2004年07月04日
ミステリアスなシベリア

ユーラシア大陸をさらに東へ。6月29日、シベリア横断鉄道でモスクワを出発した私たちはバイカル湖の畔にあるシベリア随一の都市、イルクーツクへとやって来た。列車がこの終点駅に到着したのは7月3日、朝九時半だった。
イルクーツクから車で約一時間、バイカル湖岸を走って着いたのがリストヴィアンカという小さな湖畔の街。湖から丘へと登る道路沿いの集落の中に私たちの宿がある。バイカル・カルチャー・センターとアート・ギャラリーに隣接したログキャビンがそれだ。

その周囲は遅い初夏の新緑が爆発したようだ。淡い緑の野草。紫、白、黄色、オレンジ、ピンクの彩りで野花が咲き誇る。その間を強い鉄分を含んだ小川が流れている。草地を挟む丘には針葉樹と白樺が濃く茂り、風が吹くと緑に波立つ。そんな景色の中にバイカル湖が冷たく広がり、広大な水面からの靄の向こう、五十キロ彼方の対岸には山々が連なっている。
バイカル湖は地球上の淡水の20パーセントを有する巨大な湖である。水面面積は大きくないが、その深さは1,600メートル以上に及び、世界で最も深い。
地殻変動でアザラシが閉じこめられて世界でも稀な淡水生物に進化した。その水は清々しく澄んでいた。湖底に生息する微生物やエビが有機物を処理する役目を果たし、水質の維持に貢献しているという。湖畔を歩くと風が寒い。夏の盛りでも水温が15度前後の巨大な水冷機が目の前に横たわっているからだ。冬の厳しさが初夏の湖を見ているだけでもゾクゾクと感じられる風景だった。残念なことに、環境保護に関しては全く粗野なロシア人観光客たちが美しい景観が見られる水辺でも、そして波止場でも平気でゴミを捨てていた。

人々の表情はむしろシベリアの小さな街の方が穏やかだという印象を受けた。この宿の料金は朝食込みだが、それを食べるのはお隣のおばさんの家だった。お早うございます、と入っていくと笑顔で出迎えてくれ、さあさお食べなさいといろんな料理を持ってきてくれる。ロシアン・ホスピタリティーというのは、これなのだと初めて知った。おばさんの家の裏手には自らの手で耕した畑と菜園がある。やはりジャガイモが最も広い面積を占めていた。主にトマト栽培用の温室もあった。摘んだばかりのレタスが二種類、朝食のテーブルに出る。
おばさんの家のお隣には老婆が孫娘、孫息子と住んでいる。芋畑で働いていた彼女は、写真を撮って良いかどうかと尋ねる私たちを自宅に招いてくれた。長い長い冬の間、彼女は農民から画家に変身する。シャガールのようなモチーフで、自画像とごく身近な対象を素朴だが意外に現代的なタッチで描いている。
アート・ギャラリーは残念ながら一年ほど前に焼失してしまった。カルチャーセンターの世話役さんは自らの手でその再建に忙しい。焼け残った絵の数々は臨時施設で展示されている。その内容には全く期待していなかったのだが、覗いてみると素晴らしい発見がそこにはあった。シベリアの人々のイマジネーションは実にミステリアスで、時にサイケデリックでさえある。今も展示されている絵の中にはオリジナルのアイディアとメルヘンや童話のようなデザインに富んだ作品が多い。ロシア独特のイコンを描くテクニックをモダンに応用し、曼陀羅のようなデザインにも目を見張った。
ほんの三日間ではあったが、リストヴィアンカでの滞在で美しくも厳しい自然の中で営まれるシベリアの人々の、静かでミステリアスな生活をほんの少し垣間見る事が出来たように思う。
2004年06月26日
空虚な街

モスクワについて何を書こうかと考えたのだが、最初は何も浮かんでこなかった。全く無表情な外貨換金所の女性の顔と同じように。空港からホテルまでの送迎車を予約しておいたのだが、その運転手だけが初対面からとてもにこやかに歓迎してくれたのがむしろ異常とも言える表情だった。ロシアの人々は何らかのつながりが無いと表情を崩さないようだ。店員が接客する際もそれは変わらない。
この街について何をお伝えできるだろう。まず目に入ってくるのは、社会主義時代からの社会基盤が朽ちて、今のところ放置されている姿と、それに取って代わった典型的な資本主義の産物である。赤の広場に今も堂々と立つレーニンの墓碑の正面に、キリストのイコンに守られた巨大なショッピングモールが陣取っているのは皮肉としか言いようがない。ブランド商店が建ち並び、ブランド商品のいかにもロシア的に巨大な広告板がビルの側面を支配している。
モスクワの人々の身なりも、この新しい流れにちなんだものだ。特に女性のファッションに至っては、全身をブランド品で固め、しかも派手なカラーコーディネーションを目指すのがこの街ではスタンダードであるらしい。十センチほどのハイヒールも珍しくない。それはそれでいいのだろうが、それ以外のバリエーションが全く見当たらないのだ。一世紀もの間、社会主義体制に自由を拒まれた人々の反動なのか、マーケティングの妙技なのか。
今まで私たちがヨーロッパで注目してきたアート、特に現行のアートシーンはどこにも見当たらなかった。あるカフェでたまたま一人の若者がロンドンのアートスクールのパンフレットを見ていたのに気づき、お勧めのギャラリーの所在地を尋ねてみた。彼は苦笑しながら「モスクワでアートシーンを見つける事は困難だよ、」と答えた。彼がロンドンを目指すのも同じ理由だろう。
ロシアへ行くについては多くの人々から忠告を頂いた。ロシアはとても危ないところである、金目のものを人目に晒すと狙われる、観光客が乗る汽車は盗賊がガス弾を撃ち込んで身ぐるみ剥がすというから気をつけろ、などなどである。私たちの期待を裏切ったのは、少なくともモスクワの観光客が集まるような場所ではこれらの心配は無かったというポジティブな点だ。聞いていたソ連崩壊直後の状態からは明らかに向上されたようである。

市内では大規模な建設が行われている事が多く、赤の広場のすぐ隣でもかつては威容を誇っただろうホテル・モスクワの破壊工事が進められていた。実際に私たちが宿泊したホテル・ロシアも今年八月にはその三千部屋からなる巨大なビルの打ち壊しが決まっているという。グローバリゼーションが地球の隅々に行き渡ろうとする時代、モスクワはその巨大な姿を変えようとしている。その中にクリエイティブな活動が芽生え、アートシーンが花開くのはいつになるだろうか。
