2005年04月13日
新年水掛祭り

タイの4月は夏の到来と共に新年も迎える。新年の行事は「ソングクラン」と呼ばれ、3日間の祝いに国中が沸き立つ。この休日の間、タイの人々は寺院に参拝して健康と商売繁盛を祈り、家族や友人たちと過ごし、旧年の罪を国中で行われる水掛祭りで祝う。お互いに水を掛け合い、タルカムパウダーのペーストを顔に塗り合うのが習慣だ。街を歩くだけで全身びしょ濡れになるのは当たり前だが、一年を通じて最も暑いシーズンにふさわしく、汗を流し涼むことが出来る点では歓迎すべきことだろう。
国中で水を掛け合いながら新年を祝う習慣はここタイだけではなくラオス、ミャンマー、カンボジアなど、主に仏教国で広く見られるものだ。まず寺院に参拝し、家族と静かな一時を過ごした後は皆が水掛けに熱中する。私たちにとってすでに親しみ深くなったバンコック市内このご近所もその例外ではない。

水鉄砲はソングクランの初日である4月13日の数週間前からすでに商店に出回り始める。子供たちはその初日を心待ちにしていた。大人たちも自ら参加し、路上に大きなバケツを並べて水で満たし氷を入れて「攻撃準備態勢」を整える。そして友人や近所の顔なじみがいつ訪れてもいいように、大量の食べ物と飲み物を用意する。

バンガルンプー街の中心にそびえる戦勝記念碑ではバンコック市役所が照明、色彩、音楽で美しい装飾を施した噴水を設置していた。テーマは水の守護神である聖なる蛇、ナガ。大きな蓮の花がその周囲にあしらわれている。ファンファーレの音楽が大音量で鳴り響き、カラフルな照明が飛び交う中、噴水が全体に動きを加えて、新年を迎える準備に忙しいバンコックの人々を魅了する。彼らはスペクタクルを繰り広げる噴水の周囲に集まり、興奮を高まらせている。この他にもバンコックの至るところで市によってオーガナイズされたイベントが行われ、料理、舞踏、音楽などタイ伝統の文化を披露していた。

4月13日の朝は静かに明けた。が、正午までには近所一帯が喜々とした叫び声と笑い声に満ち、人々は水戦争のまっただ中にあった。カラオケマシンが路上に置かれ、すでに酔いの回った若者たちがタイや欧米のポップソングを熱唱する。スピーカーを歩道に持ち出してヘビメタ、タイの民謡、ヒットソングなどを休むことなく大音量で流す連中もいる。この道路全体がありとあらゆる音で振動していた。蛇口からホースを引き、液体の砲弾を大きなバケツに詰め込んで補充は絶えることなく行う。その横にはいくつものテーブルに大量の食べ物とドリンクが置かれていた。

最初は誰もが例外なくずぶ濡れになるのだろうと思い、いつどこから氷で冷やした冷水を浴びるかと警戒したものだった。時間が経つにつれて路上の状況がかなりエスカレートするのではないかとも考えた。しかしタイ人はその点よく心得たもので、一見混乱した祝いの中でも基本的なルールだけは忘れることがなかった。安全なゲストハウスのダイニングエリアから見ていると、想像していたよりもはるかに礼儀正しくお互いを扱っている。お年寄りや僧たちには必ず合掌しながら新年の挨拶を送り、許可を得てから差し出された手の上に水を掛ける。水を掛けられた人の中には伝統的な新年の挨拶を感謝する者もいる。大騒ぎの中をバックパックを担いで到着したトラベラーたちも水をかぶることはなかった。もちろん、彼らがゲストハウスにチェックインして一息つくまでのことだが。水掛けとタルカムパウダーは路上だけのものであって、家の中や食べ物を売る屋台には影響を与えないこともわかった。

この近所の人々全てが水掛けに参加していた。他のご近所から「兵士」と「砲弾」をトラックの後ろに載せて攻撃に出るものもいる。ゆっくりと走るトラックが通るたびに大量の水が飛び交い、フレンドリーな応酬の中、路上は屈託のない笑顔と大きな笑い声で一杯になる。最初はただの傍観者だった私たちも我慢できず、水着に着替えて参戦した。ゲストハウスのスタッフ、いつも道の向かい側で料理を作ってくれる屋台の女の子たちを始め、通行人や見覚えのある近所の人たちと早速水を掛け合って瞬時にしてびしょ濡れになる。不意をつかれてタルカムパウダーを顔中に塗りたくられることもしばしばだ。淡い線香のような香りと肌に涼しい感触が嬉しい。近所をただ歩いている人たちも含め、いつしか皆が雨に濡れた部族集団のような様相を呈していた。タイに新年がやってきた。
2005年04月04日
砂塵の彼方へ

シエムリープの4月は耐え難い乾燥した猛暑に覆われていた。町の道路は埃っぽくて汚い。路上に住む子供たちがそれを如実に反映していた。赤ん坊を抱えた母親たちは観光客が集まるレストランの直ぐ前に立って小銭をせがむ。この町の人々は皆どこかとげのある態度を持っていた。暗い過去を背負った国が未だに漂わせるムードなのか、それとも継続的な貧困のせいなのか。4月を迎え、この町の観光シーズンは終わろうとしていて、高級ホテルの窓のほとんどに灯りが点ることはない。観光市場向けのサービスは欧米、日本対応の価格で高い。現地の人々が立ち寄る屋台さえもが外人用の値段表を用意している。私たちはこの町に着いたばかりなのだが、この町とはどうも相性が悪いようだ。

ここに来た理由はもちろん世界の7大驚異のひとつ、アンコール・ワットである。バンコックには幾度も訪れてきたにもかかわらず、タイの近隣国であるカンボジアまで足を延ばしたことはなかったが、今回ここを訪れることは私たちの計画中でも優先度の高い訪問だったのだ。バンコックからシエムリープへ向かうには飛行機で飛ぶのが簡単(お勧め!)だが、そうしなかった私たちにはここから再びバンコックへと戻る旅程を残しており、それを考えただけでも意気消沈するような、地獄のような行程でここへやって来たのである。
お世辞にも楽しいとは言えないバンコックからシエムリープへの旅は、しかし、安かった。片道5ドル以下なのだ。飛行機の場合は一人当たり往復200ドルかかる。格安とあって時間のかかることと乗り心地の悪い点については天下一品だった。バンコックを発ってタイとカンボジアの国境町、ポイペットに着くまではタイの現代的なハイウエーのお陰で楽な旅だった。ドラえもんが大きく描かれたエアコン着きバスが、ナンバープレートの更新をしていなかったために警察に止められるというハプニングはあったものの、すんなり国境に到着。出発してから僅か5時間だった。

タイ出国、カンボジア入国の手続きは幸いにも1時間ほどで完了し、フレンドリーなタイ人の運転手にさよならを言ってカンボジアに入った。が、そこで全てががらりと変わる。カンボジア側の世話人は、理由もなく苛立ち、怒り心頭に走った男で、そんなにこの仕事が嫌ならさっさと辞めろと言いたくなった。その男は、聞き取りにくい英語を大声で喚き散らしながら、入国したわれわれ外人グループを集め、そして暫く待たせた後でシエムリープ行きのポンコツのミニバスに私たちを押し込んだ。ヘッドライトとブレーキが機能していたのが不幸中の幸いだった。道路は舗装工事を途中で辞めてしまったような酷い状態で、視界が常にブレ続け路上の土埃で呼吸が出来ない有様は正にモンゴルの悪夢の再現だったと言える。窓の外には広大で平坦な農期が終わった畑が延々と広がり、あると言えばほんのまばらに点在する農家と木が淋しそうに立っているだけだ。
一方、運転手は乗客の印象などに構ってはいない。彼(またはカンボジア側の旅行会社)の意図はシエムリープに可能な限り遅く着くことなのだ。出発して僅か1時間後には平原のただ中にあるレストランで停車し、彼は一時の仮眠と休憩をとる。その2時間後、小さな集落で再び停車。道路に面している全てのものが砂埃に分厚く覆われているような村だった。バスが止まると同時に若い女の子たちが絵葉書、フレンドシップ・ブレスレット、冷たい飲み物などを掲げて私たちを取り囲む。表面的には欧米人と楽しく英会話のレッスンを交わし、笑い声を上げる彼女たちだったが、何も売れないと分かるとその笑顔が歪むのも早かった。
シエムリープにようやく着いた頃には私たちは疲労困憊していた。14時間の旅の終着点は、前もって話が付いているゲストハウスだった。疲労のあまりそこに泊まる乗客を想定してのことで、運転手のコミッション目当てが理由だ。一応部屋は見せてもらったが、案の定高いレートを理由に丁重にお断りして暗い町へと向かう。夜も9時を過ぎ、タイ側で昼食を食べてからは何も食べていない。長い旅の後、何も知らない町でその夜の宿を探すのは常に憂鬱なものだ。が、その一方でシエムリープの観光開発は過剰で選択肢には事欠かなかった。

何も良いところがないような町だが、そんなところでもほのかな希望はある。ここにはカマー・ルージュの虐殺を逃れた孤児や彼らの子供たちが集団生活するコミュニティーがある。町の郊外にはキリング・フィールド記念公園とそれを囲む寺院があり、それに寄り添いながら癒されているようにその集落はひっそりとたたずんでいた。そこに住む人々は貧しく、掘っ建て小屋に住みながらも、何とか生き抜こうとしているようだった。何千という地雷が今も武装解除され続けている国の現実だ。ここでは、僧や外来のヴォランティアたちが、語学力が少しでも彼らの将来に役立つようにと子供たちに英語、日本語、フランス語などを教えている。この町独特の苛立たしさは別として、カンボジアは深い傷とトラウマを振り切ろうともがいているように思う。このコミュニティーはそんな姿勢の一例のように見えた。

