2005年09月25日
ホーム・アウェイ・フロム・ホーム

「Home away from home(ホーム・アウェイ・フロム・ホーム)というフレーズがある。「ホーム」がただひとつしかない自分の「家」だとすれば、「ホーム・アウェイ・フロム・ホーム」は、自分が住む家ではないものの、それと同じくらい心地よく、リラックス出来、馴染み深い場所を意味し、誉め言葉として使われる。日本は、同時に、私が住む北カリフォルニアから遠く離れた祖国でもある。私の故郷、京都に着いた9月15日以来この2週間というもの、「ホーム」という言葉に包含されるこれらふたつの意味は、実は、今のところはっきりと感じられないというのが正直な感想であると言わねばならない。
アメリカに移民してから28年間、日本へは幾度も来るには来たが、いつも1週間から2週間だけだった。今回の滞在は4ヶ月だ。これは、この地で何らかの形で生活をすることを意味する。どこに長期滞在するのも同じなのだが、日本でのテンポラリーな生活を基礎づける上でいろいろやらなければならないことがある。日本での一時的生活と他の国でのそれとの違いは、ここが、私が生まれ育った国であることだ。言語バリアーは無い。その反面、私は右も左も分からないという奇妙な状況に身を置くことになっている。電話線を引くにはどうすればいいか?インターネット接続を設置するには誰に連絡すればいいのか?京都の町中に出るにはどの駅でどの電車に乗り換えるのか?「燃えるゴミ」と「燃えないゴミ」の定義はどんなものなのか?どんな携帯電話サービスのブランドがあり、どんなサービスがあるのか?

私たちの食生活における変化も大きい。有機農法によって栽培された新鮮な野菜や果物が当たり前のように、容易に手に入る北カリフォルニアと異なり、そのような食材はここでは容易に見つからない。日本食を料理することには問題はないとしても、レパートリーの数は少ない。菜食主義者にとって、魚はオッケーだとしてもここでの外食は困難だ。さらに、感覚的そして現実的にも日本で外食する場合のコストは高い。一般に、生活費はかなり高いと感じている。日本の公共交通システムは素晴らしいし、世界的にも最先端である。車社会の悩みを熟知しているつもりの私たちとしては、出来る限りそんな公共交通システムを使いたいとも思うのだが、滞在している場所から京都や大阪へ出る度にかなりの出費をしなければならない、と感じてしまうのである。半日街へ出てみたり、雑用を済ませるために出かけると、交通費だけでも二人で合わせて2千円(アメリカドルで約20ドル)必要となる。近年アメリカ国内でのガソリン代は高騰しているが、セダン車を満タンにするのに30ドルから35ドルかかる。それを「べらぼうな値段だ」と嘆くような金銭感覚を持つ私たちにとって、日本の電車や地下鉄の運賃がいかに高く感じられるかを理解して頂けるだろうか。

私たちが住んでいるビルには50世帯以上が居住している。そしてこのビルは数十もの同じような建物群のひとつにしか過ぎない。僅か徒歩3分で最寄りの駅があるのだが、その駅の東側にこれらのマンションやアパートビルが、まるでドミノのように連立している。高速道路とそれからの出口、ショッピングセンターやスーパー、コンビニ、レストラン、アスレチッククラブ、そしてその他郊外都市での生活で一般に見られるさまざまなもの(もちろん、常に客でにぎわうマクドナルドやケンタッキーを含む)が、歩いて行ける距離範囲内に存在している。この13階から望めるそんな景色の中には、駅の西側に広がる田んぼもある。ちょうど緑から黄色へと変わりつつある田んぼは、宇治川へと広がり、私たちの目にはリフレッシングなものとして映る。
現時点では、日本での生活がどのようなものになるのか、少々考えあぐねている。一年間旅をした経験があるんだ、今のような状況もあったんだ、と自分達に言い聞かせる一方で、日本は私のホームでもある。グローバル・フュージョンというプロジェクトを実行する間、私は日本人としてのアイデンティティーを再確認したのではなかったか。それならば、この不安定さ、馴染み薄さ、浮いてしまっているという感覚は何なのだ?だから、今回の滞在における目標は、1978年以来不在だったことから何とかして抜け出して、新しい目で日本を見直せることだ。今までの数々の旅で、いつもどこでもそうしていたように。同時に、母国での時間を心から楽しみたい、とも思っている。
2005年04月16日
あれから10年

私たちにとってバリは特別な意味を持つところだ。1994年10月、ハネムーンで始めて来たのがここだった。二人でアメリカの外を旅したのもそのときが初めてだった。あの頃、デンパサールは中堅の町で、ウブドには小さな村の雰囲気が漂っていた。あまりにも変わったバリの様子に、今回私たちが到着したときの印象は知らない町に迷い込んだときのそれと同じだった。ウブドは、しかし、バリ文化の中心地であり続けていたし、バリの人々にとっては今も重要な地位を占めている。そして10年間を経た今もこの町は田んぼに囲まれていて、そのことが初めて訪れたときの様子を思い出させる要因となった。

これから1ヶ月滞在するのは今は忙しい町となったウブドの直ぐ外にあるロトゥンドーという村で、そこにある一軒の家を借りることにした。ウブドが車やオートバイの往来、人、レストラン、商店で混雑するかたわら、ロトゥンドーは有名な観光地の陰にひっそりと在る。借りた家の「裏庭」は真西に向かっていて、そこには田んぼが広がり、その背後にはココナッツの木々、はるか彼方にはバタカウとポホンの山々がそびえている。水田にはすでに水が引かれ、1年に3回行われるという耕作の準備が整っている。田植えが始まるのはもうすぐだ。

沈む太陽と雲が夕暮れの色を鮮やかに織りなし、ココナッツの暗いシルエットと共に鏡のような水田の表面に投影されて幻想的な景色を提供してくれる。このドラマチックなパノラマは毎日見逃せない景観となった。水田のほぼ中心にはバリ独特の米の神を祀る神社がエメラルドグリーンの島のように浮かんで見える。日が沈み、その後光も消えようとする頃、アジアの多くの場所で縁起がいい動物とされるコウモリと、その日最後のえさを追うツバメとが同時に田んぼの上を飛び交い、見分けがつかない。この環境に見られる昆虫の多様さと多彩なことには驚かされる。巨大なハチ、細小のアリ、鮮やかな色の甲虫、大きな模様を誇らしげに広げる蛾、虹のような光沢に輝く蝶、さまざまな色のトンボ、そして懐かしい子供の頃を思い出させるホタル。南半球独特の星座が夜の空に広がり、見慣れないミステリアスな美しさできらめく。

バリは今ちょうど雨期を終えようとしているところだ。日中は蒸し暑いが、午後から夜にかけて短い雨が降って涼しくなるのが有り難い。雨と雲が熱帯の色彩をより強調するようで、素晴らしい景色が力強く目に飛び込んでくる。この天気のパターンは、今まで旅をした東南アジアが全般的に乾期であり、乾燥した猛暑と靄がかった白っぽい空を見慣れた私たちにとっては新鮮な変化だった。半年近く青空が広がるカリフォルニアからの変化でもあるのだろうか。私たちはここで雲が与える景色のムードがいかに偉大なものかを改めて感じさせられた。

ウブドという町は文化の中心地であるだけにさまざまな伝統芸能の中心地ともなっている。観光客たちは町の至る所で行われる芸能を見ることが出来、その多くはバリ独特の建築様式による建物を背景とした南国ムードたっぷりのガーデンで行われる。これらの芸能は、しかし、ヒンズー教の式典の一部として現地の人々が参拝する寺院内で彼ら自身のためにも行われている芸能であり、その全ては神聖な儀式とされることを訪れる人々は知っておくべきだろう。演劇、舞踏、音楽のテーマはほぼ全てがヒンズーの神話、ラーマヤーナを題材となっている。バリの宗教生活の基本を成すのは、これらのヒンズー要素が古来この島に伝わるアニミズムと混じり合って生まれた独特の信仰だ。
伝統芸術に加え、この町ではコンテンポラリーアート、特に絵画、彫刻、ジュエリーデザインの分野で盛り上がっている。多くのバリ人と欧米人のアーティストたちがウブドの町とその近郊に居を構え、クリエイトし、その作品を展示している。町の中には注目すべき美術館もいくつかある。アジアのアートシーンはバリで生まれる芸術作品に注目し、コレクターはアジアのみならず世界各地に広がる。
ウブドのメインロードは10年前に訪れたときとは比べものにならないほど整備されている。あの頃は車も少なかったものの道はどこも埃っぽく、それに沿って土産物屋や換金ブースが所々にあったものだった。現在はスタイリッシュなレストラン、カフェ、ブティック、アクセサリーショップ、アートギャラリーがずらりと軒を並べている。これから数週間、この新しいウブドを探索する機会もあろう。
私たちにとって一番嬉しく感じられるのは、しかし、グローバル・フュージョンの最後の一月をロトゥンドーの水田に囲まれて過ごすことが出来ることだろうか。この場所で、私たちはもうすぐ終わろうとしているこの素晴らしい1年間の旅を振り返るかも知れない。あるいは、ただ田んぼの端っこに座って稲が育つのをぼんやりと見守るだろうか。
2005年04月04日
砂塵の彼方へ

シエムリープの4月は耐え難い乾燥した猛暑に覆われていた。町の道路は埃っぽくて汚い。路上に住む子供たちがそれを如実に反映していた。赤ん坊を抱えた母親たちは観光客が集まるレストランの直ぐ前に立って小銭をせがむ。この町の人々は皆どこかとげのある態度を持っていた。暗い過去を背負った国が未だに漂わせるムードなのか、それとも継続的な貧困のせいなのか。4月を迎え、この町の観光シーズンは終わろうとしていて、高級ホテルの窓のほとんどに灯りが点ることはない。観光市場向けのサービスは欧米、日本対応の価格で高い。現地の人々が立ち寄る屋台さえもが外人用の値段表を用意している。私たちはこの町に着いたばかりなのだが、この町とはどうも相性が悪いようだ。

ここに来た理由はもちろん世界の7大驚異のひとつ、アンコール・ワットである。バンコックには幾度も訪れてきたにもかかわらず、タイの近隣国であるカンボジアまで足を延ばしたことはなかったが、今回ここを訪れることは私たちの計画中でも優先度の高い訪問だったのだ。バンコックからシエムリープへ向かうには飛行機で飛ぶのが簡単(お勧め!)だが、そうしなかった私たちにはここから再びバンコックへと戻る旅程を残しており、それを考えただけでも意気消沈するような、地獄のような行程でここへやって来たのである。
お世辞にも楽しいとは言えないバンコックからシエムリープへの旅は、しかし、安かった。片道5ドル以下なのだ。飛行機の場合は一人当たり往復200ドルかかる。格安とあって時間のかかることと乗り心地の悪い点については天下一品だった。バンコックを発ってタイとカンボジアの国境町、ポイペットに着くまではタイの現代的なハイウエーのお陰で楽な旅だった。ドラえもんが大きく描かれたエアコン着きバスが、ナンバープレートの更新をしていなかったために警察に止められるというハプニングはあったものの、すんなり国境に到着。出発してから僅か5時間だった。

