り込んだ多国籍文化のマイクロコズムだ。

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私たちがコチに着いたのは津波が起こってから2日目の午後だった。エルナクラムとコチ一帯での被害は最小限だったようだが、ここから直ぐ北のヴィピーン島では多くの人々が津波に流されて犠牲となった。ここ一帯の人々はその時もまだ全貌が知られていない悲劇を嘆いていた。ホテルや商店などは正常に営業されていたが、フェリーによるエルナクラムとの交通は停止中で、漁船も出ていなかった。やはり高波を警戒しているようだ。毎年元日に行われる海岸でのカーニバルも今回はキャンセル。西洋人のトラベラーはそこそこいるが、カーニバルにやってくる大勢のインド人観光客の姿はなく、街は結果的にひっそりとしている。それでも現地の人々の表情は明るく、心配されていた「第二の津波」についても「ここなら安心だ。ゆっくり楽しんでくれ」と笑う。

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海風が街の中では吹かず、通風がないコチ市内の空気は蒸し暑く重い。夕方になるとやたら多い蚊につきまとわれるのには大いに閉口する。が、その多文化が混在する市内のたたずまいとアートや芸能を奨励する環境はなかなか面白い。絵や彫刻の展示スペースを持つカフェが一軒。ユダヤ人街にも現地アーティストを含むコンテンポラリーアーティストの作品を展示するギャラリーが二軒あった。伝統芸能もある。その代表はインド南西地域に古くから伝わり、今も活発に行われているカタカリ舞踏だ。コチにはこの舞踏が観られるケララ・カタカリ・センターがあって、毎日カタカリや他の伝統舞踏、インド古典音楽などを提供している。

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大晦日の夜、私たちはこのカタカリ舞踏を観に行くことにした。この日の上演は津波生存者たちへの募金も兼ねていた。カタカリは舞踏によるドラマで、その起源は古く2世紀に溯るとされる。加えてこの舞踏は神聖なものとされ、舞台小屋に続く小道は、水を打ち、花を添え、香を焚き、白い粉でランガヴァリのパターンを描いて浄めてある。この舞踏は役者による演技、奏楽と歌によるストーリーによってミステリアスに進行する。舞台際と両袖にはオイルランプを灯し、香を焚いてその神聖さを強調している。内容はマハーバラータ神話が中心である。小さな舞台、百人足らずの観客。それでも舞台は神懸かりにも近い強烈で白熱したエネルギーを帯びる。これをほんの1時間でやってしまうのだから驚きだが、正式な舞台は6時間以上続くというからそれがどんな体験なのかは想像もつかない。

舞台がはねた後、私たちはホテル周辺で年が明けるのを待った。現地のクリスチャンたちが聖書を手に聖フランシス教会へと歩いていく頃、街は静けさに覆われていた。このカテドラルは、ポルトガルのペドロ・アルヴァレズ・カブラル率いる遠征隊と共に上陸したフランシスコ派によって1503年に築かれたといわれ、ヨーロッパ人によって建てられたインドの教会としては最古のものである。現在は聖公会の教会として現地の人々に慕われている。この教会に入ってしばし静かに座る。信者たちは三々五々新年のミサに出席するため集まり、聖堂に入ると静かに跪いて祈りを捧げている。

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ケララの新年はどういう訳かサンタクロースの衣装とお面で覆ったわら人形を燃やして祝う。真夜中も間近に迫ると、近所の人たちがサンタを担ぎ出して点火場所を決める。その一つは聖フランシス教会の壁の外側だった。カテドラルからは聖歌が一段と高らかに聞こえてくる。そして午前0時。サンタに火が点けられ、燃え始めた。すでに近所の人々や歓声を上げながらバイクで通りかかった若者たち、西洋人観光客などが取り巻いて騒ぎ始める。突然、爆竹が数十個炸裂した。どうやらわら人形の中に仕込まれていたらしい。仕込まれていたのは爆竹だけではなく、打ち上げ花火も数個入っていて、どこへ向かって発射されるかはその時になってみないと分からず、物騒極まりない。幸運にも打ち上げ花火が我々に向かって発射することはなかったのだが、あの忌まわしい「アトムボム」も一発仕込まれていて、そこにいた人々は当然その爆音とショックの犠牲となった。