事実、カンボジア全般は出会う旅人たちの間では非常に良い。「東南アジアの隠された宝」と呼ぶ人もいる。シエムリープに蔓延する観光開発や個人旅行者たちへの町の扱いなどで苦い思いをしている私たちにとって、今回この国の他の場所を訪れることが出来ないのが残念でならない。果たしてそれ程までの疲労とフラストレーションを感じながら、ここへの旅は価値があるものだったのだろうか?と自問することもあるほどだが、その答えは「アンコール・ワットはそれでも素晴らしい!」なのである。どのように素晴らしかったのかは、別の機会(フュージョン・ジャーナル第6号)でお知らせすることになるだろう。
2005年03月03日
なぁんにも無い町

ラオスのチャンパサックは本当に何もないところだ。歩いているだけでも眠気を誘うこの町は、ゆったりしながらも力強いメコン川に静かに寄り添うように、ある。そのメインストリート(と言ってもそれしか道らしい道はないのだが)は川と並行に通り、その両側には伝統的な木造高床式の家々、植民地時代に建てられたフランス風のヴィラが数戸、それにレストラン、ゲストハウス、町の人々が通うシンプルな商店が数軒あるだけだ。この町の中心から8キロ南に世界遺産のワット・プー・チャンパサックがある。この寺院はアンコールの時代に建設されたもので、そこからは遙か南方のアンコール・ワットへ続く道が延びている。しかし、あのカンボジアの大寺院のスケールとは比較する術もなく、ここを訪れる人々は数少なく、やって来たとしても長く滞在することはない。

到着したとき、近所の子供たちが私たちを見てクスクス笑っていたが、ジロジロ見ることも畳みかけるような挨拶の嵐も無かった。ただ目が合って遊びのような相互認識を交わしただけで、我々はすでに友達になっていた。彼らは、メコン川を見下ろす庭の真ん中に立っている大きなマンゴーの木に集まる虫を追いかけていたところだった。彼らが振り回す竹の棒で届くか届かないかという高さまで枝が下りてきていて、その枝をようやく叩くと周辺に留まっていた小さな薄緑色の虫が飛び回る。子供たちは笑い声をあげその小さなぶんぶんを追いかけて走り回る。最初はそのうちの何人かが持っていたペットボトルに捕まえた虫を集めているのだろうと思っていたのだが、私たちの目の前で彼らはその虫の堅い羽をむしり取り、ポイッと口の中に放り込んで、まるでマーブルチョコレートを食べるようにガリガリと美味しそうに食べた。
この国の実にゆったりゆっくりペースの生活や食事にはあまり期待できないことなどについては、ラオス入国前に出会った多くのトラベラー達から聞き及んではいた。入国後最初に滞在したここチャンパサックでその情報は確かなものだったことを確認した後は、そのペースに合わせて子供達と遊び、読書に専念することにした。食事は、ある若い日本人バックパッカーが「飯が不味い!」と表現したとおりである。世界に著名なエスニック料理というものはおそらくすでに出揃っているのだろうが、「行きつけのラオス料理の店」などというものは聞いたこともないし、私自身見たことがない。

ゲストハウスの前を通る「メインストリート」では自転車や原チャリが時々走るだけで自動車が行き交うのはまれである。その他に耳に入ってくる音と言えば赤ん坊の泣き声、子供達の笑い声、ニワトリやアヒル、セミの鳴き声、川を走るボートのエンジン、そして雨と風、といった具合だ。何しろラオスに入ってからと言うもの、今までの旅で多少なりとも常に感じる緊迫感というものが全くない。あったとすれば国境を越えた直後についた町、パクセで乗っていたロット・ドイサーン(トラックバス)に若い男が乗り込んできて、私たちの荷物をさっさと自分のトゥクトゥクに載せ、「あんたら、どこいくねん?」とせっかちに訊いてきたときくらいなものだ。ここにいると、あのことさえももう何日も前のことのように思えてしまう。

借りた原チャリを駆ってワット・プーへ行くことは簡単なことだった。道一本、しかも注意を払うべきものが周囲に何もない。私たちがいるメコン川の西側には収穫を終えた米畑が金色に染まって広がっている。ゆったりとした丘陵が徐々に高さを増しながら、靄がかった暑い大気の中に横たわる山々のブルーと灰色のシルエットの中に溶け込んでいる。廃墟となったこの寺院はそんななだらかな丘の中腹に残されていた。一般には仏教寺院とはされているが、ヒンズー教ゆかりの神々やシンボルもそこここに見られる。砂岩に彫り込まれた形象は消えてゆこうとしている。しかし神々の表情は明らかにアンコール様式で、穏やかな微笑を含む分厚い唇と伏せた眼差しが印象的だ。仏の表情はタイのそれに酷似している。アンコール・ワットのような目を見張るようなオブジェや景観はここには無いが、それと同じ様式の建築や美術への静かなイントロであったかも知れない。

ワット・プーを訪れ、町へゆっくりと帰ってくるのに半日もかからなかった。時間つぶしにもならない。「さて、これからどうする?子供達と遊ぶか、昼寝をするか、本を読むか。」思いつくのはそれだけだった。そんな場所で2、3日を過ごすと、「私はやはり現代社会の産物なのだ」と考えざるを得なくなる。「何もせず、休養し、何も考えずにリラックスする」ための手段を持たないのだ。「仕事のやりすぎは頭のために良くない」と人々が考え、忙しい人たちを心から可哀想に思うというのが国民性だとされるこの国で、私たちはゆったりと時間を過ごす能力を試されているような気持ちである。将来ラオスを訪れようと考えている読者へアドバイス。読みたい本をどっさりと持参すること。(日本語の本を扱っているブックストアは無いと考えていい。)ヨガ用のマットもきっと役に立つだろう。
2005年01月12日
マラリア体験

カルナタカ州のマイソールにあるJSS病院に入院していた。コチで刺された蚊が原因でマラリアにかかってしまったからだ。コチは歴史的な魅力やカルチャーがある街だが、下水、ドブ水や汚水の水溜まりが臭い非常に蚊が多いところだ。1月3日の夜行列車でコチを出発した。発車時間を待つ間も身体がだるく熱っぽくもあったのだが感冒か何かだろうかとしか考えていなかった。列車は冷房車だったにもかかわらず寝ている間に大量の汗をかいた。翌朝マングロア着、駅から市内へはオートリクショーで入り、さらにバスに乗り換えハサーンを経てほぼ一日がかりでベルールという小さな町に到着した。宿にチェックインした時点で頭が重く、寒気も少々感じるようになっていた。
感冒による節々の痛み、熱、寒気などの症状は今までに何度も体験しているが、旅先での病気ということもあり、大事をとって宿泊したホテルのすぐ傍にある医療所で診察を受ける。結果はマラリアの心配はなく、感冒か慣れない天候や悪い水などによる熱だということで、2日分の解熱剤と抗生物質を処方してもらった。実際には何が原因で、どんな病気なのかは、あの医師には分からなかったようだった。この小さな町の医療所では診察料は無料である。診察を受けている人々は皆貧しい人たちで、無料診察を受けるために長い間順番を待つ。彼らは薬代だけは払わなければならないが、それでも国民保険か何かのシステムで全額払うことはないようだった。ちなみに処方してもらった解熱剤と抗生物質3日分は52ルピー、日本円で150円にも満たない。
ベルールで滞在する間、この体調であまり外出することが出来なかったが、6日の朝、熱が下がったのをみて石彫刻が素晴らしいチャンネケシャヴァ寺院を訪れた。しかし、解熱剤が切れると感じる悪寒はますますひどくなり、熱も39度を上回るようになってしまった。この病状悪化の様子でこれがただの感冒や気候、さらには悪い水によるものという単純なものではなさそうだ。この町の医師の診察では心許ないという結論に達し、翌日7日の朝、リンが車をチャーターしてカルナタカ州南部にあるマイソールへ至急向かうことに決めた。マイソールは病院の設備が整った中堅サイズの街の中で最も近距離にあったからである。4時間のドライブの間にも極度の悪寒に襲われ、車を止めて強烈な日差しの中で「暖を摂る」場面もあった。

マイソールには政府経営の大きな病院があり、まずそこへ行くことにした。その病院に乗り付けたのが午後1時。受付では登録料10ルピーを払って診察カードなるものを作ったのだが、午後1時から2時までは急患の部署も「お昼休み」で受け付けてはくれなかった。この事自体想像の域を超えた病院運営である。しかも、居合わせた若い医師が言うには「JSSという病院の方が良い治療を受けられるよ。」いかにも「インド政府経営病院」といった感じで呆れてものが言えない。JSS病院は幸いそこから直ぐ近くにあり、早速急患診察所に入った。ERのベッドの横たわって測った体温は40度を越える高熱となっており、私が外人であることも手伝ってか医師たちもさすがにまともに対処する気になったようで、体調が崩れ始めてからの経過を何度も尋ねた後、早速点滴を開始し、解熱剤を注射し、さらにてきぱきと診察と治療のプランを立てていた。
JSS病院はいわゆる医科大付属病院で、したがって診察に当たっている医師や看護婦にはインターンが多い。私の診察はインターンから医学部博士課程の大学院生へと引き継がれ、遂に大学教授まで達することになった。教授は直ちに入院手続きをとり、血液検査を行うよう助手に伝えた。入院手続きはこれもインドらしく書類記入や誰かの承認が必要だったりで、個室の病室に入るまでにはかなりの時間を要した。検査のための採血もしたのだが、病院内の検査では時間がかかり過ぎるということでマイソール市内にある専門のラボで検査を行うことになった。感情を表情に出さない神経質そうな大学院生が彼の車で街のラボへと連れて行ってくれ、再度採血してからわずか20分後、マラリアの陽性反応が判明。病室に帰ってから即刻点滴に抗マラリア薬を混入した治療を開始した。治療期間は5日間。「速攻治療」ということだった。