タイ出国、カンボジア入国の手続きは幸いにも1時間ほどで完了し、フレンドリーなタイ人の運転手にさよならを言ってカンボジアに入った。が、そこで全てががらりと変わる。カンボジア側の世話人は、理由もなく苛立ち、怒り心頭に走った男で、そんなにこの仕事が嫌ならさっさと辞めろと言いたくなった。その男は、聞き取りにくい英語を大声で喚き散らしながら、入国したわれわれ外人グループを集め、そして暫く待たせた後でシエムリープ行きのポンコツのミニバスに私たちを押し込んだ。ヘッドライトとブレーキが機能していたのが不幸中の幸いだった。道路は舗装工事を途中で辞めてしまったような酷い状態で、視界が常にブレ続け路上の土埃で呼吸が出来ない有様は正にモンゴルの悪夢の再現だったと言える。窓の外には広大で平坦な農期が終わった畑が延々と広がり、あると言えばほんのまばらに点在する農家と木が淋しそうに立っているだけだ。
一方、運転手は乗客の印象などに構ってはいない。彼(またはカンボジア側の旅行会社)の意図はシエムリープに可能な限り遅く着くことなのだ。出発して僅か1時間後には平原のただ中にあるレストランで停車し、彼は一時の仮眠と休憩をとる。その2時間後、小さな集落で再び停車。道路に面している全てのものが砂埃に分厚く覆われているような村だった。バスが止まると同時に若い女の子たちが絵葉書、フレンドシップ・ブレスレット、冷たい飲み物などを掲げて私たちを取り囲む。表面的には欧米人と楽しく英会話のレッスンを交わし、笑い声を上げる彼女たちだったが、何も売れないと分かるとその笑顔が歪むのも早かった。
シエムリープにようやく着いた頃には私たちは疲労困憊していた。14時間の旅の終着点は、前もって話が付いているゲストハウスだった。疲労のあまりそこに泊まる乗客を想定してのことで、運転手のコミッション目当てが理由だ。一応部屋は見せてもらったが、案の定高いレートを理由に丁重にお断りして暗い町へと向かう。夜も9時を過ぎ、タイ側で昼食を食べてからは何も食べていない。長い旅の後、何も知らない町でその夜の宿を探すのは常に憂鬱なものだ。が、その一方でシエムリープの観光開発は過剰で選択肢には事欠かなかった。

何も良いところがないような町だが、そんなところでもほのかな希望はある。ここにはカマー・ルージュの虐殺を逃れた孤児や彼らの子供たちが集団生活するコミュニティーがある。町の郊外にはキリング・フィールド記念公園とそれを囲む寺院があり、それに寄り添いながら癒されているようにその集落はひっそりとたたずんでいた。そこに住む人々は貧しく、掘っ建て小屋に住みながらも、何とか生き抜こうとしているようだった。何千という地雷が今も武装解除され続けている国の現実だ。ここでは、僧や外来のヴォランティアたちが、語学力が少しでも彼らの将来に役立つようにと子供たちに英語、日本語、フランス語などを教えている。この町独特の苛立たしさは別として、カンボジアは深い傷とトラウマを振り切ろうともがいているように思う。このコミュニティーはそんな姿勢の一例のように見えた。

事実、カンボジア全般は出会う旅人たちの間では非常に良い。「東南アジアの隠された宝」と呼ぶ人もいる。シエムリープに蔓延する観光開発や個人旅行者たちへの町の扱いなどで苦い思いをしている私たちにとって、今回この国の他の場所を訪れることが出来ないのが残念でならない。果たしてそれ程までの疲労とフラストレーションを感じながら、ここへの旅は価値があるものだったのだろうか?と自問することもあるほどだが、その答えは「アンコール・ワットはそれでも素晴らしい!」なのである。どのように素晴らしかったのかは、別の機会(フュージョン・ジャーナル第6号)でお知らせすることになるだろう。
2005年02月17日
来て良かった

旅先として考えるミャンマーという国は困惑と議論に満ちた国である。マスコミはこの国について独裁的で全てを牛耳る軍事政権や、民主化運動の功績でノーベル平和賞を受賞したアウン・サン・スウ・チー氏の勇気ある活動、人権損害の行為、さらに充満する腐敗などを取り上げている。インターネットの掲示板や著名ガイドブックでは「ミャンマーを訪れるべきか、否か?」についてその長所と短所が繰り返し討論され、分析されている。これについての私たちの考えは、「何とも言えない。が、私たちは自分の目でそれを確かめ、自分自身の意見を構築したい」である。今、私たちはミャンマーにいる。そして、到着直後の印象が様々な形で私たちの中に生まれ始めている。
ヤンゴン国際空港での入国手続きは至ってスムーズだった。移民局の担当員はビザをチェックしただけでパスポートにスタンプを押し、税関のオフィサーは荷物の点検もせずただ笑顔で私たちをこの国に迎え入れてくれた。この旅に出発する前にアメリカの友人たちはパソコンの持ち込みに関しては気をつけろと言ってくれたのだが、彼らのアドバイスは過去のものでパソコンやビデオカメラ、その他の電気製品の持ち込みに関する制限は暫く前に解除されていた。

入国して直後に出くわした難点は換金だった。現地の通貨はKyat(「チャット」と発音する)だが、訪問者の立場ではミャンマー国内どこでもこのチャットがアメリカドルと併用されている点で、いつどれを使うかに悩まされることになるのである。ドルからチャットへの換金レートは銀行やブラックマーケットなどによって異常とも思えるほど異なる。空港にある正式な銀行では1ドルあたり450チャットがレートだが、ブラックマーケットでは1ドルが900チャットと二倍にもなる。さらに、一度チャットに換金してしまうと再びドルへ戻すことはほぼ不可能で、ミャンマーの外ではチャットは無価値同然なのだ。それに輪を掛けるように面倒なのが新しいデザインの100ドル紙幣による換金レートは最高で、50ドル札ではレートが下がり、それ以下の紙幣のレートはさらに低くなってしまうことだ。換金に使えるドル札のコンディションは新しくしかも完璧でなければならず(古いドル紙幣はコンディションが良くても換金レートは低くなる)、ちょっとでも破れていたり、表面が剥げていたり、しわが多かったりすると受け入れてはくれない。ジョージ・ワシントンの顔がちょっとだけかすれていた私たちのドル札も拒否されてしまった。
ホテル、アップスケールのレストラン、観光客のための商店などでは値段の表示が全てドルで書かれている。ホテルや商店の中にはドルをチャットに換算した上で(もちろん、外来者に不利なレートで)支払うことは可能だが、航空券やバスチケットを購入する際はドルしか使えない。その結果、私たちは換金という馬鹿馬鹿しいゲームに巻き込まれ、いくら換金すべきかや出国前にやたらと多額のチャットは持っていたくないなどでイライラすることになる。

この意味不明な換金ゲームにもかかわらず、ミャンマーの首都ヤンゴンは、伝統的な価値観や多様な文化、植民地時代の建物、そして現代的で洗練された要素が混在しながら全体的にゆったりとした印象を持ち、親しみやすく魅力多い都市だと感じた。大きな街であるにもかかわらず、雰囲気はエキゾチックだ。子供や女性は「タナカ」と呼ばれるサンダルウッド(白檀)のような木の粉を水に溶かして顔に塗っている。この濃い肌色の塗料を頬や額にさまざまなトライバルデザインで描いているのだ。紫やオレンジ色のランの花が菩提樹の幹の間から顔を覗かせる。男たちは「ロンギー」というチェックパターンの布をズボン代わりに腰に巻き、ベテルナッツを噛み、「チェルーツ」という名の葉巻を吸う。

どっしりとした方形の基礎から鐘の形をした黄金色の仏塔、ゼディが雲ひとつ無い青空にそびえ、午後の厳しい日差しを受けてギラギラと反射させている。そんな仏塔の中でも最大、最も聖なる寺院とされるシュウェダゴン・パヤは市内のいたる場所からもその神々しく瞑想的で魔法のような姿を望むことが出来る。夕日の光りの中で、その巨大な仏塔のシルエットが街の風景の中に浮かび上がる。ミャンマーの人々の大半は信仰厚い仏教徒である。そのことは知っていたのだが、市内には意外に多くのモスクも見られる。一日を通じて比較的静かな時間にはモスクからの祈りの声も聞こえるが、音量はインドで聞いたものほどは高くはなく、日中には騒音で掻き消されてしまう。この街にはその他にもヒンズー寺院やキリスト教会、カテドラルなども多くあるようだ。

茶店はどの道路や街角にもあり、一日中客足は絶えることがない。店によって朝早く開くものもあれば夜遅くまでやっているものもあるようだ。客たちは雑談をしたり、簡単な食事やスナックを食べるためにやって来て、低い木製かプラスチックのテーブルを囲んで座り、欠けた陶器の茶碗で茶をすすり、飲茶のような方法で豚まん、あんまん、春巻き、ジャムサンド、麺、餅米とココナッツのミックスなどを食べる。通常、彼らが注文するのは濃い紅茶かコーヒーをコンデンスミルクで甘くしたものだ。薄目のウーロン茶は魔法瓶に入れて全てのテーブルに置いてあり、客は何かを注文しさえすればそこからいくらでもウーロン茶を飲むことが出来る。アメリカドルでわずか50セント払えば二人が紅茶二杯ずつと満腹になるまで小品を味わえる。

ヤンゴンの中心街には現代的な高層ビルがいくつか立ち、ビジネスオフィス、ハイエンドのホテル、ブランド商品店、トレンディーなカフェがビルの中に点在している。ビルの周辺の歩道は穴ぼこだらけで、穴に足を踏み入れたりつまずかないように歩くのに一苦労する。乾燥期の道路は埃っぽいが、インドに比べるとゴミは目立たず、比較的きれいに維持されている。道路を走る車は自家用からバスにいたるまでその大半が日本から輸入された中古車である。それを見ていると滑稽でもあり懐かしくもある。私が子供の頃には新車だった小さなマツダが、数十年後にここヤンゴンでまだ庶民の足として活躍している。日本から輸入した後、再度ペイントすることはしないようで、どの車も日本のどの会社のものだったのか、どの地方で走っていたバスだったのかが分かる。故郷の京都で走っていた薄緑と深緑の市バスをこの街で何台も見かけたのには驚きもし、笑いもした。

ミャンマーは至って安全な国である。ヤンゴンの市内を歩き回っている間も、旅の途上で少なくとも持ち続けている警戒心や身の回りの注意といったものが、ここでは全く不必要に感じるくらいだ。見た限りでは私たちに対してはもちろんのこと、人々の間でも暴力らしきものは全く見当たらず、他の国ではどこでも見かける路上での白熱した口論さえない。市民の間ではある独特の平和さと穏やかさが普通のようである。政府は、世界への対面を保つために国民に外国人には優しく親切に振る舞うことを奨励しているという。言うまでもなく、政府は観光客が持ち込む金(つまりアメリカドルのことだが)を意識しているようだ。が、人々が漂わせる優しさは、なにも政府がお膳立てしたからだけではないと私は思う。彼らの笑顔はこわばったものでも皮一枚だけのものではなく、まだ観光ずれしていないごく自然で純粋なものだと感じる。
この国を訪れる他の訪問者たち同様、私たちはミャンマーの深刻な歴史を知っている。大英帝国による植民地時代、第二次大戦中の日本による侵略、戦後の混乱に満ちた不安定な内部情勢、世界中に知られることとなった軍事政権による独裁と民主化の否定。人権蹂躙の記録。腐敗したシステム。貧しさにあえぐ人々。ミャンマーの生活が困難であることは明白だ。が、人々の姿勢は前向きでその表情は明るい。私たちがここに来てからわずか二日ほどだが、人々からはこれらの困難を感じず、心地よい雰囲気を味わっている。予想していた全体的に厳正で堅いムードに反して、私たちは優しい微笑みと無垢な笑い声に囲まれている。世界世論を意識して、ミャンマーは少しずつ世界への扉を開きつつある。観光客が旅費として使う金は、10%の税金以外は人々の手に残るという。とすれば、このささやかな献金が、いつかは人々の経済的独立に貢献し、さらに政治的な独立にもつながってゆくものになるよう我々は望むばかりである。ミャンマーの外では、多くの矛盾を抱えるこの国を訪れるか否かで今日も意見が交わされているのだろう。しかし、今ここにいる私たちは来て良かったと正直に言える。
2005年02月12日
タイを学ぶ