サンタが燃えてしまった後、取り巻いていた人々は「ハッピーニューイヤー!」を言い、握手したり抱き合ったりしていた。皆の表情は明るい。年を越えるとき、そこに必ず笑顔があるのはどこでも同じのようだ。神秘的なカタカリ舞踏の沸き上がるエネルギー、カテドラルから流れる聖歌の厳かさ、燃えて爆発するサンタの滑稽さとが頭の中で相混ざった。今まで「不思議なニューイヤーズの体験」は何回もしてきたが、さすがに今回のような異色の大晦日は始めてである。この旅を通じて経験することが出来た恵みのひとつでもあるだろう。

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2004年08月15日

クリエイトする中国

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世界のニュースメディアを賑わせる中国。昨今中国関連のニュースのほとんどは経済、産業、そして政治の分野に限定されている。アテネオリンピックが開催されてから数日後経った現在、スポーツでもこの国の名前は頻繁に挙がるし、人文科学の分野ではその長い歴史とそこに培われた伝統文化が話題になる。ではモダンアートの世界ではどのような活動が行われているのだろうか。私たちは、北京の街のそこここで静かに、しかし着実に広がるアートシーンを垣間見た。

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北京の中央美術学院はその分野で中国のエリート校である。この大学のデザイン学科に限って言えば、毎年五万通にも及ぶ入学願書に対して新入生は五百人、つまり百倍の競争率だ。日本を含むアジアからの留学生も少なくない。学科は中国伝統美術からデジタルメディアに至るまで揃っているが、学生たちが意図する作品が専攻学科の範疇に限られるようなことはなく、あくまでも学生個人の創造性によってクリエイティブな活動が行われている。

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中央美術学院からそれ程遠くない辺りに、文化革命以来、人民工場地区として使われている場所がある。新たに建てられた高層住居ビルの間に、古びた小規模な工場が建ち並ぶ一帯だ。ここ数年加速化する製造業の発展の影響で未使用となったスペースを使って大小様々なアートギャラリーとアーティストたちのためのワークスペースとして使われている。壁には毛沢東時代のプロパガンダが意図的に残され一見不思議な印象を与えるスペースに、「自称共産国」とは思えない自由な表現に満ちた作品が展示される。作品内容も斬新だ。ヨーロッパのアーティストやキュレイターとの合同活動も活発に行われている。トレンディーでファッショナブルなカフェやレストランもあり、大変興味深い地域だと思った。

アート、特に現代美術は先進国の余力を表す分野でもあると私は思う。発展途上国にその力がないわけではない。が、一般的に発展途上国におけるアートとは伝統文化であって、新たなフォルムでの自己表現ではない。国によっては観光客相手のお土産レベルに留まっている場合もある。

中国の産業界は、欧米諸国からの生産依頼を低コスト高効率でこなす、いわば大規模な代行屋で、オリジナリティーとか創造性とは全く関係のないものだ。伝統美術においてさえ、中国の歴史上名高いマスターたちのコピーに終始していることが多い。一方、モダンアートで注目されるにはこの二つの要素は必須だ。私たちは、中国がこの分野でもいつ世界の熱い目が注がれてもおかしくない要素の数々を目の当たりにしたと同時に、先進国としての余力を蓄え始めた事実を目撃したようだ。

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2004年07月04日

ミステリアスなシベリア

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ユーラシア大陸をさらに東へ。6月29日、シベリア横断鉄道でモスクワを出発した私たちはバイカル湖の畔にあるシベリア随一の都市、イルクーツクへとやって来た。列車がこの終点駅に到着したのは7月3日、朝九時半だった。

イルクーツクから車で約一時間、バイカル湖岸を走って着いたのがリストヴィアンカという小さな湖畔の街。湖から丘へと登る道路沿いの集落の中に私たちの宿がある。バイカル・カルチャー・センターとアート・ギャラリーに隣接したログキャビンがそれだ。