教授を囲むインターンや医師たちはそれぞれ内科、医薬、伝染病などの分野での専門家たちで、皆優秀で確かな知識も持っているようだった。この専門家のグループは教授を囲んで意見の交換を行い、治療方法の詳細を確認し合い、そして教授を最終的な決定者として実際の治療を進行させる。あの無表情で神経質そうな大学院生は、インドの医者は途上国には、普段西洋の医者たちが見ることもない多岐に広がる健康衛生問題や病状と常に対処しているため、西洋の医者たちよりも経験を積んでいると言っていた。
看護婦たちは全く別問題である。彼女たちが親切でフレンドリーなのは助かることは確かなのだが、医師たちが指示した治療を実際に患者に施すのは彼女たちで、これがかなり適当で時には医師の指示を誤解していたこともあったりした。点滴針を挿入するときも血管に的中せず、何度も失敗するのには苛立ったし、正しい薬の服用回数や時間帯などについても何度も問いたださなければ正確な答えが返ってこない。従って看護婦たちの治療は毎回注意してフォローしなければならなかった。
病室は狭く、お世辞にも清潔とは言えない。専用のトイレ付きバスルームの清掃は頻繁には行うが、水と汚れた雑巾、木の枝を束ねたほうきを使って掃除するだけで消毒はしていない。バスルームの天井からは何か液体が落ちてきていて、まるでどこかの鍾乳洞のように床の数カ所で蓄積している。大きなゴキブリが這い回る。蚊も入ってくる。マラリアの治療を受ける病室で蚊の心配をしなければならないところが正にインドである。蚊取り線香は配布してくれたが。廊下には「静粛に!」と看板があるが、インドでは静粛なところなどは存在しない。患者の咳き込む声やうめき声、生まれたばかりの赤ん坊の泣き声、廊下で井戸端会議に熱中する人たちなどで一日中やかましい。

食事は出ない。従って食事は外から持ち込むか近所の食堂へ外食しに行くしか方法はない。さらに点滴、点滴用機材、注射セットから服用薬に至るまで、医師の指示に従って全て自分で付属薬局へ行って購入しなければならない。当然これらの雑用は患者の家族の仕事となる。看護婦たちは患者が自ら買ってきたものを使って治療に使うのである。私の場合、リンが同じ部屋に滞在することが出来、これらの雑用をこなしてくれたのが不幸中の幸いだった。一人旅でこのような状況に置かれたトラベラーたちは一体どうしているのだろうか、と考えてしまう。
抗マラリア薬の点滴を始めて直ぐに熱が下がった。この点滴による治療に3日を費やし、さらに念のため2日間服用薬で血液中のマラリア全滅を図る。教授を始めとするスタッフチームは毎朝10時頃さっそうとやって来て体温、脈拍、血圧のデータを確認し、看護婦から治療経過の報告を受け、指示を与える。そして入院5日目、血液検査を再度行った。その結果、マラリアの陰性反応が確認できた。12日の朝、教授はその結果を見たうえで退院許可をくれた。教授と彼の生徒たちによる診断と治療は非常に的確でスピーディーだが、入院や退院の際の手続きはいかにもインドらしくじれったいことこの上ない。退院手続きだけに約3時間待たされた。
JSS病院は医大と訓練校も兼ねた施設であるため、診察、治療、入院のコストはかなり低い。そのため、患者たちは一般に貧しい人たちが多い。個室の場合、入院費は個室で一日250ルピーと安いことは確かだが、入院手続きの際に2000ルピーの前払いをしなければならない。この前払いが出来るか出来ないかでどの病室に入るかが決まるようだ。後に聞いた話では、マイソールには全般的により良い環境が整った病院が何件もあるそうだが、治療費は5倍するらしい。

今回マラリアの治療にかかった診察費、治療費、血液検査、薬代、個室での入院費などを含めた全ての経費は250ドルに満たなかった。JSS病院には清潔で蚊のいない病室や現代の最新医学技術があるわけではなく、看護婦も非常に頼りない。反面、適切で民主主義的な医師の診察と治療は先進国の病院と同じであろう。アメリカでは一般消費者が負わなければならない医薬品のコストの高さが大きな社会問題になっている。健康保険費がべらぼうに高く、それに加えて実際の治療費もさらに高いという現状は、アメリカ市民の多くが医療制度の恩恵を受けることが出来ないといった「先進国」にはあるまじき現象を生んでいる。インドでも将来は医療コストが大幅に上昇するとは聞いているが、現在はベルールのような小さな町でも(たとえ誤診するような医師でも)人々が容易に診察や治療を受けることが出来るのだ。
インドでの入院経験など自慢にもならないし、決して心地の良い体験ではなかったのも事実だ。が、無事回復した今、通常決して見ることのないインドの側面を垣間見ることが出来たのは思いも掛けない貴重な経験と言えるかも知れない。
2005年01月02日
燃えるサンタ

2005年はインド南部ケララ州のコチ(またはコーチン)で迎えることになった。この島上の街は、16世紀、ポルトガル、オランダ、イギリスなどのヨーロッパ諸国が植民地政策を掲げてインド西岸へと進出し始めた頃に築かれ、様々な西洋文化の名残が今も市内に多く見られる。本土側にあるエルナクラムという街から大きな川と海峡を渡る二つの橋を隔てたわずか9平方キロメートルの島にあるコチには、ヨーロッパ諸国によって建設された要塞やオランダ風宮殿を始め、海岸に沿って中国様式の網、カテドラルやシナゴーグが、ヒンズー寺院とモスクと共に点在しているのである。シナゴーグ周辺のユダヤ人街にはユダヤ系のインド人が今も彼ら伝統の生活を営んでいる。小さな島のメルティングポット。歴史の流れが織り込んだ多国籍文化のマイクロコズムだ。

私たちがコチに着いたのは津波が起こってから2日目の午後だった。エルナクラムとコチ一帯での被害は最小限だったようだが、ここから直ぐ北のヴィピーン島では多くの人々が津波に流されて犠牲となった。ここ一帯の人々はその時もまだ全貌が知られていない悲劇を嘆いていた。ホテルや商店などは正常に営業されていたが、フェリーによるエルナクラムとの交通は停止中で、漁船も出ていなかった。やはり高波を警戒しているようだ。毎年元日に行われる海岸でのカーニバルも今回はキャンセル。西洋人のトラベラーはそこそこいるが、カーニバルにやってくる大勢のインド人観光客の姿はなく、街は結果的にひっそりとしている。それでも現地の人々の表情は明るく、心配されていた「第二の津波」についても「ここなら安心だ。ゆっくり楽しんでくれ」と笑う。

海風が街の中では吹かず、通風がないコチ市内の空気は蒸し暑く重い。夕方になるとやたら多い蚊につきまとわれるのには大いに閉口する。が、その多文化が混在する市内のたたずまいとアートや芸能を奨励する環境はなかなか面白い。絵や彫刻の展示スペースを持つカフェが一軒。ユダヤ人街にも現地アーティストを含むコンテンポラリーアーティストの作品を展示するギャラリーが二軒あった。伝統芸能もある。その代表はインド南西地域に古くから伝わり、今も活発に行われているカタカリ舞踏だ。コチにはこの舞踏が観られるケララ・カタカリ・センターがあって、毎日カタカリや他の伝統舞踏、インド古典音楽などを提供している。

大晦日の夜、私たちはこのカタカリ舞踏を観に行くことにした。この日の上演は津波生存者たちへの募金も兼ねていた。カタカリは舞踏によるドラマで、その起源は古く2世紀に溯るとされる。加えてこの舞踏は神聖なものとされ、舞台小屋に続く小道は、水を打ち、花を添え、香を焚き、白い粉でランガヴァリのパターンを描いて浄めてある。この舞踏は役者による演技、奏楽と歌によるストーリーによってミステリアスに進行する。舞台際と両袖にはオイルランプを灯し、香を焚いてその神聖さを強調している。内容はマハーバラータ神話が中心である。小さな舞台、百人足らずの観客。それでも舞台は神懸かりにも近い強烈で白熱したエネルギーを帯びる。これをほんの1時間でやってしまうのだから驚きだが、正式な舞台は6時間以上続くというからそれがどんな体験なのかは想像もつかない。
舞台がはねた後、私たちはホテル周辺で年が明けるのを待った。現地のクリスチャンたちが聖書を手に聖フランシス教会へと歩いていく頃、街は静けさに覆われていた。このカテドラルは、ポルトガルのペドロ・アルヴァレズ・カブラル率いる遠征隊と共に上陸したフランシスコ派によって1503年に築かれたといわれ、ヨーロッパ人によって建てられたインドの教会としては最古のものである。現在は聖公会の教会として現地の人々に慕われている。この教会に入ってしばし静かに座る。信者たちは三々五々新年のミサに出席するため集まり、聖堂に入ると静かに跪いて祈りを捧げている。