バンコックの勝利記念碑から高架電車タナヨング(BTS)に沿って南北に走るパヤタイ・ロード。その一角に立つオフィスビルの側面を巨大なバナーが覆っている。現タイ国王、ラマ9世の肖像写真がハンサムに映る。遠くからでも容易に読める英語の見出しが「最も偉大な国王」と宣言している。国王の目は厳しさを帯びながらも優しく、タイ王国の明るい未来を見定めているかのようだ。事実、国王と王妃の巨大な肖像は大通りばかりではなく市内の至る所に見られる。彼の肖像は、時には王室の正式な軍服をまとって国民への奉仕を象徴し、時にはポロシャツとカジュアルなスラックスに愛用のカメラを首から下げた姿で国民にとって身近な存在であることを表現している。そして私たちは、バンコックを訪れるたびにタイの人々の国王への深い想いを感じる。

これはタイ国内に限られているわけではない。海外在住のタイ人は祖国から遠く離れていても国王への愛情を持ち続けている。タイ料理の店に行かれた方は、店内の壁のどこかに国王と王妃の写真が掛けられ祀られているのをご覧になったに違いない。国王のタイ国民に対する誠志な想いと愛情が、国民の彼に対する愛情に反映されているのだ。
1970年代以来20年に渡る不安定な政情の後、タイは民主主義国家となり、現在国王には政治的権限は無い。国王は大きな混乱と多くの人々の流血を回避するために政治権力を国民に譲渡した結果、タイは民主主義社会となった。この時、国民の意志を誠実に受け入れた彼の行動は、人々が彼を尊敬して止まないことの数多い理由のひとつでもある。

国王の宮殿を囲む壁に沿って、その内側に王室の地所とはまるでイメージが違う建物や牛舎、グリーンハウスなどが立ち並んでいる。そこは、国王が農業から現代産業の各分野で学習と実験を自ら行っている研究施設なのだ。タイの人々にとって有益なものとなる新たな発見があると、国王は王室直属の機関を通じて人々に「進言」し、多くのプロジェクトが成功している。例えば、彼の用水と土地使用に関する研究(国王が得意とする分野だと言われる)を基にバンコック郊外に貯水池と水路が建設され、かつて市内に多くあった水路の埋め立てが原因で頻繁に起こるようになった洪水が減少するという結果を生んだ。また、タイ北部の山々に住む少数民族に利潤の多い野菜や果物の栽培を奨励し、村人たちのアヘン栽培依存を減少させた。国民の肥満症を案じた国王は、誰もが参加できる習慣的な運動を広めるため、毎日夕方6時に国中の公園や広場などでエアロビクスを実施している。

王室が人々の間で広く尊敬されると同時に高く評価されているため、タイ国民が王室の悪口を言う理由はあまり無い。イギリスや日本のロイヤルファミリーに見られるゴシップも無い。特に国王と王妃は文字通り神様のように崇められていると言っても過言ではないだろう。「現国王と仏教無しには今のタイは語れない」とも言われる。王室に対する無礼な言動が法によって禁じられているという事実があるにしても、この法律を自らの意志で犯すタイ人はまず見かけることがない。国王の肖像をかたどる物は全て神聖なもの(またはそれに近いもの)とされ、それにはもちろん印刷物とタイの紙幣も含まれる。例えばインドやアメリカでは破れたりすり減ったりボロボロになったお札が多いが、タイ人がお札を粗末に扱うことはない。タイの紙幣とコインは、その全てに国王や王妃の肖像が描かれているため常に丁重に扱われるのである。あるタイ人の男性に10バートコインの女性は誰だと尋ねると、彼は愛情をこめて大声で答えた。「あの方は私の王妃様です!」
このタイ王国を訪れるたびに、私たちはタイの文化の複雑さを感じさせられると同時に、少しずつではあるがより多くを学んでいるとも思う。この一週間の間に、私たちは幸いにも近所に滞在しながらタイの言語、文化、歴史を研究している人たちに出会うことが出来た。蒸し暑い夜遅く、一緒に飲みながら聞く彼らの話は、この国の習慣や伝統の知識に富んでいて非常に興味深い。

例えば、タイ人の友達には絶対に刃物類の贈り物をあげてはならないという習慣を学んだ。刃物は友情関係を断ち切るという意味があるそうだ。もっとも、それを意図する場合は仕方がないことだが。赤インクで手紙を書いてはならない。赤い文字は死者に送るものだからだ。挨拶にも見ただけでは分からない複雑なルールがある。タイの人々は合掌して挨拶をすることがあるが、相手と場合によっては相手に身の狭い思いをさせてしまうことになってしまう。従って、我々外来者は勝手構わずそのような挨拶することをせず、相手のタイ人が合掌したときのみそれに合わせて挨拶を返すのがいいだろう。または、外来者は外来者らしくいつものように挨拶をする方がいいのかも知れない。
ある日の午後、私は町中の混んだ歩道を歩いていたのだが、そのとき一人の男の子が目の前に飛び出してきた。私はその子の背後に位置していて、誰かが後ろにいるという意味でその子の頭に手を当てて彼の注意を誘った。頭に見知らぬ人の手を感じた子供はいかがわしい表情で私を見た。タイでは他人の頭を触れるのはタブーである。頭部は身体の中では最も尊い部分とされ、生命力が宿る場所と考えられているからだ。またある日、ミシガンから初めてアジアを訪れたという若者がレストランで足を組んで座り、裸足の足の裏を無意識にウエイトレスに向けていたことがあった。それを見たウエイトレスの表情は即座にこわばり、足が向いていた方向から早足で去っていった。尊いとされる頭に対して足は不浄。それを人に向けるのは失礼だし、さらに僧や仏像に足をむけることは完全な非礼となる。
この他にもタイ文化のユニークな特徴がいろいろある。タイでは異性に興味を持たない男性に対する人々の姿勢が非常に大らかで、差別は全くないと言っていい。私たちが泊まっているゲストハウスの傍には技術系の大学があり、平日はその一帯が大勢の生徒で混雑する。道ばたの屋台に仲間同士集まって座り、パッドタイやサテーを食べジュースを飲みながら話し合っている光景はこの近所の日常だ。それに混じってコーヒーを飲んだり食事をしながら男女混じり合って雑談している学生たちを見ると、女装している男の子が多いのが目立つ。東南アジア系の細身にぴったりとした女学生の制服を着て少々化粧もしている。男だと分かるのはハイヒールのサイズが大きいことや手の大きさによるくらいなものだ。「カトイ」と呼ばれる女装男性たちは、タイのエンターテイメントの世界では長年の間築き上げられてきた確固たる存在で、人々の間では広く受け入れられている。これらの若い男性たちはそのオープンで大らかな環境の中で自由に自己表現できるのだ。

タイは、今までに繰り返し訪れてきたという個人的な理由で私たちにとってはユニークな存在だ。インドから帰還した今回の入国を含めるとこれで5回目、来るたびにこの国とその文化について少しずつ知識を深めていると感じている。新たに知る情報は、それぞれがいかに些細なものであっても、この国だけではなくいかなる文化について常に何か新しいことを学ぶことが出来るものなのだというむしろ当たり前のような教訓を想い出させてくれる。この事は、どんなカルチャーを知る上でも常に目と心を開いていなければならないということでもある。この単純な事実は、おそらく文化を学ぶという行為の原則なのだろうと思っている。
2005年01月25日
エレクトロニクス・シティー

昨年5月、私たちが旅に出たときにアメリカのハイテク産業におけるトレンドだったのは職場のポストを可能な限り海外へアウトソースすることだった。ハードウエアの生産は中国へ、そしてソフト開発のプロジェクトはインド、特にバンガロアへと送られていった。この街の名前はシリコンバレーの地方紙であるサンノゼ・マーキュリー・ニュースで頻繁に取り上げられていたし、社員が職場で交わす会話の話題になることも多かったため、そこがどんな街なのか、そこで何が起こっているのかについては深い関心があった。
バンガロアにはインドの他の主要都市と同様、高級レストランやトレンディーなパブ、本物のブランドショップ、スタイリッシュなナイトクラブ、そして大きなショッピングモールがある。磨かれたヨーロッパ車が走り、MGロード街の洗練されたライフスタイルショップは現地の買い物客で賑わっている。

ここに着いてまず気づいたのは、聖なる牛が道路上を闊歩しておらず、そのお陰で糞を踏まないように気をつけながら歩くことなく周囲を見渡せることだった。「ガーデン・シティー」とも呼ばれるバンガロアにはインドの他の年に比べて緑と公園が多く、街の肺ともなっている。その結果、大気汚染は未だにあるものの、私が訪れた他の都市に比べるとそれ程悩まされることはない。私たちはラルバーグ植物園を楽しむ市民たちを眺めながら日曜日の午後を過ごした。ちょうど満開の花々に囲まれながら家族連れがピクニックをし、恋人たちが手をつないで歩いていた。

また、この街では現地の人々に夕食に招かれる二度の機会にも恵まれた。彼らの職業はさまざまで、ソフト技術者、不動産開発者、美術の大学教授、生産系企業のビジネスマンなどだ。彼らとの和やかな会話を通じてバンガロアの現在について学ぶことが多かった。彼らの生活はヨーロッパやアメリカに住む人々の現代的生活と何ら変わることはない。この洗練された街は、彼らのような有能なプロフェッショナルに快適なライフスタイルと現代生活の便利さを可能にしていることが分かった。
昨今のハイテクブームによって、彼らは今風の環境で生活を営むことが可能なのだが、バンガロアを全体的な視点で見ると新たな現代化の波はその全てには及んでいないようだ。ハイテク化していると聞いていた街にしては停電はあるし電圧も不安定だ。インターネットカフェではWindows98のベータバージョンや、良くてもWindows2000の評価版が使われている。マシンにインストールされているソフトは頻繁にクラッシュするし、アクセススピードはケララ州のバックウォーターよりも遅い。「これが本当にインドのシリコンバレーなのか?」と私は考え込んでしまった。「バンガロアの噂はあれほど聞いていたのに、信じられない!」
バンガロアの中心街で用事を済ませようとすると、そうでなくても効率が悪いインドの中でも平均以下の場合もある。西洋のブランド商品が並ぶ高級商店街付近で小包を発送しようとしたときなどはインドでも最悪のケースとなった。コチなどの小さな町やアーメダバッドのような都市では、バンガロアで要求された込み入った手順を踏む必要などはなかったのだが。通常30分もかからない国際郵便がここでは2時間半を要する悪夢のような体験をすることとなった。

私たちは、近年の好況の恵みを得ることなく取り残された人々がバンガロア市内には多くいて、貧富の差が急激に広がっていることを目の当たりにした。貧しい人々が路上で物乞いするのを気にも留めず懐の暖かい人々が闊歩して通り過ぎる。この街に対する私たちの期待は、ものの見事に打ち砕かれ、バンガロアは埃っぽく汚れたインドの街の典型として私たちの目に映り始めた。ハイテク企業はそのほとんどが20キロ離れたエレクトロニクス・シティーと呼ばれる地区に居を構え、バンガロアの中心とは一線を画した存在である。つまり私たちがバンガロアの姿を塗り替える機動力と考えていた企業と市の内部に存在するさまざまな問題とは接点がないのだ。

バンガロアはインドについて多くの人が言う「この国は貧しい国ではなく、貧しい人々が多く住む国だ」という言葉を的確に反映した街だと思う。ニュースメディアは口を揃えて近い将来インドは世界をリードする経済大国になると報道しているが、それはこの国全体について言えることでは決してない。ハイテクブームや他の産業での成長がもたらす経済の繁栄によって、インドが予想されているようなステータスに達することになるとしても、それはごく限られた少数の人々にとってのステータスだ。インドの経済、現代化、そしてサクセスについて耳にすることは多いが、この人口100億人のうちそれを味わえない人々がほとんどなのである。
過去3ヶ月インドを旅しながら痛感させられたのは、この国を一言、いや一行の文で表現するのが非常に困難だということだ。さまざまな表情とムードを持ち、それを理解したと思ったら一瞬のうちに豹変する。従って、インドの将来を思うとき、私たちはその動向を見守るしかない。このバンガロアという街については急激な変化が予想されると同時に、結局は何も変わらないだろうという予想も出来る。そしてインド全体についても全く同じことが予想できるのである。
2005年01月12日
マラリア体験