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その周囲は遅い初夏の新緑が爆発したようだ。淡い緑の野草。紫、白、黄色、オレンジ、ピンクの彩りで野花が咲き誇る。その間を強い鉄分を含んだ小川が流れている。草地を挟む丘には針葉樹と白樺が濃く茂り、風が吹くと緑に波立つ。そんな景色の中にバイカル湖が冷たく広がり、広大な水面からの靄の向こう、五十キロ彼方の対岸には山々が連なっている。

バイカル湖は地球上の淡水の20パーセントを有する巨大な湖である。水面面積は大きくないが、その深さは1,600メートル以上に及び、世界で最も深い。

地殻変動でアザラシが閉じこめられて世界でも稀な淡水生物に進化した。その水は清々しく澄んでいた。湖底に生息する微生物やエビが有機物を処理する役目を果たし、水質の維持に貢献しているという。湖畔を歩くと風が寒い。夏の盛りでも水温が15度前後の巨大な水冷機が目の前に横たわっているからだ。冬の厳しさが初夏の湖を見ているだけでもゾクゾクと感じられる風景だった。残念なことに、環境保護に関しては全く粗野なロシア人観光客たちが美しい景観が見られる水辺でも、そして波止場でも平気でゴミを捨てていた。

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人々の表情はむしろシベリアの小さな街の方が穏やかだという印象を受けた。この宿の料金は朝食込みだが、それを食べるのはお隣のおばさんの家だった。お早うございます、と入っていくと笑顔で出迎えてくれ、さあさお食べなさいといろんな料理を持ってきてくれる。ロシアン・ホスピタリティーというのは、これなのだと初めて知った。おばさんの家の裏手には自らの手で耕した畑と菜園がある。やはりジャガイモが最も広い面積を占めていた。主にトマト栽培用の温室もあった。摘んだばかりのレタスが二種類、朝食のテーブルに出る。

おばさんの家のお隣には老婆が孫娘、孫息子と住んでいる。芋畑で働いていた彼女は、写真を撮って良いかどうかと尋ねる私たちを自宅に招いてくれた。長い長い冬の間、彼女は農民から画家に変身する。シャガールのようなモチーフで、自画像とごく身近な対象を素朴だが意外に現代的なタッチで描いている。

アート・ギャラリーは残念ながら一年ほど前に焼失してしまった。カルチャーセンターの世話役さんは自らの手でその再建に忙しい。焼け残った絵の数々は臨時施設で展示されている。その内容には全く期待していなかったのだが、覗いてみると素晴らしい発見がそこにはあった。シベリアの人々のイマジネーションは実にミステリアスで、時にサイケデリックでさえある。今も展示されている絵の中にはオリジナルのアイディアとメルヘンや童話のようなデザインに富んだ作品が多い。ロシア独特のイコンを描くテクニックをモダンに応用し、曼陀羅のようなデザインにも目を見張った。

ほんの三日間ではあったが、リストヴィアンカでの滞在で美しくも厳しい自然の中で営まれるシベリアの人々の、静かでミステリアスな生活をほんの少し垣間見る事が出来たように思う。

Posted by taro at 06:10 | Comments (2)

2004年06月07日

カタルーニャ!

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ヨーロッパでの旅は中盤を迎え、私たちはベルリンに滞在している。この街の様子をお伝えし始める前に、もう一度バルセロナを振り返ってみたいと思う。

バルセロナの人々にとって私たちが滞在していたのはカタルーニャであって、スペインではない。旅人たちに対応するカタルーニャの人々は、ガイドブックを見ながら「スペインに来た」とばかり考えている訪問者に対してスペイン語を仕方なく話すのだ。もちろん彼等同士の会話はカタルーニャの言葉、カタルである。理解できぬままテレビ番組を見ていてもローカル色の強い番組で話されているのはどう聞いてもスペイン語ではない。

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数日の間私たちは、ミロ美術館やバルセロナ現代美術館をゆっくり味わい、多くのギャラリーを覗き、この街では規制されていないスプレーペイントを使ったグラフィティの技術、内容共に完成度の高い「作品」の数々を楽しみ、そしてローカルの食事を堪能した。同時に、私たちにとってほんの小さな認識でしかなかったカタルーニャの歴史と文化は日に増して確かな認識となっていった。私たちはスペインを訪れているのではなく、カタルーニャにいるのだ、と。