ケララの新年はどういう訳かサンタクロースの衣装とお面で覆ったわら人形を燃やして祝う。真夜中も間近に迫ると、近所の人たちがサンタを担ぎ出して点火場所を決める。その一つは聖フランシス教会の壁の外側だった。カテドラルからは聖歌が一段と高らかに聞こえてくる。そして午前0時。サンタに火が点けられ、燃え始めた。すでに近所の人々や歓声を上げながらバイクで通りかかった若者たち、西洋人観光客などが取り巻いて騒ぎ始める。突然、爆竹が数十個炸裂した。どうやらわら人形の中に仕込まれていたらしい。仕込まれていたのは爆竹だけではなく、打ち上げ花火も数個入っていて、どこへ向かって発射されるかはその時になってみないと分からず、物騒極まりない。幸運にも打ち上げ花火が我々に向かって発射することはなかったのだが、あの忌まわしい「アトムボム」も一発仕込まれていて、そこにいた人々は当然その爆音とショックの犠牲となった。
サンタが燃えてしまった後、取り巻いていた人々は「ハッピーニューイヤー!」を言い、握手したり抱き合ったりしていた。皆の表情は明るい。年を越えるとき、そこに必ず笑顔があるのはどこでも同じのようだ。神秘的なカタカリ舞踏の沸き上がるエネルギー、カテドラルから流れる聖歌の厳かさ、燃えて爆発するサンタの滑稽さとが頭の中で相混ざった。今まで「不思議なニューイヤーズの体験」は何回もしてきたが、さすがに今回のような異色の大晦日は始めてである。この旅を通じて経験することが出来た恵みのひとつでもあるだろう。
2004年12月30日
アジアの海が揺れた日

クリスマスの日、私たちは灯台の南側にあるヴィジンジャムという名の小さな漁村へ散歩に出かけた。村人たちは主に貧しい漁民で、その生活は海からのささやかな恵みだけで支えられていた。彼らは煉瓦の基礎の上にココナッツやバナナの葉で編んだ小屋に住み、その小屋は波打ち際ぎりぎりに並んでいた。あの日、小さな湾の南側では、クリスチャンの村人たちがお祭りのようにクリスマスを祝っていた。ティーンエイジャーは大音量で音楽を流し、男の子は砂浜で集まってサッカーに耽っている。女たちが笑顔でそれを見守っている。皆表情が明るく幸せそうで、素晴らしい天気に恵まれた祭日を祝っていた。しかしその翌日、祭り気分は恐怖に変わる。村は押し寄せる波にのまれ、この漁村はわずか数分で全壊した。

この小さな漁民の村ヴィジンジャムが破壊されていた頃、そこからほんの2、3キロ北のコヴァラムビーチで、私たちはそんな惨事が起こっているとはつゆ知らず、いつものようにジャーマンベーカリーの二階から浜辺を見渡しながら朝食を食べていた。砂浜ではパラソルが開き、人々は寝椅子を借りて日光浴や読書や波乗りを楽しんだり、フルーツサラダを頬ばっていたりした。突然、目前で波の足が長くなり砂浜にいた人たちをずぶ濡れにしてしまったのだ。彼らは驚いて波と共に引いていくサンダルやバッグやブランケットを追いかける。波は普段に比べて決して高くはなかった。しかし、波が奥深く海岸沿いの歩道にまで達したのは普通ではなかった。それでもあわてる人たちの様子がちょっと滑稽で笑ってしまったほどだ。
朝食の間、私たちは波の様子を見続けた。ビーチ沿いに軒を並べる店に危険なほど近づくかと思うと、数分後に50メートルほど引く。このパターンが続くのを見ながら、この異常な波の原因を話し合った。その日がたまたま満月だったことからそれが原因かも知れない。いや、どこかで起こった地震の影響だろうか。この憶測が当たっていたとはその時の私たちには全く予期も出来なかったことである。

結局この現象はその朝と午後一杯続いた。ライフガードは警戒はしていたものの、それ程緊迫した様子もない。人々はその後も砂浜で寝そべったり澄んだブルーの海で泳いだりしていた。現に、海は前日よりも穏やかでさえあっので、リンは朝食後のスイミングを楽しむことにしたほどだ。彼女は20分ほど泳いだのだが、潮はいつものように流れが強いとは言え、数日前ほどではなかった。彼女はこの湾の潮の流れの危険な速さには慎重で、水の中にはそれ程長くいたくはないと言っていた。浜辺に上がってブランケットで横になり、本に夢中になり始めた彼女にだったが、再び波が長くなったのを見てあわてて避難。暫く前は他の観光客が濡れてしまったのを笑っていたのに、と苦笑してしまった。

現地の住民はモンスーンの季節に高くなる波には慣れてしまっているのだが、その彼らさえこの季節にこんなことが起こるのは初めてだと言う。午後1時頃、私たちはビーチに面したレストランでランチを食べることにした。南側の漁村の男たちがコヴァラムビーチに残したボートを確認するために息をせき切らせて走って来る。明らかに何かが異常だった。数組のチームに別れた男たちがそれぞれボートを浜辺の高いところへと引き上げる。波の昇降はそのときも続いていた。観察すると、波打ち際の地点のずれが大きく変化していることに気づいた。昼食後、店が並ぶ歩道に沿ってさらに北のビーチへと歩くことにした。地震があり、チェンナイ(マドラス)で多くの死傷者が出たという店の人たちの話声を聞いたのはその時が最初だった。なるほど、何か大きなことが起こったことは確かなようだが、この海で何が起こっているのか。私たちはそのときもまだ状況を把握していなかったのである。それと時を同じくして、ライフガードと海岸警備員たちが人々を海から揚げ、ビーチは立ち入り禁止となった。

私たちがようやく正式なニュースで情報を得たのは、津波がスリランカとチェンナイを襲ったというBBCの報道が最初である。その時点での犠牲者数は千人。そして私たちがその全貌を知ったのはその数日後だった。12月26日、地球はあの神戸地震の300倍という飛んでもなく膨大なエネルギーを一気に放出し、余震は今も続いている。
コヴァラムビーチはなぜかこれらの被害を免れていた。ランタ島の友人たちの安否を思い(有り難いことに彼らは無事である)、インドの旅を終える場所だと考えていた海岸沿いの都市チェンナイの様子が気遣われた。日を追う毎にアジアでの犠牲者数と被害の規模が倍増していく。私たちがこうしてここにいることがとてつもなく幸運であることを思い知らされる。そしてその北と南では被害が出ているにもかかわらず、なぜ私たちがいたコヴァラムの海岸では大した被害が無かったのかと不思議に思われるのだ。津波自体も、死の可能性も、被害も私たちが直接体験することはなかったのだから。
コヴァラムビーチから西海岸に沿って北に向かい、現在私たちはコチという街にいる。この街は本土から橋で渡れるほど近い島にあるのだが、ここでも被害は少々あったようだ。ここに着いた12月28日、島と本土をつなぐフェリーは運航休止となっていて、漁船も出ていなかった。

この街に来てから、街のホールやレストランでは救済援助のベネフィットコンサートが開かれたりしている。各コミュニティーではこの大惨事の救済と援助に乗り出す動きが活発化しており、海に流された必需品を調達すべく、自ら寄付を集めるヴォランティアたちも多く見かけるようになった。最も必要とされているのは衣服、靴、食料、調理具などである。現地の人々によれば、政府や宗教団体によって集められた募金は、終わりのない政治的な動きの中で蒸発してしまい、実際に援助に当てられるのは極めて遅いという。この人道的危機に際して、「先進国」と呼ばれる国々がいち早く支援行動を起こし、速やかにそれを実行して欲しいと望む。被害者たちへの援助は日本やアメリカからでも出来る。募金される場合は、赤十字やNGOなど信用できる援助団体を通じての送金を呼びかけたい。
私たちは今も何ごともなく津波から免れたことを幸運に思い、有り難いという気持ちで一杯である。この恐るべき災害で家族や友人たちを失った人々に心からお悔やみと祈りを送りたい。
2004年12月25日
熱帯のクリスマス

「ゴアとケララ、あなただったらどちらへ行きますか?」アーメダバッドに滞在中、多くの人にこの質問を投げかけた。誰もがケララを推薦した。ケララ州はインド亜大陸最南端の西側に位置する熱帯地域で、アーメダバッドの人々が言ったように海岸沿いの地域は豊富な植物による緑、空と海のブルーが美しい。そしてここはココナッツの国だ。数日前までいた北インドとは気候も食べ物も全く違う。インドの多様性を目と肌で再び体験した。
ケララに外来の人々が訪れ始めたのは3000年も前だと言われ、商人や船乗りがスパイスや象牙を求めアラビア海を渡ってやって来た。16世紀、ヨーロッパ諸国の植民政策が始まると、ポルトガル、オランダ、イギリスが香辛料貿易の主導権を巡って争った。バスコ・ダ・ガマを代表とするポルトガルからの宣教師たちを受け入れ、キリスト教の影響も未だに根強く残っている。インドと西洋の融合が見られるユニークな文化がここにはある。芸術と教育に力を入れる州政策のお陰で、インドで最もプログレッシブな地域でもある。
私たちが最初にやって来たのはコヴァラムというビーチタウン。空港からダッシュボードにガネシャを祀ったプリペイドタクシーとマリア像のステッカーを貼った三輪タクシーを乗り継げばそれ程遠くはない。この宗教的なミックスはインド北部では見られなかったもので、インド文化の深さを思わせる。

某ガイドブックによれば、1960年代にはヒッピー天国だったが今は寂れた印象を拭えないとあったが、実際に来てみると、多少の開発が進み値段もアップされてはいるものの、かえって静かにまったりするには絶好の小さな町である。「ライトハウスビーチ」と呼ばれる砂浜は、小さな湾の南側にある灯台から北に2キロほど広がり、海に突き出た岩場が北に隣接する「ハワービーチ」との境となっている。ビーチ前の歩道に沿ってホテル、レストラン、土産店が連なっている。インド古来の「アユルヴェディック法」によるハーブ薬店、マッサージやヨガセンターもある。海岸から丘に上る斜面はココナッツで覆われ、その中に現地の人々の住居、さらにレストランやホテルがある。