カルナタカ州のマイソールにあるJSS病院に入院していた。コチで刺された蚊が原因でマラリアにかかってしまったからだ。コチは歴史的な魅力やカルチャーがある街だが、下水、ドブ水や汚水の水溜まりが臭い非常に蚊が多いところだ。1月3日の夜行列車でコチを出発した。発車時間を待つ間も身体がだるく熱っぽくもあったのだが感冒か何かだろうかとしか考えていなかった。列車は冷房車だったにもかかわらず寝ている間に大量の汗をかいた。翌朝マングロア着、駅から市内へはオートリクショーで入り、さらにバスに乗り換えハサーンを経てほぼ一日がかりでベルールという小さな町に到着した。宿にチェックインした時点で頭が重く、寒気も少々感じるようになっていた。
感冒による節々の痛み、熱、寒気などの症状は今までに何度も体験しているが、旅先での病気ということもあり、大事をとって宿泊したホテルのすぐ傍にある医療所で診察を受ける。結果はマラリアの心配はなく、感冒か慣れない天候や悪い水などによる熱だということで、2日分の解熱剤と抗生物質を処方してもらった。実際には何が原因で、どんな病気なのかは、あの医師には分からなかったようだった。この小さな町の医療所では診察料は無料である。診察を受けている人々は皆貧しい人たちで、無料診察を受けるために長い間順番を待つ。彼らは薬代だけは払わなければならないが、それでも国民保険か何かのシステムで全額払うことはないようだった。ちなみに処方してもらった解熱剤と抗生物質3日分は52ルピー、日本円で150円にも満たない。
ベルールで滞在する間、この体調であまり外出することが出来なかったが、6日の朝、熱が下がったのをみて石彫刻が素晴らしいチャンネケシャヴァ寺院を訪れた。しかし、解熱剤が切れると感じる悪寒はますますひどくなり、熱も39度を上回るようになってしまった。この病状悪化の様子でこれがただの感冒や気候、さらには悪い水によるものという単純なものではなさそうだ。この町の医師の診察では心許ないという結論に達し、翌日7日の朝、リンが車をチャーターしてカルナタカ州南部にあるマイソールへ至急向かうことに決めた。マイソールは病院の設備が整った中堅サイズの街の中で最も近距離にあったからである。4時間のドライブの間にも極度の悪寒に襲われ、車を止めて強烈な日差しの中で「暖を摂る」場面もあった。

マイソールには政府経営の大きな病院があり、まずそこへ行くことにした。その病院に乗り付けたのが午後1時。受付では登録料10ルピーを払って診察カードなるものを作ったのだが、午後1時から2時までは急患の部署も「お昼休み」で受け付けてはくれなかった。この事自体想像の域を超えた病院運営である。しかも、居合わせた若い医師が言うには「JSSという病院の方が良い治療を受けられるよ。」いかにも「インド政府経営病院」といった感じで呆れてものが言えない。JSS病院は幸いそこから直ぐ近くにあり、早速急患診察所に入った。ERのベッドの横たわって測った体温は40度を越える高熱となっており、私が外人であることも手伝ってか医師たちもさすがにまともに対処する気になったようで、体調が崩れ始めてからの経過を何度も尋ねた後、早速点滴を開始し、解熱剤を注射し、さらにてきぱきと診察と治療のプランを立てていた。
JSS病院はいわゆる医科大付属病院で、したがって診察に当たっている医師や看護婦にはインターンが多い。私の診察はインターンから医学部博士課程の大学院生へと引き継がれ、遂に大学教授まで達することになった。教授は直ちに入院手続きをとり、血液検査を行うよう助手に伝えた。入院手続きはこれもインドらしく書類記入や誰かの承認が必要だったりで、個室の病室に入るまでにはかなりの時間を要した。検査のための採血もしたのだが、病院内の検査では時間がかかり過ぎるということでマイソール市内にある専門のラボで検査を行うことになった。感情を表情に出さない神経質そうな大学院生が彼の車で街のラボへと連れて行ってくれ、再度採血してからわずか20分後、マラリアの陽性反応が判明。病室に帰ってから即刻点滴に抗マラリア薬を混入した治療を開始した。治療期間は5日間。「速攻治療」ということだった。

教授を囲むインターンや医師たちはそれぞれ内科、医薬、伝染病などの分野での専門家たちで、皆優秀で確かな知識も持っているようだった。この専門家のグループは教授を囲んで意見の交換を行い、治療方法の詳細を確認し合い、そして教授を最終的な決定者として実際の治療を進行させる。あの無表情で神経質そうな大学院生は、インドの医者は途上国には、普段西洋の医者たちが見ることもない多岐に広がる健康衛生問題や病状と常に対処しているため、西洋の医者たちよりも経験を積んでいると言っていた。
看護婦たちは全く別問題である。彼女たちが親切でフレンドリーなのは助かることは確かなのだが、医師たちが指示した治療を実際に患者に施すのは彼女たちで、これがかなり適当で時には医師の指示を誤解していたこともあったりした。点滴針を挿入するときも血管に的中せず、何度も失敗するのには苛立ったし、正しい薬の服用回数や時間帯などについても何度も問いたださなければ正確な答えが返ってこない。従って看護婦たちの治療は毎回注意してフォローしなければならなかった。
病室は狭く、お世辞にも清潔とは言えない。専用のトイレ付きバスルームの清掃は頻繁には行うが、水と汚れた雑巾、木の枝を束ねたほうきを使って掃除するだけで消毒はしていない。バスルームの天井からは何か液体が落ちてきていて、まるでどこかの鍾乳洞のように床の数カ所で蓄積している。大きなゴキブリが這い回る。蚊も入ってくる。マラリアの治療を受ける病室で蚊の心配をしなければならないところが正にインドである。蚊取り線香は配布してくれたが。廊下には「静粛に!」と看板があるが、インドでは静粛なところなどは存在しない。患者の咳き込む声やうめき声、生まれたばかりの赤ん坊の泣き声、廊下で井戸端会議に熱中する人たちなどで一日中やかましい。

食事は出ない。従って食事は外から持ち込むか近所の食堂へ外食しに行くしか方法はない。さらに点滴、点滴用機材、注射セットから服用薬に至るまで、医師の指示に従って全て自分で付属薬局へ行って購入しなければならない。当然これらの雑用は患者の家族の仕事となる。看護婦たちは患者が自ら買ってきたものを使って治療に使うのである。私の場合、リンが同じ部屋に滞在することが出来、これらの雑用をこなしてくれたのが不幸中の幸いだった。一人旅でこのような状況に置かれたトラベラーたちは一体どうしているのだろうか、と考えてしまう。
抗マラリア薬の点滴を始めて直ぐに熱が下がった。この点滴による治療に3日を費やし、さらに念のため2日間服用薬で血液中のマラリア全滅を図る。教授を始めとするスタッフチームは毎朝10時頃さっそうとやって来て体温、脈拍、血圧のデータを確認し、看護婦から治療経過の報告を受け、指示を与える。そして入院5日目、血液検査を再度行った。その結果、マラリアの陰性反応が確認できた。12日の朝、教授はその結果を見たうえで退院許可をくれた。教授と彼の生徒たちによる診断と治療は非常に的確でスピーディーだが、入院や退院の際の手続きはいかにもインドらしくじれったいことこの上ない。退院手続きだけに約3時間待たされた。
JSS病院は医大と訓練校も兼ねた施設であるため、診察、治療、入院のコストはかなり低い。そのため、患者たちは一般に貧しい人たちが多い。個室の場合、入院費は個室で一日250ルピーと安いことは確かだが、入院手続きの際に2000ルピーの前払いをしなければならない。この前払いが出来るか出来ないかでどの病室に入るかが決まるようだ。後に聞いた話では、マイソールには全般的により良い環境が整った病院が何件もあるそうだが、治療費は5倍するらしい。

今回マラリアの治療にかかった診察費、治療費、血液検査、薬代、個室での入院費などを含めた全ての経費は250ドルに満たなかった。JSS病院には清潔で蚊のいない病室や現代の最新医学技術があるわけではなく、看護婦も非常に頼りない。反面、適切で民主主義的な医師の診察と治療は先進国の病院と同じであろう。アメリカでは一般消費者が負わなければならない医薬品のコストの高さが大きな社会問題になっている。健康保険費がべらぼうに高く、それに加えて実際の治療費もさらに高いという現状は、アメリカ市民の多くが医療制度の恩恵を受けることが出来ないといった「先進国」にはあるまじき現象を生んでいる。インドでも将来は医療コストが大幅に上昇するとは聞いているが、現在はベルールのような小さな町でも(たとえ誤診するような医師でも)人々が容易に診察や治療を受けることが出来るのだ。
インドでの入院経験など自慢にもならないし、決して心地の良い体験ではなかったのも事実だ。が、無事回復した今、通常決して見ることのないインドの側面を垣間見ることが出来たのは思いも掛けない貴重な経験と言えるかも知れない。
2004年12月30日
アジアの海が揺れた日

クリスマスの日、私たちは灯台の南側にあるヴィジンジャムという名の小さな漁村へ散歩に出かけた。村人たちは主に貧しい漁民で、その生活は海からのささやかな恵みだけで支えられていた。彼らは煉瓦の基礎の上にココナッツやバナナの葉で編んだ小屋に住み、その小屋は波打ち際ぎりぎりに並んでいた。あの日、小さな湾の南側では、クリスチャンの村人たちがお祭りのようにクリスマスを祝っていた。ティーンエイジャーは大音量で音楽を流し、男の子は砂浜で集まってサッカーに耽っている。女たちが笑顔でそれを見守っている。皆表情が明るく幸せそうで、素晴らしい天気に恵まれた祭日を祝っていた。しかしその翌日、祭り気分は恐怖に変わる。村は押し寄せる波にのまれ、この漁村はわずか数分で全壊した。

この小さな漁民の村ヴィジンジャムが破壊されていた頃、そこからほんの2、3キロ北のコヴァラムビーチで、私たちはそんな惨事が起こっているとはつゆ知らず、いつものようにジャーマンベーカリーの二階から浜辺を見渡しながら朝食を食べていた。砂浜ではパラソルが開き、人々は寝椅子を借りて日光浴や読書や波乗りを楽しんだり、フルーツサラダを頬ばっていたりした。突然、目前で波の足が長くなり砂浜にいた人たちをずぶ濡れにしてしまったのだ。彼らは驚いて波と共に引いていくサンダルやバッグやブランケットを追いかける。波は普段に比べて決して高くはなかった。しかし、波が奥深く海岸沿いの歩道にまで達したのは普通ではなかった。それでもあわてる人たちの様子がちょっと滑稽で笑ってしまったほどだ。
朝食の間、私たちは波の様子を見続けた。ビーチ沿いに軒を並べる店に危険なほど近づくかと思うと、数分後に50メートルほど引く。このパターンが続くのを見ながら、この異常な波の原因を話し合った。その日がたまたま満月だったことからそれが原因かも知れない。いや、どこかで起こった地震の影響だろうか。この憶測が当たっていたとはその時の私たちには全く予期も出来なかったことである。

結局この現象はその朝と午後一杯続いた。ライフガードは警戒はしていたものの、それ程緊迫した様子もない。人々はその後も砂浜で寝そべったり澄んだブルーの海で泳いだりしていた。現に、海は前日よりも穏やかでさえあっので、リンは朝食後のスイミングを楽しむことにしたほどだ。彼女は20分ほど泳いだのだが、潮はいつものように流れが強いとは言え、数日前ほどではなかった。彼女はこの湾の潮の流れの危険な速さには慎重で、水の中にはそれ程長くいたくはないと言っていた。浜辺に上がってブランケットで横になり、本に夢中になり始めた彼女にだったが、再び波が長くなったのを見てあわてて避難。暫く前は他の観光客が濡れてしまったのを笑っていたのに、と苦笑してしまった。