5月29日、私はブルガリアの国民的英雄であり、90年代にFCバルセロナの英雄ともなったフットボールプレーヤー、ストイチコフの現役引退記念試合を観に出かけた。伝統あるカンプ・ノウ・スタジアムにはFCバルセロナのファン、ブルガリアから駆けつけたファンを合わせて約1万5千人ほどの観衆がやって来た。ヨハン・クロイフ監督の指導の下、ストイチコフの貢献は大きく、念願のスペインリーグを1991年から4年連続で制覇することになる。これらの人々は決してこの英雄を忘れることはない。

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フランコ政権時代に、この独裁者はカタル語を殲滅しようと試みた。FCバルセロナのクラブハウスでは、それに屈することなくカタル語の授業が行われたのである。FCバルセロナが資金に富んでいるのは、フットボールを嫌う人でさえもがこのクラブに対して大いなる支援を続けているからだ。その理由はカタルーニャの文化を守る事であり、カタル語を今後も代々継承させるためである。もちろん、サッカーやバスケットボールの舞台でも勝つ、という願望はいつも存在し続ける。この「中央」に対する牽制的な独立心はただスポーツに熱狂するだけではなく、政治的な意味も持つ。

2004年5月から9月まで開催されている大規模なイベント、「フォーラム・バルセロナ・2004」。このイベントの三つのテーマは「文化の多様性の認識」、「サステナブルな生活様式」、そして「平和の条件」である。プレゼンテーションの言語として主に四つの言語が使われていた。スペイン語、英語、フランス語、そしてカタル語である。現地の人々に直にコミュニケートし、アピールするにはカタル語を用いるのはむしろ当たり前である。このイベントで「Voices」という素晴らしい展示を見た。そこで掲示された「ある言語の死は一つの国の死を意味する」という言葉が印象的だった。この言葉に無言で頷き共鳴する人々の中に現地のカタルニアの人々が含まれるのは言うまでもない。

「スペインには行かなかった」というと少々言い過ぎなのだろうか。どちらにせよ、私たちが文化として知ったのはカタルーニャだった。

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2004年05月16日

Kröller-Müller美術館

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Kröller-Müller美術館を私たちが訪れるのはこれで二度目である。最初は1995年秋だった。その時は静かな雨が降っていた事もあって主に屋内のコレクションを堪能した。今回は幸運にも天候に恵まれたので、前回ほんの一部だけ見ることが出来た彫刻ガーデンをまず楽しむことにした。

Hoge Veluwe国立公園の中にあるこの美術館は、ダイナミックではないが平坦な土地の森と人工の庭園を組み合わせた彫刻の屋外展示が以外に広く、内容も素晴らしい。作者と作品名、制作年などが書かれた標識は見えるのだが、実際に作品そのものが最初は分からないものも稀ではなく、林の木々や新緑の葉の間に目を凝らすこともたびたびである。

どんな作品が潜んでいるか分からない。だから胸が踊る。茂みを縫って続く小道に足を踏み入れ、ハイキング感覚で歩く。彫刻達は見上げる高さの木の枝や、ほんの小さな丘の向こうや、林の木々の間に見え隠れする陰などに鳥たちの声を聞きながら静かに潜んで、 散歩する訪問者達を待っているかのようだ。そして予期しなかったほど巨大なオブジェがいきなり目の前に立ちはだかったりする。

私たちは四時間以上もこの彫刻庭園で過ごした。平日なので訪問者は少ない方だが高校生のグループがクラスで来ていたり、もちろん観光バスも数台やって来た。それらの人々がくり出して来て帰っていった後、見渡す限り誰もいない時間がある。鳥のさえずりだけが聞こえて、彫刻作品が新緑の芝生の中で黒々と光っている。