ライトハウスビーチは休日前後のハイシーズンにはかなり賑わう所だが、その環境でゆったり過ごしていれば大して気になるものでもない。浜の砂質はきめが細かくしっとりとソフトで肌触りが良い。海水も滑らかで鮮やかなトルコ石の色に澄んでいる。波はタイの島の海岸に比べれて荒く、午後から高くなって波に乗って遊ぶにはちょうどいい具合だ。アラビア海の潮は水流が速くしかも強力で、しばらく浮かんでいるだけで深い沖へと流されてしまう。それはこのビーチだけではなく、近辺の海岸も同じらしい。そのため、ここでは常勤のライフガードが警官のような制服で頑張っていて、海に入る人たちに忙しくホイッスルを吹いている。赤道近くだけあって暑いが、穏やかな潮風が涼しく、何よりも空気が新鮮なのが有り難い。

クリスマスのデコレーションは通常西洋や日本でも見るものもあるが、一般に大げさではなくひっそりと静かな飾り方だ。ケララでユニークなのは中が空洞になった紙製の星。表面にはパターンがくり抜かれているものもあれば、ホリデーシーズンのメッセージを印刷したものもある。中に電球を灯して天井や軒下に掛けるとほんわかとしたムードを醸し出し、波の音や海風とともにエキゾチックなクリスマスを演出してくれる。

クリスマスの当日、朝から近辺の漁村の男たちが船を連ねてコヴァラムのビーチへと大挙押し寄せてきた。観光シーズンの盛りではあっても前夜までは静かだったビーチは大いに賑わう。彼らはこの湾で泳ぎ、水辺を走り回り、砂の上を転がり、アイスクリームを食べ、西洋人の若い女性をからかって(ここに限らずインドの男はどこでも同じで、欲情剥き出しの目を白人や日本人女性に投げかける)、一日中子供のように遊びまくった。聞けば、ごく近くの漁村に住んではいても、彼らがこうして一日中仕事をせずに遊ぶのは年に一度、このクリスマスの日だけだという。
アメリカのクリスマスシーズンは10月末日のハロウィーンが過ぎた翌日から本格化する。このクリスマス商戦が旗揚げすると、メディアはもちろん街のショッピングモールや商店街はこれでもかと言わんばかりのコマーシャルとデコレーションに染まる。そんな環境では嫌でもそれに応じなければならないような気分になってしまい、仕事とショッピング、パーティーに追われる忙しない生活を強いられることになる。今年の私たちのクリスマスは、それを全く感じることが無く、南インドのトロピカルな環境の中で静かに過ぎていった。正直言って、その方が良いのではないかと考えている。贅沢を言えば、家族や友人たち、近所の人々と祝いたかった。この休日はそのためにあるようなものなのだから。
2004年11月13日
アトム・ボムの夜

11月12日の夜、インド全国は一週間続くディワリ祭のピークを迎え、賑わった。「光の祭り」とも呼ばれるこの祭りは、盆と正月とクリスマスとアメリカの感謝祭が全部一緒にやって来たようなものである。祭りの中心となるのははやり家族だ。実家から離れて働く者や学生たちが帰郷して実家の家族と共に祝う。私たちの運転手、ヤドヴも彼の家でこの祭りを祝うため、私たちも便乗して彼の故郷、ティジャラという街でインドの一家族と数日を過ごす機会を得た。

ディワリには花火や爆竹がつきものだ。祭りが始まる数日前に滞在したアグラやジャイプルの街角では至るところで爆竹が炸裂し、街を見下ろすホテルの屋上からは花火が上がっているのが見えた。これらの爆発物を買う際の制限などは全く無く、誰もがどこででも買え、祭りをひかえたインドの町々では多くの花火商人が店を開いていた。

いろいろある爆竹の中に遊び用とは思えない爆発力と炸裂音を持つものがある。その名も「アトム・ボム(原子爆弾)」。一ダース入りの箱にはその爆発に恐れおののいた男が悲鳴を上げている絵が印刷されている。ヤドヴ一家の近所では、帰省した20歳前後の若者たちが集まり、次から次へとこの大型爆竹を爆破させていた。その一つ一つが爆破する度に一帯の空気は異様な動きを見せる。他の爆竹や花火の音も重なってこの小さな街は市街戦の様相を呈していた。
その爆破現場のすぐ傍をたまたま歩いていたことがあった。その爆発力は私の服を翻し、髪や顔の皮をも一瞬揺るがせる威力を持っていて、耳鳴りは丸二日止むことが無かった。若者の一人が笑いながら話し掛けてきた。「アトム・ボムって言うんだ。凄いだろう?広島や長崎みたいにドカーン!ってね。」彼らは私が日本人であることを知っていたわけでもなく、また私を意図的に侮辱しようとしたわけでもない。若者たちはあくまでも無邪気に祭りを楽しんでいただけなのだ。

あの若者たちにとっては楽しいことなのかも知れないが、日本人の私にとって彼らの言葉は少々異なる印象を残す。私にはその異常にパワフルな「おもちゃ」を楽しいモノだとは思えず、第一どんな製品にそんな名前を付けて売るといくコンセプトが理解できない。最も、インド人は何かにつけて「インドでは全てが可能なのです」と言うのだが。そして本物の原子爆弾によって破壊された二つの都市に対する若者たちの無神経さにも畏怖を感じる。これがパキスタンと核兵器を競う仲にあるインドで若い世代が持つ原子爆弾についての認識なのだ。
インドの小さな街で体験した光の祭りは、インドの農家やごく普通の家庭生活を垣間見た貴重な体験だった。と同時に、この世界的な傾向の今と未来を考えさせられるものだった。「アトム・ボム」の爆発が夜遅くまで鳴り響く中、頭の中では連想が連想を生み私は早朝まで眠ることが出来なかった。
2004年11月07日
ガンガに浸かる

ガンジス川、現地の名はガンガ。ヒンズー教徒にとってこの川は聖なる川または水であり、インドそのものの母であり、存在の源である。ガンガが流れる聖地としてはインド北部のベナレスが広く知られていて、多くの観光客や旅人たちがこの国を代表する文化や風習を見ようと集まる街らしい。残念ながら私たちのインド滞在予定にはベナレスを組み込むことが出来なかったが、ウッタランチャル州にある二つの街でこの川と人々が織りなすスピリチュアルな光景に接することが出来た。共に観光客が比較的少ない街である。
ハリドワルはガンガがちょうどヒマラヤ山脈からデリーを擁する大平野へと流れ出す地点にあり、数あるインドの聖地の中でも最も重要だとされる。また、ハリドワルは宗教的な祭りの中でも世界最大と言われ12年に一度行われるクンブー・メラのサイトでもある。インド国内外からの巡礼者も後を絶たない。街そのものはそれ程大きなものではなく、インドでは比較的静かな所だ。ガンガの水は澄んでいて、ドキュメンタリーなどで観たベナレスの水に比べて清潔さでは格段の差があるようだ。

この街の大きなガート(沐浴場)で人々は聖なる流れと神々に祈るだけでなく、ありとあらゆる日常生活そのものを営んでいる。私たちの通常の生活では常に家の中や壁の向こうで行われている行為、特に水を必要とする仕事がこのガートでは公然と、しかも全てが同時進行で繰り広げられていた。この場所で人々が表現する感情にも喜怒哀楽の全てが同時に見て取れた。その光景は驚きであり神秘的であるとともに、ユーモア一杯でもありサイケデリックでもある。(逆に、日本人や西洋人にも共通の「日常」は、それを全部同時にさらけ出してしまえば驚きとなり得るものなのだ、とも言えはしないか。)

ハリドワルの北東約25キロにはリシケシがある。今日ヨガや瞑想の中心地であるこの小さな街は、1960年代にビートルズが彼ら(特にジョージ・ハリソン)のグル、マハリシ・マヘシュ・ヨギを慕って訪れた場所として世界的に知られることとなった。熱心なヒンズー教徒にとっては、ヒマラヤ山中にある巡礼地へ向かう拠点となる。インド北西部は11月でも暑さを感じるのに比べ、ガンガに臨む谷に位置するこの街では毎日夕方から朝にかけてヒマラヤからの強風が吹き、夜はかなりの寒さを感じた。
夕日が沈む頃には花、お香とロウソクを聖なるガンガに流して祈る人々で川縁が賑わう。この儀式は「ガンガ・アールティ」と呼ばれ、リシケシュだけではなく、ハリドワラはもちろんインド各地の聖地で行われるものだ。川の流れ、鐘の音、人々の祈り、川岸で奏でられる音楽が聞こえる中で、巡礼者たちが油に灯を点して念願だった祈願を唱えるのを私たちは無言で見つめていた。

ある友人がここに来るのを勧めてくれたこと、中国の昆明で出会ったトラベラーが「ベナレスには行かなくてもリシケシはインドへ行く度に必ず訪れることにしている」と言ったことの理由が分かるような気がする。リシケシでの二日目、自分たちもガンガの水で身を清めようと散歩に出かけた。渓谷に架けられた吊り橋を両岸にあるアシュラムを見ながら渡り、川の上流に向かって少しばかり歩くと大きな岩の合間に砂浜が点々とある場所が見つかった。下流では広くゆったりと流れるこの川も、ここではまだ渓流である。谷間のガンガは恐ろしく深く、流れは速く、そして水は冷たい。川から上がった後、稚拙ながら気功をやってみた。強く乾いた日差しの中にもかかわらず、ガンガの清い流れのすぐ傍で感じたエネルギーは静かで冷ややかな清浄力に満ちたものだった。ふと見ると数人の旅行者たちもそれぞれのやり方で瞑想に耽っていた。
ヒンズー教徒ではない人々までが惹かれるこの地もある程度の騒音は免れないが、カオス的なインド各地の街にはない精神的な静けさがある。ヨガや瞑想を学ぶもよし、川岸で日光浴をするもよし、旅の疲れを癒すもよし。目的が何であろうと、ここにはヒマラヤの麓を流れるガンガが人々を招いているような気がする。
2004年11月04日
黄金の夜明け