現地の住民はモンスーンの季節に高くなる波には慣れてしまっているのだが、その彼らさえこの季節にこんなことが起こるのは初めてだと言う。午後1時頃、私たちはビーチに面したレストランでランチを食べることにした。南側の漁村の男たちがコヴァラムビーチに残したボートを確認するために息をせき切らせて走って来る。明らかに何かが異常だった。数組のチームに別れた男たちがそれぞれボートを浜辺の高いところへと引き上げる。波の昇降はそのときも続いていた。観察すると、波打ち際の地点のずれが大きく変化していることに気づいた。昼食後、店が並ぶ歩道に沿ってさらに北のビーチへと歩くことにした。地震があり、チェンナイ(マドラス)で多くの死傷者が出たという店の人たちの話声を聞いたのはその時が最初だった。なるほど、何か大きなことが起こったことは確かなようだが、この海で何が起こっているのか。私たちはそのときもまだ状況を把握していなかったのである。それと時を同じくして、ライフガードと海岸警備員たちが人々を海から揚げ、ビーチは立ち入り禁止となった。

私たちがようやく正式なニュースで情報を得たのは、津波がスリランカとチェンナイを襲ったというBBCの報道が最初である。その時点での犠牲者数は千人。そして私たちがその全貌を知ったのはその数日後だった。12月26日、地球はあの神戸地震の300倍という飛んでもなく膨大なエネルギーを一気に放出し、余震は今も続いている。
コヴァラムビーチはなぜかこれらの被害を免れていた。ランタ島の友人たちの安否を思い(有り難いことに彼らは無事である)、インドの旅を終える場所だと考えていた海岸沿いの都市チェンナイの様子が気遣われた。日を追う毎にアジアでの犠牲者数と被害の規模が倍増していく。私たちがこうしてここにいることがとてつもなく幸運であることを思い知らされる。そしてその北と南では被害が出ているにもかかわらず、なぜ私たちがいたコヴァラムの海岸では大した被害が無かったのかと不思議に思われるのだ。津波自体も、死の可能性も、被害も私たちが直接体験することはなかったのだから。
コヴァラムビーチから西海岸に沿って北に向かい、現在私たちはコチという街にいる。この街は本土から橋で渡れるほど近い島にあるのだが、ここでも被害は少々あったようだ。ここに着いた12月28日、島と本土をつなぐフェリーは運航休止となっていて、漁船も出ていなかった。

この街に来てから、街のホールやレストランでは救済援助のベネフィットコンサートが開かれたりしている。各コミュニティーではこの大惨事の救済と援助に乗り出す動きが活発化しており、海に流された必需品を調達すべく、自ら寄付を集めるヴォランティアたちも多く見かけるようになった。最も必要とされているのは衣服、靴、食料、調理具などである。現地の人々によれば、政府や宗教団体によって集められた募金は、終わりのない政治的な動きの中で蒸発してしまい、実際に援助に当てられるのは極めて遅いという。この人道的危機に際して、「先進国」と呼ばれる国々がいち早く支援行動を起こし、速やかにそれを実行して欲しいと望む。被害者たちへの援助は日本やアメリカからでも出来る。募金される場合は、赤十字やNGOなど信用できる援助団体を通じての送金を呼びかけたい。
私たちは今も何ごともなく津波から免れたことを幸運に思い、有り難いという気持ちで一杯である。この恐るべき災害で家族や友人たちを失った人々に心からお悔やみと祈りを送りたい。
2004年11月13日
アトム・ボムの夜

11月12日の夜、インド全国は一週間続くディワリ祭のピークを迎え、賑わった。「光の祭り」とも呼ばれるこの祭りは、盆と正月とクリスマスとアメリカの感謝祭が全部一緒にやって来たようなものである。祭りの中心となるのははやり家族だ。実家から離れて働く者や学生たちが帰郷して実家の家族と共に祝う。私たちの運転手、ヤドヴも彼の家でこの祭りを祝うため、私たちも便乗して彼の故郷、ティジャラという街でインドの一家族と数日を過ごす機会を得た。

ディワリには花火や爆竹がつきものだ。祭りが始まる数日前に滞在したアグラやジャイプルの街角では至るところで爆竹が炸裂し、街を見下ろすホテルの屋上からは花火が上がっているのが見えた。これらの爆発物を買う際の制限などは全く無く、誰もがどこででも買え、祭りをひかえたインドの町々では多くの花火商人が店を開いていた。

いろいろある爆竹の中に遊び用とは思えない爆発力と炸裂音を持つものがある。その名も「アトム・ボム(原子爆弾)」。一ダース入りの箱にはその爆発に恐れおののいた男が悲鳴を上げている絵が印刷されている。ヤドヴ一家の近所では、帰省した20歳前後の若者たちが集まり、次から次へとこの大型爆竹を爆破させていた。その一つ一つが爆破する度に一帯の空気は異様な動きを見せる。他の爆竹や花火の音も重なってこの小さな街は市街戦の様相を呈していた。
その爆破現場のすぐ傍をたまたま歩いていたことがあった。その爆発力は私の服を翻し、髪や顔の皮をも一瞬揺るがせる威力を持っていて、耳鳴りは丸二日止むことが無かった。若者の一人が笑いながら話し掛けてきた。「アトム・ボムって言うんだ。凄いだろう?広島や長崎みたいにドカーン!ってね。」彼らは私が日本人であることを知っていたわけでもなく、また私を意図的に侮辱しようとしたわけでもない。若者たちはあくまでも無邪気に祭りを楽しんでいただけなのだ。

あの若者たちにとっては楽しいことなのかも知れないが、日本人の私にとって彼らの言葉は少々異なる印象を残す。私にはその異常にパワフルな「おもちゃ」を楽しいモノだとは思えず、第一どんな製品にそんな名前を付けて売るといくコンセプトが理解できない。最も、インド人は何かにつけて「インドでは全てが可能なのです」と言うのだが。そして本物の原子爆弾によって破壊された二つの都市に対する若者たちの無神経さにも畏怖を感じる。これがパキスタンと核兵器を競う仲にあるインドで若い世代が持つ原子爆弾についての認識なのだ。
インドの小さな街で体験した光の祭りは、インドの農家やごく普通の家庭生活を垣間見た貴重な体験だった。と同時に、この世界的な傾向の今と未来を考えさせられるものだった。「アトム・ボム」の爆発が夜遅くまで鳴り響く中、頭の中では連想が連想を生み私は早朝まで眠ることが出来なかった。
2004年10月06日
カオサン・ロードの今

カオサン・ロード。タイを訪れるトラベラーなら必ず一度は行くバンコックのスポットである。タイへ行ったことがない人も、アレックス・ガーランドの小説、「ザ・ビーチ」や、その映画化でレオナード・デカプリオ主演のハリウッド映画「ビーチ」のロケーションとしてご存じかも知れない。この通りはほんの2ブロックほどの短いもので、昼間は二車線の車道が走っており、夕方には歩行者天国となって街路そのものがクラブ化する。

道の両側にはホテル、ゲストハウス、レストラン、クラブ、コンビニ、土産店、旅行代理店、インターネットカフェ、本屋など、ありとあらゆるトラベラー対象のビジネスがぎっしりと建ち並んでいる。さらに土産物、食べ物、ドリンクを売る屋台が車道にまで溢れていて、その間を主に欧米人と日本人の旅行者たちが忙しく動き回っている。カオサンだけではなく、その周囲一帯も同じような様相だ。

以前、この場所は東南アジアやインドを旅する人々の休息地であり、情報交換の場であり、さらに必需品を補給する場所だった。いわば、バックパッカー天国であった。今は数日間のバケーションをタイで楽しむ旅行者たちがバンコック滞在の間に買い物やパーティーを楽しむ観光地であるという印象が強い。幸い今の所は団体客がバスで押し寄せることは無い。

この通りを闊歩する人々の多くはパックパッカー風にタイ、インド、ネパールのファッションとアクセサリーを身につけていて、見た目には観光客とバックパッカーの区別がつかない。彼らの本国では着るチャンスがまず無いようなフィッシャーマンズパンツ(タイの漁師が着るパンツ)は、カオサン・ロードでは定番中の定番で、まるでユニフォームのようだ。屋台でタイフードを買い、ビルの石段にずらりと並んで座って夕食を楽しむトラベラーのほぼ全員が色とりどりのフィッシャーマンズパンツを穿いている光景は珍しくない。ただ、今やここに集う人々の大半を占めるバケーショナーたちはどこかこざっぱりと清潔だ。
最近の変化を嘆くバックパッカーたちも居るだろうが、私は過去への執着は感じない。以前に比べて仲間同士、恋人同士で遊びに来ている現地のタイ人の若者たちが非常に多くなったのが目立つ。タイの人々はあくまでも観光客相手に商売する立場、欧米人や日本人は客、という方程式が一掃され対等に近い交流の場が生まれつつあるように思う。
2004年10月01日
バンコックの笑顔

タイは多くのトラベラーが訪れるだけでなく、周囲の国々を旅する人々にとって休息の一時を提供する所でもある。その理由には他国との交通が整っていることや、タイ国内での旅の便利さ、文化などもあるだろうが、タイの人々が生み出すある種の安心感が旅人を引き寄せているように思えてならない。昆明からわずか二時間弱でバンコックに到着した私たちは、瞬時にして肩の力が和らぐのを感じた。
この旅のオリジナルプランでは、この時期ここバンコックに来ることは計画してはいなかった。チベットからヒマラヤ越えでネパールに入り、さらに南下してインドへ向かう予定だった。ネパールには1999年に訪れて素晴らしい体験を得ることが出来たのだが、ネパールの不安定な情勢がその時の思い出にも影を落とす可能性があることと、チベット入境時には中国?ネパール国境が閉鎖されていたことなどから予定を変更、タイで一ヶ月過ごすことにしたのである。

バンコックに来たのはこれで四回目。最初は1996年、そして前回は五年前、ネパールからアメリカへ帰国する途上で一週間滞在した。そして今回、この街を徒歩やバスで回って感じたのは、バンコックは今やワールドクラスの都市に成長したという確信だった。
以前は真っ黒な噴煙をまき散らしながら走っていたタクシーやトゥクトゥク(三輪バイクタクシー)やトラックは、今は条例によって新しいマフラーの使用が義務づけられ、歩いていてもそれ程苦にならない。タクシーはほとんどが新しい車種でしかも冷房完備。以前は本物のブランド商品を売る店は少なく、しかもタイ人の客はごく稀だった。現地の人々は主に氾濫するブランド銘柄の海賊版を買っていた。今回驚いたのはショッピングセンターに本物のブランド商品が並び、一般のバンコック市民が客層を占めていることだ。(コピー商品が無くなったというわけでは決してないが。)

そしてビルの現代化と高層化は今も着々と進んでいる。街の衛生状況は向上しており、先日まで居た中国の主要都市に比べても明らかに勝っている。交通渋滞は相変わらずだが、前回は工事中だったBTSが走り、今年の八月には地下鉄も開通した。もちろん発展途上国と呼ばれる国の特徴も残ってはいるが、今はむしろそれが愛嬌のようにも感じてしまう。

しかしこの都市開発がもたらした変化は、現在世界中で行われている都市の現代化に比べると必ずしも急激なものではない。バンコックの場合、その変化はゆっくりと時間をかけて向上している印象がある。これは私たちが持つある種の偏見であろうか。そして何よりも現代化に伴うストレス度の上昇によって人々の顔が緊迫した頑なな表情に変わることはなく、このコスモポリタンに住むタイの人々は今も大きく、ゆったりとした笑顔を見せてくれるのである。今後、さらに現代化してゆく間も、タイの大きな魅力であるこの吸い込まれるような笑顔だけは残って欲しいと私たちは望んでいる。
2004年09月14日
赤い灯り