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日本人団体客の一人が絵の具を持ち出して写生を始めた。閉館時間と観光場バスの出発が迫っている中、彼は写生に全力集中して一枚の小さな絵を描き上げようと賢明だった。「次は奥さんと二人だけで来てよ」と言葉をかけたくなった。

Posted by taro at 23:25 | Comments (1)

2004年05月12日

まだ寒い週末

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この元気な街のウイークエンドは瞬く間に過ぎた。金曜日から日曜日という短時間の記憶。その理由の一つは旧友トム・キーとの六年ぶりの再会と、彼と週末全部を過ごせたからだ。彼は一年ほど前にXWIREという会社を設立し、インテリジェントで高速なWiFiラウターを一人で開発した。この街に住んで三年という。そして彼にはアメリカへの帰還が月曜の朝に控えていた。

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この週末、私たちは二つの美術展に出かけた。土曜日はKunstvlaai。街の西地区にあるWestergasfabrikというかつては水道管理施設があったと思われる場所だ。ここに「ちょっとおかしな」街のアーティスト達がオーガナイズした展示会で、斬新な表現や、オルタナティブなもの、笑える作品が古い煉瓦造りの建物の中と野外で見ることが出来た。それを見に来る人たちも千差万別。土曜の午後を芸術の周囲で過ごそうと、かっこいい老夫婦達や、若いクリエイティブなタイプ、乳母車を押す夫婦達がゆったりとビールを飲みながら創作を見に来る。ゴールデンゲートパークでの夏の昼頃やサンフランシスコのストリートフェスティバルに感じがよく似ている。

夕食と夜の散歩はトムと一緒に過ごす。今夜はリラックスモード。金曜の夜はThe Dolphins、Cafe Alto、Bull Dogなど、Leidse Pleinのすぐ傍にある街の住民と観光客がドッと繰り出すクラブを回った。聞いたことのない言語が耳の間を飛び交って時差ぼけのふらつきもあって猥雑なループのようにエコーした。この夜はまずインドネシア料理の店(アムステルダムには非常に多く、しかも美味い)から始まり、座って話せるクラブで過ごした。もちろん、夜中過ぎにはそのような店にもその夜の最初の店としてやって来るパーティアー達で満員になる。

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日曜日。午後も早いうちにトムのフラットへ向かう。Leidse Pleinに近づくとAjax Amsterdamの熱狂的ファン達がこの日のゲームの試合のために駆けつけていた。家族連れも多かった。Ajaxの旗に身を包んだ女の子とその母親。赤と白のチームのシャツとスカーフでお揃いの小さな男の子と父親。ハイネケンのカンに吸い付いているやたらに背の高い兄ちゃん達の間を、私はMDレコーダーで歩き回った。試合開始は四時。お兄ちゃん達はあと二時間ぶっ続けでハイネケンを飲み続けるのだ。後に私たちはこの試合の大切さを知った。オランダのプレミアリーグ優勝者を決める試合。そしてAjaxはNAC Bredaを2-0で破り、優勝を決めた。

この日、トムはダニエルを紹介してくれた。明るい気性のオランダ人女性で写真家。街のすぐ外に住んでいる。私たち四人は大歓声がわき起こるLeidse Pleinを後にしてKunst Raiへと向かった。Raiはビジネスショーなどが行われるヴェニューで、このイベントは主にオランダ、ドイツ、フランスなどの主流ギャラリーが毎年開催するビジネスライクな展示即売会だ。上記の「変な芸術家達」によるKunstvlaaiはこのイベントのちょっとした肩苦しさを嘲笑したパロディーなのである。変なといえばKunst Raiで展示しているアーティストの中には意味不明の作品もあり、それほどの差があるわけではない事が判明した。すでに有名になって成功しているアーティスト以外は、幸運にも評論家やギャラリーの目に留まったか未だに留まっていないかだけが違いなのだ。

アメリカと違ってどこにでもアートがある。私たちにとって今はそれが一番嬉しい。

トムは台北での仕事をこなすため、パリ発の便に乗ることに決めたようだった。月曜日、早朝四時のパリ行きの列車に彼はトランク三つを抱えて飛び乗った。グッドラック!アムステルダムでは本当に世話になった。有り難う。

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