夜明けの太陽が黄金の寺院を輝かせている。寺院の核を成すハリ・マンディル・サヒーブがアムリト・サロバール(「神酒の池」)と呼ばれるほぼ正方形の池の中央に浮かび、その荘厳な姿が水面に映えて揺らめく。ここプンジャブ州のアムリトサル(池の名前から名付けられた)にある黄金の寺院は、インド国内だけでも1,800万人いると言われるシーク教徒にとって最大の聖地として世界に知られている。(ちなみに1919年に大英帝国軍の兵士たちが約2,000人ものインド人を射殺し負傷させたジャリアンワラ・バグという広場は、皮肉にもこの静かな進行の場からわずか150メートルほどの所にある。)その門をくぐる前にはターバンやバンダナ、またはショールで頭を覆うことが例外なく義務づけられる。そして寺院に参拝するために靴を脱ぎ足を洗って身を清める。煙草や酒、革製品の持ち込みは絶対に許されない。

夜明け前、寺院の門に近づくと、聖歌とインド風のパーカッションが涼やかで新鮮な朝の空気に共鳴しているのが聞こえてくる。早朝の大理石の冷たさを感じながら入口を抜けると、日の出前のハリ・マンディル・サヒーブが見えた。信者たちは池を隔てた大理石の上で跪き、シーク教の聖なる書であるグル・グランス・サヒーブが祀られる建物に祈りを捧げる。

ここを訪れる人々は入口から入ると時計回りに池の周囲にあるパルカルマと呼ばれる歩道を歩く。水辺はそのままガート(沐浴場)となっており、人々は肩まで水に浸かって祈りを捧げる。若い男たちはターバンではなく、ヘアバンドで頭を覆いながら若者らしいファッションを着ているから、一見ヒップホップ系。女性の多くはサリーをまとっていた。水辺に座って瞑想する人、建物の影に集まって静かに会話をする者、聖水を飲んで満足げな巡礼者たち、写生をする西洋人の旅行者。パルカルマを単に歩くだけではなく、人々は純粋にこの場所に心の平和を求め、それぞれのやり方で求めるものを見いだしていた。そして人々の耳には絶えずメロディーを伴った聖なる書の言葉が、ハルモニアやタブラの伴奏と共に響いている。
そんな光景を眺めていると、朝日が差し入ってきた。大理石が黄色、オレンジ色、ピンクに染まって寺院内のムードに活気が生まれる。その中心にはやはり圧倒的な存在感を持つ黄金の建物があって、視界から離れることはない。
黄金と言っても実際に金が使われているのはハリ・マンディルの屋根にあるドームのみでそれ以外は真鍮なのだそうだ。それでもそのアラビア風の外観と、「グルの橋」を渡って傍に近づくと見えてくる繊細なディテールの素晴らしさには変わりはない。ハリ・マンディルの内部では常に四人の高僧たちが聖なる書を読み、人々に祝福を与えている。一階の中央の床には高僧の一人を囲んで音楽家たちが休むことなく演奏を続け、信者はそれにうっとりと耳を傾けながらゆったりとくつろいでいた。

シーク教はヒンズー教の一派だが、意図的に多くのイスラム教要素を取り入れた一神教であり、かつ偶像崇拝を拒む。従ってシーク教最高峰の10人のグルが描かれた絵以外、神々の像はこの寺院には見当たらない。寺院内の清掃が整っていることや建築の全てが大理石であることで神聖な印象がさらに高まる。門の直ぐ外に広がる埃だらけの街と混乱に満ちた雑踏とは対照的で、シーク教とではない私たちをも敬虔で平和な気持ちにさせる説得力があった。朝日が高く昇り、私たちがアムリトサルを発つ時間となった。次の訪問地へと向かうことがなければ私たちは丸一日その場にいたかも知れないと思うほど、この寺院には穏やかで安らかな気持ちになれるエネルギーが満ちていた。
2004年10月26日
インドへ

「デリーは酷い所だ。」これまでの旅の間に出会ったトラベラーたちから何度もそう聞かされていた。インドへの旅立ちが近づくにつれ、私たちの間には緊張感が漂い始めた。そして今デリーに居るわけなのだが、実際に来てみるとそれ程酷い所だとは思えないのである。デリーは今まで訪れた街とは確実に異なっているけれど、多々ある相違点は必ずしもネガティブではない。
デリーでの最初の数日間宿泊する予定のゲストハウスはバンコックのインターネットカフェから予約した。アメリカに住むインド人の友人や同僚たちのアドバイスを考慮して、空港からゲストハウスまでの送迎車も予約しておいた。早朝6時の到着だったにもかかわらず、私たちは問題なくチェックインして仮眠を摂ることが出来た。もっとも、このゲストハウスは監獄のような3メートル四方足らずの部屋で、窓はなく、バストイレも機能していなかった。とても満足できるものではなかったため、翌日早々に宿を換えることにした。

午後から夜にかけて私たちはそのゲストハウスがあるコナウト・プレイス(セントラルパーク)周辺を歩き回った。市内でもよく知られる円状のショッピング街だ。歩いているだけで実に多くの人々が声をかけてくる。そのほとんどは私たちに何かを買わせたい人たちなのだが、今のところ「ノー」と言い続ければ問題なく立ち去ってくれる。物乞いについても同じだ。「信用できる旅行会社」を紹介してあげようと言い寄ってくる英語が上手い若者たちも同様。モンゴルや中国ではもっと手を焼いたのを思い出したほどだ。

食事については、これも中国で会得したルールを応用してレストランを選べばそれ程悪いことにはならないだろう。つまり比較的清潔で、照明が明るく、多くの人々が食事していて、しかも予算に見合うような所だ。コナウト・プレイスや二軒目のホテルがあるパハルガンジ一帯を少し歩くとそのようなレストランは案外簡単に見つかった。私たちは早速シリコンバレーでも頻繁に食べる「インド人のためのインド料理」を味わった。
もしアメリカから直接ここに来たのなら、私たちはこの街に圧倒されて第一印象ももっと違ったものだったかも知れない。それとも、多くのインド人が住むシリコンバレーである程度の予備知識を得ていたのだろうか。バックパッカーではない私たちが、出来るだけの準備を整えたからだろうか。特に空港での出迎えを予約したのは正解だった。ともかく、私たちは意外にもすんなりデリーに入り込めたと言えるだろう。

同時にインドがそれだけの国ではないことは明白だ。私たちの目が飛び出て開いた口が塞がらない経験が待ち受けているはずなのだ。オールド・デリーの赤い砦周辺に広がる商店街を歩いただけでもそれは確認できた。デリーはそんな経験に満ちた三ヶ月の出発点なのである。
2004年09月14日
赤い灯り

雲南省の麗江へは峨眉から中継点の挙枝花へ夜行寝台列車で向かい、さらにバスで8時間揺られて辿り着いた。麗江の旧市街はその風情ある街並みと1996年の震災でもその大部分が崩壊しなかったこの地方独特の堅固な家造りで知られ、峨眉山と同じくユネスコ世界遺産に指定されている。震災で崩れたのは新市街の建物がほとんどで、その後中国政府は旧市街の建築方法を取り入れて新たに開発に取り組んでいるほどだ。

雲南省の人口の五割は漢民族、その他はバラエティーに富んだ少数民族が共存している。高瀬川が流れる京都の木屋町を思わせる街並みを、それぞれ美しい民族衣装をまとった女性たちが歩き回るさまは、中国の膨大な文化背景をまざまざと感じさせる。旧市街の屋根屋根を見下ろす周囲の丘からの景観を目にすると中国の歴史を数百年遡ったような感覚に捕らわれる。夜になると無数の赤い提灯に灯りが点り、川の流れにも灯りが映っていかにもアジアらしい、由緒ある街の風情を見せる。

石敷きの歩道を歩くと、丘の上から見た旧市街とは全く別の顔が現れる。かつて歩道に面した古い家屋の一階は、生活必需品を売る店がぽつぽつとあっただけだった。今はそのほとんどがお土産屋、食堂、カフェ、ホテルや旅館になっていて、その前を観光客が群れを成して歩き回り、買い物をし、食事をするだけの街になっている。この状況を最初目の当たりにしたときは「何が世界遺産だ」と憤りさえ感じた。しかし、この変貌にはこの土地独自の理由があった。

麗江周辺の山々は、玉龍雪山、虎跳峡や中国政府が「正式に定めた」シャングリラなど素晴らしい自然と景観を持つほか、木材の産地として知られていた。しかし繰り返し発生する洪水と土砂崩れの原因は木々の過剰な伐採によるものだとされて以来、中国政府は木材産業をほぼ全面的に禁止し、逆に植林政策に転じたのである。その結果として起こった失業問題を解決するために麗江旧市街の観光開発を進めたというわけだ。
世界遺産に指定され、ワールドクラスの観光地となったこの街は中国の人々の誇りでもある。街を訪れる観光客はお土産を買い、民族衣装をまとった女性たちと記念スナップを撮って、夜は酒場通りで酔いしれる。絵葉書や写真集で見る古い白黒写真だけがこの街の真の美しさを物語っているように思う。
2004年07月28日
草原での四日間