雲南省の麗江へは峨眉から中継点の挙枝花へ夜行寝台列車で向かい、さらにバスで8時間揺られて辿り着いた。麗江の旧市街はその風情ある街並みと1996年の震災でもその大部分が崩壊しなかったこの地方独特の堅固な家造りで知られ、峨眉山と同じくユネスコ世界遺産に指定されている。震災で崩れたのは新市街の建物がほとんどで、その後中国政府は旧市街の建築方法を取り入れて新たに開発に取り組んでいるほどだ。

雲南省の人口の五割は漢民族、その他はバラエティーに富んだ少数民族が共存している。高瀬川が流れる京都の木屋町を思わせる街並みを、それぞれ美しい民族衣装をまとった女性たちが歩き回るさまは、中国の膨大な文化背景をまざまざと感じさせる。旧市街の屋根屋根を見下ろす周囲の丘からの景観を目にすると中国の歴史を数百年遡ったような感覚に捕らわれる。夜になると無数の赤い提灯に灯りが点り、川の流れにも灯りが映っていかにもアジアらしい、由緒ある街の風情を見せる。

石敷きの歩道を歩くと、丘の上から見た旧市街とは全く別の顔が現れる。かつて歩道に面した古い家屋の一階は、生活必需品を売る店がぽつぽつとあっただけだった。今はそのほとんどがお土産屋、食堂、カフェ、ホテルや旅館になっていて、その前を観光客が群れを成して歩き回り、買い物をし、食事をするだけの街になっている。この状況を最初目の当たりにしたときは「何が世界遺産だ」と憤りさえ感じた。しかし、この変貌にはこの土地独自の理由があった。

麗江周辺の山々は、玉龍雪山、虎跳峡や中国政府が「正式に定めた」シャングリラなど素晴らしい自然と景観を持つほか、木材の産地として知られていた。しかし繰り返し発生する洪水と土砂崩れの原因は木々の過剰な伐採によるものだとされて以来、中国政府は木材産業をほぼ全面的に禁止し、逆に植林政策に転じたのである。その結果として起こった失業問題を解決するために麗江旧市街の観光開発を進めたというわけだ。
世界遺産に指定され、ワールドクラスの観光地となったこの街は中国の人々の誇りでもある。街を訪れる観光客はお土産を買い、民族衣装をまとった女性たちと記念スナップを撮って、夜は酒場通りで酔いしれる。絵葉書や写真集で見る古い白黒写真だけがこの街の真の美しさを物語っているように思う。
2004年08月26日
悲しいラサ

ラサは悲しい街だった。歴史上、チベット仏教の中心地そして聖地のひとつでもあるという事実は私たちの落ち込んだムードに何ら変化を及ぼすものではなかった。活気溢れる街ではある。チベットで最も聖なる寺院とされ、市内でも最大の大昭寺。その金色に輝く屋根を中心として、バルコール・コーラと呼ばれる巡礼の回路に沿った市場や商店街はチベット風の品々が売られ、常に賑わっている。

その直ぐ近くを走る主要路のひとつ、北京東路はラサの街を東西に貫く。路上には常にヤクのバター、羊の肉と内蔵、そして香の臭いが漂い、僧たちや物乞いが歩道脇に座り、路面にはゴミが散らばり立小便の跡が悪臭を放っている。ウランバートルの住宅街との共通点が多いのだ。しかしこれらの要素は、モンゴル人やチベット人など基本的に放牧民である人々が基本的に馴染めない定住地としての都市を形成する際に生まれる環境なのかも知れない。。
むしろ、私たちにとってこの街の印象を決定的なものとしたのはポタラ宮殿に向かい合う不必要に巨大な碑石にある文字だった。言うまでもなく中国中央政府によって建てられた真っ白な岩石のモニュメントにはこう書かれていた。「西蔵和平解放記念碑」。つまり、中国の人民解放軍によってチベットは悪しきダライ・ラマと彼を支える封建主義体制から解放され平和がもたらされたというわけだ。その前で軍服を着た中国軍兵士たちが記念写真を撮っているさまは正に「支配者」で象徴的だった。ポタラ宮殿を見上げる歩道正面の壁にはトウ小平前主席の生誕百年記念を祝うメッセージが掲げられ、その一つは「チベットの人民と共に祝い繁栄する」という内容だった。
1950年、中国赤軍がチベットを侵略し、ダライ・ラマ14世を始めとする10万人ものチベット人がインドへ亡命し、残ったチベット人のうち120万人が虐殺される前、ポタラ宮殿は数千の僧たちが住み、社会的、政治的な中心構造として活気溢れる「都市」だった。私たちが見たポタラは、数十人の僧または中国人が管理役を務める、ただの「中国政府戦利品博物館」に過ぎない。中国語、英語、日本語の他、主要言語で解説が聞ける音声ガイドの内容も、中国の歴史を誇るプロパガンダである(と、ヨーロッパ人のトラベラーから聞いたので私たちは使わなかった)。この壮大な建築物には生活の声も臭いもなく、私はポタラ宮殿は死んだと再確認せざるを得なかった。事実、歩道からは壁に遮られて見えないが、宮殿の屋上からはかつて僧たちや人々が住んだ家屋が廃墟となっているのが見える。これらも2008年オリンピックまでには新築の建物に変わっていく。
チベットとチベット仏教は今やグローバルな観光市場において名だたるブランドである。ご存じのように、チベット仏教、ダライ・ラマ14世、そしてチベットの風土に魅了される欧米人や日本人は多く、ラサ市内に滞在している外人訪問者の数もこのトレンドを反映していた。それに加えて高慢な支配者階級の中国人団体旅行者やアウトドア系の中国人学生が街を闊歩して、想像していた以上の賑わいを見せている。これら旅行者たちがチベットを訪れることで現地の人々の懐は潤うはずなのだが、そんな様子はあまり見られない。このようなラサの様子を見て思い浮かべたことがある。チベット人がたどった運命は、アメリカン・インディアンや日本のアイヌ人のそれと同じではないか。

このような環境の中でも変わらないのは仏教、ダライ・ラマ、そして神聖な山々と湖に対するチベット人の信仰の厚さだ。私はチベット仏教について詳しくは知らない。が、信仰だけは彼らの中で唯一の光として不変であると信じたい。
2004年08月05日
灰色の空の下で

「中国は凄い!」今年の春、義父は急速な成長度に近年さらに拍車がかかった中国の製造系産業の現状を視察し、帰還した後幾度もそう言った。超経済高度成長期を迎えたこの国の急激な変化は、タクシーで北京を数分走っただけで確かに見て取れる。視界に入る人間の数の多さも凄いが、建設中の高層ビルの多さも凄い。新しい自動車の数も凄い。街の人々の表情は一般的に明るく、笑顔や笑い声が歩道に溢れている。そして、これらの全てが巨大な灰色の空の下で蠢いている。それがウランバートルから汽車で北京に到着した直後の私の印象だった。
冷夏のヨーロッパやモンゴルの気候と異なり、北京の湿度は高く、スモッグを伴ってこの都市を覆う靄は視覚的に手のひらでも切れそうなほど重く分厚い。晴れた日の日中でも地上レベルの可視度は2キロあるかないかで、すぐ傍のビルでさえスモッグと靄の中で灰色に霞んで見える。この異様な空気の中を私たちは主に徒歩とタクシーで移動している。
北京での滞在予定は約二週間だが、リンが中央美術学院の生徒たちと共同製作を行うため、いわゆる観光のための時間は限られている。到着後の数日間、私たちは北京の主な観光名所を訪れた。歩くときは、なるべく主要道路を避けて「裏道」を探索する。観光スポットや新興中流階級が有名ブランド商品の消費に奔走する地域から外れると、人々の生活の姿が浮かび上がってくる。今のところどこへ行っても危なそうだとかいかがわしいという印象は全くない。そこはまた日本人としての私の世代にとっては懐かしさが凝縮された風景でもある。

近所のおじさんたちが将棋盤を挟んで縁台に座り、団扇を煽ぎながらビールを飲んでいるのを最後に見たのはいつだったか。夕暮れ時、あちこちの窓の奥から聞こえてくる炒め料理の音と香り。いたずら小僧どもに喚き散らす若い奥さん。井戸端会議に花を咲かせるおばさんたち。金魚売り、きりぎりす売りを見るのは一体何年振りだろう。

そんな街角の小さな公園を賑わせているのは主に中年以上の大人たちである。彼らはそこでグループになって太極拳、剣舞、扇舞、さらにはサルサで踊り、中国将棋やトランプを囲んで雑談に耽る。新興住宅地の周辺には西洋風にきれいにまとまった大きな公園もある。北京の人々はそのスペースを頻繁に利用していて、公共の公園という空間が無駄に感じるようなことはまず無いと言っていい。現在の北京では、このような情景を高層ビル建築現場の谷間で見ることになる。
ベルリンのギャラリーで中国の若手写真家たちが新旧混在する都市風景を描写したフォトを数点見た。私たちが見ている北京はそのような風景に満ちている。さらに、今や中国全土で同じようなことが起こっているのだと認識するに至って「なるほど、中国は凄い!」と言わざるを得ない。その一方で、この急激な発展が中国、さらに世界にどのような影響をもたらすかは今のところ想像の域を超えない。
2004年07月29日
草原を愛する人々

モンゴルの自然を要約するのは簡単である。天候は厳しい。土地のほとんどは草原か砂漠で、湖や川がいくつかある。そのような環境では、人々はお互いに助け合わなければ生き延びることは出来ない。以前お知らせしたウランバートルでの口論や喧嘩は、やはり街の生活の一部だというのが主な理由だろうと考えている。モンゴル人同志であれば、相手を知らなくても援助のてを差し伸べるのが彼らにとっては当たり前のことらしい。実際に私たちは、問題が多かったツアーの間に多くの人々に救われたのだ。
ツアーの初日、四回もあったパンクの三回は通りがかりの人々に助けてもらった。タイヤの修理店などは何もない草原や砂漠のまっただ中でスペアタイヤが無かったらどうするかと言えば、通りがかりの車やバイクに乗っている人々に何らかのサインを出して援助が必要だと訴えるしかないのである。親切な彼らは部品や道具、さらにはスペアタイヤを次の街まで貸してくれた。援助を求めた側は、持ち合わせがあればビール、ウオッカ、煙草や少々のキャッシュでお礼をするようだが、それは絶対必要なものではない。それどころか助ける側が援助の一環として飲み物や食べ物を分け与えるときもある。そして、パンクしたタイヤを囲んで何か楽しく話し合いながら修理を始める。そんなやりとりが交わされている間もお互いの名前を知らせることもない場合が多いそうだ。

モンゴルの自然、特に動物、草原、そして常に頭上に広がる大空は、常に人々の心の中にある。ウランバートルのような街に住む人々も、暇さえあれば草原に出かけたがる。それほどモンゴルの人々の草原に対する愛着は深い。一般に、土地は共有することが常識で、誰々所有の土地だから無断で入っては行けないということがない。だから草原の中を旅するときは、どこをどうやって走っても構わないし、キャンプする場合もどこでテントを張ってもいいわけだ。広大な土地の中を移動するときは、厳しい自然や安くて故障しやすいロシア製の車の品質などが手伝って常にトラブルが生じる。そのトラブルに対しての準備が不完全であれば、私たちのツアーのように立ち往生することになる。
彼らがお互いを助け合うことを常識とする態度の背後には、自然と土地を共有する一つの民族であるという自負があるのではないか。つまり、彼らが生きる環境そのものがモンゴル人としてのアイデンティティーになっている。モンゴルの国土が人々をつなぎ合わせている。人類学的な見地に立つとこのようなことは当たり前なのかも知れないが、世界の多くの国でそれが当たり前だとは言い難く、モンゴルの自然が全土を通じてほぼ一様であるという事実も相まって、このような例はむしろ稀だと考えられる。