ドーン!私たちが乗るロシア製のジープがモンゴル人夫婦のホンダアコードの左前輪辺りに突っ込んだ。7月24日、朝九時半。モンゴル人の運転手と通訳、そして私たちが四日間のツアーに出発して僅か十五秒後のことだった。幸い、双方共に怪我や後遺症は無かったが、この事故はその後三日間のツアー行程を暗示していたのかも知れない。このツアーの模様をタイムテーブルでお伝えしたいと思う。
7月24日(一日目)
09:30 ツアー出発。出発後十五秒後に交通事故。怪我人、負傷者無し。
10:00 ツアー「再出発」。
13:00 左前輪パンク(No.1)。
13:30 チューブをパッチして出発。
14:00 炎天下と土埃が舞う草原で、持参した太郎手製キムチ入りおにぎりの昼食。一人二個ずつ食す。
15:00 「ミニゴビ」と呼ばれる砂丘地帯付近で右後輪パンク(No.2)。ついでにミニゴビを見学。

16:00 チューブをパッチして出発。
17:30 右後輪パンク(No.3)。修理の間、広大な草原の中程まで散歩。

19:00 チューブをパッチして出発。
20:15 右後輪パンク(No.4)。ハラホリン(カラコルム)まで15キロの地点。
21:15 通りかかったモンゴル人がスペアタイヤを貸してくれ、チューブをパッチして出発。日没。
22:00 ハラホリン市内に到着。タイヤ修理の店で右後輪およびジープのスペアタイヤをパッチ。
23:30 ハラホリンの街を見下ろす丘の中腹(らしき場所)に駐車。暗闇の中テントを張って就寝。夕食抜き。
7月25日(二日目)
08:00 空腹感で起床。
09:15 塩入りのお茶一杯を飲み、朝食抜きで出発。
09:45 カラコルムの遺跡、寺院に到着。遺跡を見学。その間ドライバーと通訳はタイヤを確保、修理すべく市内へ。意気消沈。カラコルム見学はそれ程時間を費やさず。車を待つ。
13:30 ハラホリン出発。
14:30 雷雨のため、付近のゲルに避難。右後輪パンク(No.5)。ゲルの中でカップヌードルの昼食。
16:00 チューブをパッチして出発。
16:45 エンジン部ベルト破損。
17:15 ベルトを修理して出発。どのようにして修理したかは全く不明。
18:30 オルギー湖畔到着。テントを張り、夕食の準備。気温が急激に下がり、強風に見舞われる。
20:00 夕食。天候はさらに悪化。
22:00 就寝。
7月26日(三日目)
00:00 雷雨。暴風雨のためテントがしなる。
02:00 この朝二度目の雷雨。一度目よりもさらに激しい雷雨。テントがひん曲がる。テント内に浸水。
08:00 起床。テントの外では馬の群が草を食べていた。前夜の夕食の残りを暖めて朝食。湖畔を散歩。
10:30 出発。
14:30 右後輪パンク(No.6)。

15:45 スペアタイヤのチューブをパッチして出発。
17:00 気温低下、天候悪化。強風、雷を伴う豪雨。風と雨がロシア製ジープ内まで吹きつけ、下半身が濡れる。滅茶苦茶寒い。
18:30 新しいタイヤを運んできた人と待ち合わせ。滅茶苦茶寒い。待ち合わせ場所を探す間、車体下方のワイヤー破損。
19:00 豪雨の中、洪水となった川のすぐ傍でワイヤーを修理し出発。修理方法は全く不明。
19:30 小さな街のタイヤ修理店に到着。新しいタイヤを右前輪と右後輪に装着。冷たい強風の中で待たされる。滅茶苦茶寒い。両手の感覚を失う。

20:30 フスタイ国立公園到着。
21:00 公園内に生息する馬類の原型と言われる馬を探しに公園管理スタッフと出発。幸運にも六頭の馬を発見。
22:30 公園管理スタッフの家族が住むゲルに到着。カップヌードルで夕食。
7月27日(四日目)
07:00 起床。ゲル家族の朝の仕事を見学。朝食。ゲル家族と会話。彼らの生活を見学。馬に乗せてもらう。
10:30 国立公園内をスタッフによるガイドで見学。車は快調の様子。ようやく気分が上昇気味に転向。
12:00 ゲルに帰還。家族が作ってくれた昼食を頂く。
13:00 フスタイ国立公園出発。
16:00 ウランバートルに帰還。
多くの問題があったツアーではあった。ツアーの運営にも疑問を感じる。が、決して無意味ではなかった。モンゴルの人々の本来の姿を垣間見ることが出来た。自然の様々な表情は、それがどのようなものであっても美しいと感じた。私たちは正にそのためにモンゴルを訪れたのだから。
2004年07月10日
祭典前夜

モンゴル最大の祭典、ナーダムを三日後に控え、私たちが到着したばかりの街は活気に満ちていた。幸い今回の宿もホテルではなく、間取りの広いアパートを借りることになった。多くのホテルと観光客が集中する中心街から暫く歩いた場所で、周囲は一般市民の住宅街だ。市場もすぐ近くにある。外国人はたまにしか見かけない、ウランバートルのアーバンライフのただ中にいるという実感がある。
ナーダムは相撲、乗馬、弓矢などを競うモンゴル版オリンピックとも言える競技大会が中心だが、モンゴル人たちにとっては大切な祭日であり、人によっては一週間の連休でもある。正月よりも大きな祭日週間といっても良いだろう。近所の市場はナーダムの数日前から祭日を祝う料理の準備をする人たちで賑わっていた。アパートの玄関から少年がお金を握りしめて飛び出していく。数分後、彼はパスタ二袋と正体不明の食材を持ってアパートビルの中に飛び込んでいった。使いっ走りとはよく言ったもので、私にはどこか懐かしい風景だが、アメリカでも日本でもそんな光景は近頃全く見た覚えがない。
ナーダムの前夜、アパートの門前で夕涼みをしていた私の前に一台の車が止まった。太った中年女性が大きな買い物袋を下げて降りてきた。それに続いてその亭主と思われる男性が一頭の動物を車から引きずり出した。生きた山羊だった。そして、彼らは近所の人たちの手助けを借りてその山羊をアパートの一室まで引きずり上げたのである。通常のアパートが屠殺場になり得るとは想像もしなかった。新鮮な肉であるには違いない。しかしその後三日間、この山羊の死臭がアパート中に充満したのには大いに閉口した。

モンゴル人の食べ物は主に肉で、大量の山羊、羊、馬、牛などを消費する。市場の周辺には動物の肉の臭いが充満している。ボロボロのロシア製ワゴン車の荷台には頬肉まで削がれた馬の首が横たわって笑っていた。大きな骨が路上に捨てられていたり、肉売りの露店のテーブルの下には山羊の首がごろごろ転がっていたりするのは通常のようだ。そのテーブルの上にはありとあらゆる肉と内臓が転がっていて、人々は喜々として雑談しながらそれを品定めをし、買っている。私たちの感覚では壮絶な風景と言わざるを得ないが、日本では頭付きの生魚やまだ動いている伊勢エビなどが新鮮な食べ物だと見なされるのだから、それと同じ感覚だとも言える。
2004年05月26日
簡単すぎる入国

バルセロナには予定より一日遅れて22日の夕方に到着した。まず空気の違いを肌で感じた。湿気が高く、もちろんアムステルダムよりは暖かいが、日が暮れてからの風はまだ肌寒い。
アムステルダムからはEU諸国間を割安で飛べるEasy Jetという航空社で飛んだ。ウェブと空港のカウンターのみでチケットを販売している小さな会社である。バルセロナに到着したということはスペインに入国するということになるわけだが、税関どころか入国審査も何もない。オランダ入国時には少なくともパスポートに「記念スタンプ」を押してくれた。今回はそんなスタンプの機会さえ無かった。

ヨーロッパ諸国を旅慣れておられる方々には何の不思議もない事なのかも知れない。しかしアメリカに住んでいる人間にとっては驚きなのだ。ましてやスペインでは二ヶ月ほど前にマドリッドでテロが起こったばかり。EU参加国オランダからのフライトだからと言ってしまえばそれまでだろうし、実際にそれが理由なのかも知れない。スペインがイラクに送った兵士達を撤退させたからもう心配は無いと考えたのだろうか。あれほどの被害を受け、僅か二ヶ月後には国外からの入国者達をチェックしていない事はある種のショックでさえある。それとも、Easy Jet社を始めEU圏内のフライトを予約した人々の背景情報はすでに全て厳密にチェックされ、安全な客だけが乗っていると確認済みなのだろうか。ちなみにパスポートを見せたのはチェックインと搭乗の際のみだった。
一方、そもそもこれが本来あるべき近隣国同士の理想的なあり方なのだろうと納得もする。ヨーロッパが進化している証拠でもあるのだろう。どちらにせよ確かなのはこれらの国の警戒に関する考え方や感じ方がアメリカとは全く異なっていることだ。
アメリカや日本の政府やマスコミがあれほど宣伝している恐れは、特にアメリカの空港で顕著に現れる。国内線でさえもその例外ではない。アメリカ国民は「お国の安全のためだから」とただただ無言で、時にはブッシュ大統領への忠誠の表現なのであろうか、誇らしげにベルトを外し、靴を脱ぎ、ノートパソコンやPDAのスイッチを入れて武器ではないことを示し、自分達がテロリストではないことを証明するのである。
スペイン人は何を「恐れていない」のだろう?
2004年05月18日
春!