モンゴルの将来については、フスタイ国立公園の管理スタッフの「モンゴルがアメリカのような発展を遂げることを望んではいるが、この草原だけは失いたくない」という言葉がとても印象に残っている。飽くなき開発と所有が日常であるアメリカの現状を知っている私たちには、草原を愛して已まないモンゴルの人々にとってそんなことが可能なのだろうか、と疑問に思えてならない。すでにウランバートルの郊外ではゲルの周りに木のフェンスを張り巡らせている光景が見られる。個人的には、草原を馬に乗って疾走するときの人々の誇りと笑顔を保つことが出来れば「アメリカのような発展」などどうでもいいと思う。もちろん、それは私たち外部者の勝手で一方的な思い込みに過ぎないのだが。
2004年07月20日
UBのインナーシティーライフ

市街を歩いてみる。外国人居住者たちの間で「UB」と呼ばれるこの街は、社会主義体制の廃墟がようやく活力を帯びてきたという印象がある。それでも基本的な社会構造には問題が多い。
第一、まともに歩ける道、あるいは真っ直ぐ運転できる道というものがあまり無い。道路や歩道に穴がぽっかり空いていて、車も人も迂回を繰り返すことが常である。雷雨の夜が明けた朝は至る所に大きな深い水溜まりが出来る。ゴミは平気で路上に捨てられる。大きな動物の骨が放置されて悪臭を伴うこともしばしばだ。真っ黒な排気ガスと砂塵で息が出来ない。マンホールがぽっかり空いていて、その中では男たちが朝っぱらから酒を飲んでいる。

ウランバートルという街のせいか、それとも肉の食い過ぎか、酒が入っているのか、男たちは非常に短気で、口論や暴力が至る所で見られる。主要道路の交差点で三人の運転手が車から出てきて三つどもえの喚き合い、そして殴り合い。昼間から酔っぱらった挙げ句、血まみれの顔でぶっ倒れている若者。女性への暴力や公然のセクハラも日常の出来事だ。
車の運転ともなると、男たちはあたかもティーンエイジャーが運転免許を取っていきなり何かの権力を獲得したかのような感覚で運転するものだから危険極まりない。見た限りでは信号の一部と一方通行以外に交通ルールは存在しない。歩行者を見ても一向にスピードを落とす気配がない。むしろ加速して威嚇しているようだ。従って、青信号だからと横断歩道に歩み出るのは命に関わる危険な行為に他ならない。

これも社会主義体制崩壊後、市場社会へと急激に変化している不安定な社会の仕業なのか、それとも彼らが誇りに思うチンギス・カン以来の力の伝統なのか。気のせいか、男たちはみんな肩を怒らせているように見える。
モンゴルでは高度な教育を受け、キャリアをもつ女性が増えているという。ロシア人が残していった汚染の一つであるウォッカに溺れ、家庭内でも暴力を振るう男たちに愛想を尽かし、彼女たちは一人歩きを始めた。彼女たちの間では離婚も稀ではない。
そんな環境の中で、多くの家族たちが平和に、賢明に生き延びている光景も見られる。長く暑い一日の終わり、日が沈んで涼しくなると、近所の家族たちが部屋から出てきてアパートの玄関前に集まって来る。彼らがお互いを見る眼差しには大らかな愛情が感じられ、言葉を理解出来ない私にも伝わってくる。特に子供たちに対しては誰の子供であっても優しく楽しく接する大人が多い。彼らの間では家族というものが至上の宝なのだろう。
この街のインナーシティーはこれらの全てが混在する一見不思議なスペースだ。が、一歩引いて考えると、先進国や発展途上国を問わず、これらの光景はどこの国にもあることに気づく。おそらく私が文化面での多少の違いに気をとられ、錯覚を起こしているだけに過ぎないのだろう。
それにしても、この生活の臭いが強くたちこめる街中に少々疲れてきたことも確かだ。だから広大な草原へ行く予定を立てている。草原のただ中に住む人々の生活には興味があるからか、それとも人間の生活から離れて、だだっ広い草原の真ん中に座って朝日と夕日と星を見たいからか。それ自体を解明するのが楽しみだ。
2004年06月26日
空虚な街

モスクワについて何を書こうかと考えたのだが、最初は何も浮かんでこなかった。全く無表情な外貨換金所の女性の顔と同じように。空港からホテルまでの送迎車を予約しておいたのだが、その運転手だけが初対面からとてもにこやかに歓迎してくれたのがむしろ異常とも言える表情だった。ロシアの人々は何らかのつながりが無いと表情を崩さないようだ。店員が接客する際もそれは変わらない。
この街について何をお伝えできるだろう。まず目に入ってくるのは、社会主義時代からの社会基盤が朽ちて、今のところ放置されている姿と、それに取って代わった典型的な資本主義の産物である。赤の広場に今も堂々と立つレーニンの墓碑の正面に、キリストのイコンに守られた巨大なショッピングモールが陣取っているのは皮肉としか言いようがない。ブランド商店が建ち並び、ブランド商品のいかにもロシア的に巨大な広告板がビルの側面を支配している。
モスクワの人々の身なりも、この新しい流れにちなんだものだ。特に女性のファッションに至っては、全身をブランド品で固め、しかも派手なカラーコーディネーションを目指すのがこの街ではスタンダードであるらしい。十センチほどのハイヒールも珍しくない。それはそれでいいのだろうが、それ以外のバリエーションが全く見当たらないのだ。一世紀もの間、社会主義体制に自由を拒まれた人々の反動なのか、マーケティングの妙技なのか。
今まで私たちがヨーロッパで注目してきたアート、特に現行のアートシーンはどこにも見当たらなかった。あるカフェでたまたま一人の若者がロンドンのアートスクールのパンフレットを見ていたのに気づき、お勧めのギャラリーの所在地を尋ねてみた。彼は苦笑しながら「モスクワでアートシーンを見つける事は困難だよ、」と答えた。彼がロンドンを目指すのも同じ理由だろう。
ロシアへ行くについては多くの人々から忠告を頂いた。ロシアはとても危ないところである、金目のものを人目に晒すと狙われる、観光客が乗る汽車は盗賊がガス弾を撃ち込んで身ぐるみ剥がすというから気をつけろ、などなどである。私たちの期待を裏切ったのは、少なくともモスクワの観光客が集まるような場所ではこれらの心配は無かったというポジティブな点だ。聞いていたソ連崩壊直後の状態からは明らかに向上されたようである。

市内では大規模な建設が行われている事が多く、赤の広場のすぐ隣でもかつては威容を誇っただろうホテル・モスクワの破壊工事が進められていた。実際に私たちが宿泊したホテル・ロシアも今年八月にはその三千部屋からなる巨大なビルの打ち壊しが決まっているという。グローバリゼーションが地球の隅々に行き渡ろうとする時代、モスクワはその巨大な姿を変えようとしている。その中にクリエイティブな活動が芽生え、アートシーンが花開くのはいつになるだろうか。
2004年06月21日
スイス人の誇り

「スイス人はとても『特別』なんだよ、」とカフェのオーナーは言った。バーゼルへ出発する前夜、ベルリンのある素敵なカフェにもう一度立ち寄った時だった。誇り高いスイス人を少々皮肉って表現したようである。私たちはバーゼルと、リヒテンシュタインとの国境沿いにある田舎町、ブークスに一週間滞在した。その間、私たちはスイスの人々はやはり特別だと感じたのだ。その感想に皮肉は込められていない。
この国が持っているのは、基本的に世界に知られる美しい風景だけである。資源と呼ぶべきものは木材以外にはない。彼らはスイスの国土を愛情をもって保護し、世代を通じてその価値を教育し、誇りとするに至ったのではないだろうか。もちろん、銀行や時計については誰もが知っている事実だが、それらは後に先見力ある国のリーダーたちによって戦略的に追加されたものだと考えられる。
今回訪れたブークスも雪を頂く山々に囲まれた美しい街だった。空気が美味い。小さな噴水が至る所にあって、街の人々はその水で喉を潤す。この水も冷たくて美味い。ここを訪れたのは、リンが地元の写真家、ジャック・レコウトレ氏とアート作品を一点共同製作するためである。

ジャックは、創作の間も私たちをアウトドアへと連れ出したかったらしく、二度ほど車でハイキングに連れて行ってくれた。実に美しい場所である。そんな場所へ行くのに街から車で坂をゆっくり登って三十分ほどしかからない。観光地化されていて幻滅することもない。あるのはアウトドアを楽しむ、主に地元の人々をビールとリンゴジュースとソーセージで歓迎する大きな屋台のようなレストランだけである。視界の内にあるものが、全て自然で健康で素晴らしく美しい。ジャックは、その森と牧場と小さな湖のある場所で育った。息子のヤンニックもジャックに連れられて毎週のようにハイキングをしながら育っている。
私たちがスイスの人々はやはり特別だと思ったのは、彼らの愛国心が国土とその自然への深い愛情を大前提としており、今もそれを貫こうとしていると感じたからだ。
そのスイス人も、現在のエネルギー資源やそれに関連する世界政治、地球温暖化などのグローバルな現象については極度に敏感である。思案深い表情でジャックは言った、「五十年後に石油は枯渇する。その時我々はどうするか・・・僕が最近絶えず考えているのはそのことなんだよ。」
2004年06月13日
ホーフカルチャー

ベルリンに漂う穏やかでホットなカルチャー。その源は一体どこか。
歩道や道路から見ると、ベルリンの建物は通常五階か六階建てで重厚な感じがするものが多い。ビル間に隙間が無く、継続して建てられている印象を与えるために、一角の建物がとても大きく感じられるのである。これらの連立したビルは一つの方形を成していて、その内側には大なり小なり必ずと言って良いほど共同の中庭、ドイツ語ではホーフと呼ばれる空間がある。
私たちが滞在しているアパートのそれはかなり広く、多くの木が茂り、子供たちのための公園があり、小さな芝生のスペースや、ちょっとした散歩道まである。このホーフはかなり大きな方であろう。

私たちの近所はシェーネハウザー・アレーという目抜き通りの周囲にあるクリエイティブな連中が集まる一帯である。この辺のホーフは、入り口にあまり目立たないサインがあればいい方で、一見胡散臭いものばかりだ。夜は奥へ行くまでのホールも暗い。私たちは、明るい間にそのいくつかを探索してみた。
小さなホーフは通常ただの玄関のようなスペースで、居住者の自転車置き場になっているようだった。ミドルサイズのものになると用途にもおもしろさが増す。一階の部屋を小さなシアターに改造し、ホーフが客を迎えるスペースになっているもの。ヨガやダンスレッスンへの入り口にベンチとテーブルが置いてあって誰もがリラックスできるような空間。レッスンを指導する人たちもそのビルのどこかに住んでいるのだろう。静かで誰もいないカフェ。あんなところも夏には繁盛するのだろうか。あるカフェのフライヤーにはあるバンドのCDリリースパーティーがどこかのホーフであると告知していた。通りに面した映画館の裏側にあるホーフは客が映画の前と終わった後でも楽しめるようなレストラン・カフェになっていた。
普段は扉が閉ざされ、向こうがどうなっているのか分からないようなホーフも必要に応じて公開されて何かのイベントに使われるような所もある。

一つのホーフから次へ、また次へと入って行けるような所もある。ベルリンの繁華街の一つ、ハッケシャー・マルクトにあるハッケシャー・ホーフはその規模の大きさと知名度の高さから言ってむしろ例外だ。このホーフは、ショッピングモールとエンターテイメントセンターが一カ所に集中したスポット。中には個人経営で優れたデザイナーのアトリエや店がある。ベルリナーたちは大いに利用しているようだが、観光用ガイドブックのお勧め欄には必ず紹介されているため、観光地になってもいるのが少々残念な気がする。
ホーフがベルリンの人々の文化を養う場となったのはごく最近のことではないだろう。しかし、東西が統合されてからのベルリンではその用途がさらにクリエイティブに拡張されていると感じる。未だ物価が比較的安いベルリンで、自由に創造することの新たな可能性を若いベルリナーたちにとってホーフは重要な開拓地なのかも知れない。
2004年06月11日
ベルリンのホットスポット

ベルリンに着いて五日間、私たちは滞在しているアパートの周囲一帯からあまり出ることなく過ごした。ベルリンの壁が崩壊する以前は東ベルリンだった所だ。この近所はカジュアルでトレンディー、またはファンキーなカフェからパンクが集まるヴェジタリアン・カフェ、ビアガーデン、ヘルスコンシャスでエスニック色も豊かなレストランの数々、インデペンデントのブティックやギャラリーが集中していて、なかなか面白い所なのだ。毎日、この近所のどこかで何かが行われている。私たちは着いたその日からすっかりここが気に入ってしまった。
若い世代を中心とした人々が住んでいて、彼らの表情は想像していた以上に明るく、フレンドリーである。春の日差しが射すと彼らはカフェの路上のテーブルに集まり、穏やかに微笑みながら静かに話をする。私は、パンクカフェのお兄ちゃんにさえも見られるこの穏やかさが大変気に入っている。もちろん誰もがそうであるわけではないのだが、例えば人出が多い週末の夜の路上や、DJがいる混んだカフェでも、この穏やかさが全体的なのだ。
ベルリンの人々の表情や態度の明るさや味わいのある穏やかさは、ベルリンの壁の崩壊後、表面に現れてきたものなのだろうと想像している。十九世紀半ばから戦争を続け、ドイツ帝国が成立し、第一次世界大戦を経験し、その大戦の莫大な代償を払って餓え、ヒットラーの独裁、敗戦、そして冷戦と百三十年にも及ぶ動乱の中で人々は苦しみ、生きのびた。この動乱の時代に生きたドイツの女流芸術家、ケーテ・コルヴィッツは一般人、特に貧しい人々の苦難を描いたのだが、第二次世界大戦終戦直前に亡くなった彼女の作品に笑顔は見られない。

ベルリンの壁の崩壊はほんの十数年前の出来事である。以来、ベルリンに留まった若者たちは、自分達が持つ自由を文字通りゆっくりと噛みしめながら彼ら独自のカルチャーを作り上げている。彼らの穏やかさは、一歩一歩自由であることと正しい道を歩いていることを確認しながら、味わいながらポジティブな未来へ向かっている事に原因があるのではないか。
めぼしい美術館やギャラリーを訪ねたり、心和むティーアガルテンに本とカメラを持って遊びに出かける以外は、このホットスポットを大いに楽しもうと考えている。戦勝の記念碑や僅かに残された壁を見に行くよりも、ベルリンの若者たちの今を体験する方がベルリンの今を見ることになるからだ。
2004年05月27日
スペインのリズム

スペインの生活のリズムに接するのはこれが初めてである。シエスタを理解するにはやはり土地の人々に尋ねるのが一番だ。が、アムステルダムと違って英語を話す人が圧倒的に少なく、この手の情報収集には手こずる。そこで、最初の二晩宿泊したHostal Hillを経営する日本人オーナーにお尋ねしてようやく分かったような気がするが実感としてはまだ定かではない。シエスタの時間帯には実際に昼寝をするわけではなく、ゆっくりと遅い昼食を食べ、友達や仕事仲間やご近所さんとだべりまくるのがほとんどなのだそうだ。この国の人々にとっては伝統的な生活様式だが、現代の知識によると栄養の点や夜の就寝前に最後の食事をする事などからあまり健康的ではないようだ。
日曜日の朝二時頃。土曜の夜の熱気はまだ冷めやらず、街にはまだたくさんの人が歩いていた。歩道では四歳くらいの子供を連れた家族が楽しそうにはしゃいでいる。この時間でも起きている子供達は元気がいい。旅行者の私たちとしては生活の時間帯を調整するのが必要だろう。

私たちが現在滞在しているのはアパートで、FCバルセロナの本拠地、カンプ・ノウ・スタジアムへは徒歩十分で行けるところにある。近くには小さな教会が二つあり、ヨーロッパのどの教会でもそうであるように、時刻に合わせて鐘が鳴る。本来はこの二つの鐘が同時に鳴るはずなのだろうが、そこに三、四分間のずれがあって、私はそのずれにバルセロナの中心からちょっと離れたこのご近所さんへの親しみを感じている。一ヶ月後に訪れる予定のスイスでは多分こんな事はないだろう。
アパートから路地を隔てたすぐ向かい側では高さ四階ほどのビルの建設中だ。朝八時頃からガンガンと騒がしくなる。目覚ましは不要だ。十時頃から朝食の食べ直しなのだろう、三十分以上は静かになる。そして午後一時を過ぎると夕方の四時頃までは現場には誰もいない。シエスタの後、一時間半ほど働いてその日の仕事は終わり。このビルが完成するのは一体いつになるのだろうか。ともかく、これがこの街の人々のペースだと思う。ちなみにアメリカ国籍の企業、例えばHewlett-Packardのバルセロナ支社ではシエスタは無いと聞いた。
太陽の光がいかにも地中海らしく眩しい。私たちはこれから十日間ほどをこの街で過ごすことになる。
2004年05月26日
簡単すぎる入国

バルセロナには予定より一日遅れて22日の夕方に到着した。まず空気の違いを肌で感じた。湿気が高く、もちろんアムステルダムよりは暖かいが、日が暮れてからの風はまだ肌寒い。
アムステルダムからはEU諸国間を割安で飛べるEasy Jetという航空社で飛んだ。ウェブと空港のカウンターのみでチケットを販売している小さな会社である。バルセロナに到着したということはスペインに入国するということになるわけだが、税関どころか入国審査も何もない。オランダ入国時には少なくともパスポートに「記念スタンプ」を押してくれた。今回はそんなスタンプの機会さえ無かった。

ヨーロッパ諸国を旅慣れておられる方々には何の不思議もない事なのかも知れない。しかしアメリカに住んでいる人間にとっては驚きなのだ。ましてやスペインでは二ヶ月ほど前にマドリッドでテロが起こったばかり。EU参加国オランダからのフライトだからと言ってしまえばそれまでだろうし、実際にそれが理由なのかも知れない。スペインがイラクに送った兵士達を撤退させたからもう心配は無いと考えたのだろうか。あれほどの被害を受け、僅か二ヶ月後には国外からの入国者達をチェックしていない事はある種のショックでさえある。それとも、Easy Jet社を始めEU圏内のフライトを予約した人々の背景情報はすでに全て厳密にチェックされ、安全な客だけが乗っていると確認済みなのだろうか。ちなみにパスポートを見せたのはチェックインと搭乗の際のみだった。
一方、そもそもこれが本来あるべき近隣国同士の理想的なあり方なのだろうと納得もする。ヨーロッパが進化している証拠でもあるのだろう。どちらにせよ確かなのはこれらの国の警戒に関する考え方や感じ方がアメリカとは全く異なっていることだ。
アメリカや日本の政府やマスコミがあれほど宣伝している恐れは、特にアメリカの空港で顕著に現れる。国内線でさえもその例外ではない。アメリカ国民は「お国の安全のためだから」とただただ無言で、時にはブッシュ大統領への忠誠の表現なのであろうか、誇らしげにベルトを外し、靴を脱ぎ、ノートパソコンやPDAのスイッチを入れて武器ではないことを示し、自分達がテロリストではないことを証明するのである。
スペイン人は何を「恐れていない」のだろう?
2004年05月14日
Keizersgrachtで

トム・キーが台北へと発つ前に、彼はKeizersgrachtにあるフラットの鍵をくれた。この街に滞在する間彼の部屋を使わせてくれることになったのだ。地元の人たちと観光客両方で賑わうLeidse Pleinから徒歩三分にあり、必要なものは全て周囲で見つかる便利さに恵まれ、建物のドアの前に運河がゆったりと揺れる絶好のロケーション。洗濯機、乾燥機、バスタブ、キッチンが完備されトムが設置したワイヤレスのネットアクセスまである。貧乏旅行者には嬉しい限りだ。 Bed & Coffeeから移ってきた私たちは、さっそくこの新しい環境を楽しみ始めた。
私たちのサンフランシスコ・ベイエリアでの生活は忙しい毎日だがきわめて単純なものである。コンサートには頻繁に出かけ、友人達との付き合いも忙しいほどなのだが、アメリカでの中流階級の一般家庭が住む住宅街の生活はとかく行動範囲が狭いものなのだ。こうして全く異なった環境に居ると、それを実感させられる。愚かにもアメリカや日本との生活の違いなどを書き留めようとしたところで、アメリカや日本の生活そのものに対する理解の限界を思い知らされるのである。例えば、オランダ人の週末の過ごし方などを観察するにしても、私たちには子供が居ないので子供連れの家族の行動などとは比較する術がない。
トムによると、オランダ人は金曜日の夜と土曜日は友達と遊ぶのが普通だが、日曜日はほぼ家族と一緒に過ごすというのが習慣なのだそうである。Ajax Amsterdamの試合があった日曜も、家族連れはとても多かった。クラブによっては独り者やオランダ語を流暢に話せない人は入場お断りのところがあり、有名なクラブもその例外ではないものがあるという。アメリカではこのような差別的な行動は表面的には法律で規制されている。

アムステルダムは外来者達には非常にオープンである。街全体がオランダの外からやって来る人々で溢れ、人種差別も全く感じられない。それだけに言語を始めとする文化や血統の保存は困難かも知れない。オランダ人の、一定の時間を設けてオランダの純粋な文化を守ろうとする姿勢が日曜日の過ごし方に現れているのではないかとふと思った。
曇り空の日が続き、風もまだ冷たい。それでも運河では水鳥たちが停泊しているボートの間に巣を作り、卵を暖めていたり小鳥を連れ出したりしている。
2004年05月08日
アムステルダムを歩く

私がサンフランシスコと同じく愛するアムステルダムに到着して最初の数日は何もしない、というのが私たちの計画だった。国立美術館とゴッホ美術館に近い安宿Bed & Coffeeにチェックインした後、私たちはすぐ仮眠を摂った。通常の観光旅行と違って一日の過ごし方にプレッシャーがかからないというのは大きな利点だと実感した。私たちは観光スポットから離れた静かな道を水路に沿ってゆっくりと歩いた。バスを連ねてやってくる大勢の観光客と並んで歩く気には到底なれなかったのだ。そして、市民にとってのアムステルダムは、例えばアンネ・フランクの家からほんの一筋離れた道にその本当の情緒を醸し出す。
そんな道に、そして大通りにさえも私たちは個人所有の商店、つまりおじさんとおばさんが二人で営業しているような店がしっかりと、そして静かに繁盛している状況を見ることが出来た。日本では大都市でも珍しくない光景なのだが、現在のアメリカでは探さないと見ることが出来ないものなのである。つまり、一般にアメリカ経済のバックボーンと政治家が口癖のように言う市民によって経営されているビジネスは大手企業の暴力的とも言える力によって危機に瀕しているのだ。どこへ行っても看板やサインにはお馴染みのブランドネームしか見当たらなくなった。つい先日にも私たちはカリフォルニアからアリゾナへとドライブし、その光景を目の当たりにしたばかりだった。
アムステルダムのセントラール(中心街)では個人経営の商店やビジネスが活発に商売が出来ている。時にはオーナー達の笑い声があり、時にはひっそりと静かに接客している。生身の人がやっている商売だ、という嬉しい印象がそこにはあって親しみを感じるのは即時的だ。時差ぼけでぼーっとしている頭ででさえこの街の雰囲気に馴染めやすいのはそんな光景があるからだ。

スキッポル空港での観察。オランダという国がフレンドリーに受け入れてくれることは過去二度の経験で分かっていたが、今の世界状況であれほどまでにオープンだとは想像もしなかったことだ。飛行機を歩み出てから、アムステルダムのセントラルステーションまでの電車の切符を買うまで僅か20分。「旅行目的は何ですか?」とも訊かれなければ「滞在期間は?」も無い。私たちはただ旅券監査員にお早うを言ってパスポートを提出しただけである。監査員は私が日本のパスポートを持つアメリカの永住外国人であることを確認することだけはわすれなかったが。私たちの荷物に至っては誰も見ようとも触ろうともしなかった。
オランダの人々は一体何を「恐れていない」のだろう?