アムステルダムにもようやく春がやってきた。長い冬の後この街がいきなり花開いた週末だった。ヨーロッパへと渡る直前にアリゾナの乾燥しきった摂氏35度の炎天下で過ごした私たちは、到着後一週間の曇り空と寒さに少々参ってしまっていたのだ。絵に描いたような青空と白い雲。それを見上げる視界の隅には、必ずこの街を象徴する家々や教会の一部が覗く。
人々のファッションや行動も一変する。まばらだった広場に面したカフェのテーブルは突如満員になった。迷路のような運河にボートをゆっくり走らせながら、ワインとチーズを味わう。女性達のドレスも新鮮なパステルカラーになる。表情が和らぎ、笑顔になる。何事にも増して日光の吸収が最優先される。この変化は土曜日の朝起こった。
Vondelparkはアムステルダム市民達にとって馴染み深く大切な場所である。日曜日、人々は正午になる前からこの公園にやって来て、心地よい場所に陣取り、パンとチーズとサラミとワインとフルーツを広げ、家族や友達がそれを囲んで集団で遊び、だらけまくるのである。外に出たくて仕方がなかった子供達は、自転車とインラインスケートとサッカーボールでたまりにたまったエネルギーをここぞとばかり爆発させる。もちろん大人も負けてはいない。
午後が熟した時間帯になると、公園内には驚くほど大勢の人々がいて、ちょうど日本のお花見やゴールデンゲートパークの夏の午後のような様相だった。

時々吹く穏やかな夜風は少しばかり肌寒く感じるが、夜の9時半でもまだ空が藍色だ。日差しが予想外に強かった一日の終わりは、そんな時間になってもカフェの窓が大きく開かれていた。カテドラルの垂直なシルエットや運河を渡る橋の曲線やオレンジ色の街灯の光が夕焼けのグラデーションと混じり合って美しい。その中を街の人たちが動き回っているのだが、私にはその動きがとてもゆとりのある穏やかなものに感じられ、それを見ているだけで自分もゆったりした気分になれるのである。
時が金には換えられない大切な時間。どこからか創造へのインスピレーションが湧いてきそうな時間。時そのものが芸術であるような時間。ここの人たちはきっとそれを無意識にも感じているような気がする。
2004年05月16日
Kröller-Müller美術館

Kröller-Müller美術館を私たちが訪れるのはこれで二度目である。最初は1995年秋だった。その時は静かな雨が降っていた事もあって主に屋内のコレクションを堪能した。今回は幸運にも天候に恵まれたので、前回ほんの一部だけ見ることが出来た彫刻ガーデンをまず楽しむことにした。
Hoge Veluwe国立公園の中にあるこの美術館は、ダイナミックではないが平坦な土地の森と人工の庭園を組み合わせた彫刻の屋外展示が以外に広く、内容も素晴らしい。作者と作品名、制作年などが書かれた標識は見えるのだが、実際に作品そのものが最初は分からないものも稀ではなく、林の木々や新緑の葉の間に目を凝らすこともたびたびである。
どんな作品が潜んでいるか分からない。だから胸が踊る。茂みを縫って続く小道に足を踏み入れ、ハイキング感覚で歩く。彫刻達は見上げる高さの木の枝や、ほんの小さな丘の向こうや、林の木々の間に見え隠れする陰などに鳥たちの声を聞きながら静かに潜んで、 散歩する訪問者達を待っているかのようだ。そして予期しなかったほど巨大なオブジェがいきなり目の前に立ちはだかったりする。
私たちは四時間以上もこの彫刻庭園で過ごした。平日なので訪問者は少ない方だが高校生のグループがクラスで来ていたり、もちろん観光バスも数台やって来た。それらの人々がくり出して来て帰っていった後、見渡す限り誰もいない時間がある。鳥のさえずりだけが聞こえて、彫刻作品が新緑の芝生の中で黒々と光っている。

日本人団体客の一人が絵の具を持ち出して写生を始めた。閉館時間と観光場バスの出発が迫っている中、彼は写生に全力集中して一枚の小さな絵を描き上げようと賢明だった。「次は奥さんと二人だけで来てよ」と言葉をかけたくなった。
2004年05月14日
Keizersgrachtで

トム・キーが台北へと発つ前に、彼はKeizersgrachtにあるフラットの鍵をくれた。この街に滞在する間彼の部屋を使わせてくれることになったのだ。地元の人たちと観光客両方で賑わうLeidse Pleinから徒歩三分にあり、必要なものは全て周囲で見つかる便利さに恵まれ、建物のドアの前に運河がゆったりと揺れる絶好のロケーション。洗濯機、乾燥機、バスタブ、キッチンが完備されトムが設置したワイヤレスのネットアクセスまである。貧乏旅行者には嬉しい限りだ。 Bed & Coffeeから移ってきた私たちは、さっそくこの新しい環境を楽しみ始めた。
私たちのサンフランシスコ・ベイエリアでの生活は忙しい毎日だがきわめて単純なものである。コンサートには頻繁に出かけ、友人達との付き合いも忙しいほどなのだが、アメリカでの中流階級の一般家庭が住む住宅街の生活はとかく行動範囲が狭いものなのだ。こうして全く異なった環境に居ると、それを実感させられる。愚かにもアメリカや日本との生活の違いなどを書き留めようとしたところで、アメリカや日本の生活そのものに対する理解の限界を思い知らされるのである。例えば、オランダ人の週末の過ごし方などを観察するにしても、私たちには子供が居ないので子供連れの家族の行動などとは比較する術がない。
トムによると、オランダ人は金曜日の夜と土曜日は友達と遊ぶのが普通だが、日曜日はほぼ家族と一緒に過ごすというのが習慣なのだそうである。Ajax Amsterdamの試合があった日曜も、家族連れはとても多かった。クラブによっては独り者やオランダ語を流暢に話せない人は入場お断りのところがあり、有名なクラブもその例外ではないものがあるという。アメリカではこのような差別的な行動は表面的には法律で規制されている。

アムステルダムは外来者達には非常にオープンである。街全体がオランダの外からやって来る人々で溢れ、人種差別も全く感じられない。それだけに言語を始めとする文化や血統の保存は困難かも知れない。オランダ人の、一定の時間を設けてオランダの純粋な文化を守ろうとする姿勢が日曜日の過ごし方に現れているのではないかとふと思った。
曇り空の日が続き、風もまだ冷たい。それでも運河では水鳥たちが停泊しているボートの間に巣を作り、卵を暖めていたり小鳥を連れ出したりしている。
2004年05月12日
まだ寒い週末

この元気な街のウイークエンドは瞬く間に過ぎた。金曜日から日曜日という短時間の記憶。その理由の一つは旧友トム・キーとの六年ぶりの再会と、彼と週末全部を過ごせたからだ。彼は一年ほど前にXWIREという会社を設立し、インテリジェントで高速なWiFiラウターを一人で開発した。この街に住んで三年という。そして彼にはアメリカへの帰還が月曜の朝に控えていた。

この週末、私たちは二つの美術展に出かけた。土曜日はKunstvlaai。街の西地区にあるWestergasfabrikというかつては水道管理施設があったと思われる場所だ。ここに「ちょっとおかしな」街のアーティスト達がオーガナイズした展示会で、斬新な表現や、オルタナティブなもの、笑える作品が古い煉瓦造りの建物の中と野外で見ることが出来た。それを見に来る人たちも千差万別。土曜の午後を芸術の周囲で過ごそうと、かっこいい老夫婦達や、若いクリエイティブなタイプ、乳母車を押す夫婦達がゆったりとビールを飲みながら創作を見に来る。ゴールデンゲートパークでの夏の昼頃やサンフランシスコのストリートフェスティバルに感じがよく似ている。
夕食と夜の散歩はトムと一緒に過ごす。今夜はリラックスモード。金曜の夜はThe Dolphins、Cafe Alto、Bull Dogなど、Leidse Pleinのすぐ傍にある街の住民と観光客がドッと繰り出すクラブを回った。聞いたことのない言語が耳の間を飛び交って時差ぼけのふらつきもあって猥雑なループのようにエコーした。この夜はまずインドネシア料理の店(アムステルダムには非常に多く、しかも美味い)から始まり、座って話せるクラブで過ごした。もちろん、夜中過ぎにはそのような店にもその夜の最初の店としてやって来るパーティアー達で満員になる。

日曜日。午後も早いうちにトムのフラットへ向かう。Leidse Pleinに近づくとAjax Amsterdamの熱狂的ファン達がこの日のゲームの試合のために駆けつけていた。家族連れも多かった。Ajaxの旗に身を包んだ女の子とその母親。赤と白のチームのシャツとスカーフでお揃いの小さな男の子と父親。ハイネケンのカンに吸い付いているやたらに背の高い兄ちゃん達の間を、私はMDレコーダーで歩き回った。試合開始は四時。お兄ちゃん達はあと二時間ぶっ続けでハイネケンを飲み続けるのだ。後に私たちはこの試合の大切さを知った。オランダのプレミアリーグ優勝者を決める試合。そしてAjaxはNAC Bredaを2-0で破り、優勝を決めた。
この日、トムはダニエルを紹介してくれた。明るい気性のオランダ人女性で写真家。街のすぐ外に住んでいる。私たち四人は大歓声がわき起こるLeidse Pleinを後にしてKunst Raiへと向かった。Raiはビジネスショーなどが行われるヴェニューで、このイベントは主にオランダ、ドイツ、フランスなどの主流ギャラリーが毎年開催するビジネスライクな展示即売会だ。上記の「変な芸術家達」によるKunstvlaaiはこのイベントのちょっとした肩苦しさを嘲笑したパロディーなのである。変なといえばKunst Raiで展示しているアーティストの中には意味不明の作品もあり、それほどの差があるわけではない事が判明した。すでに有名になって成功しているアーティスト以外は、幸運にも評論家やギャラリーの目に留まったか未だに留まっていないかだけが違いなのだ。
アメリカと違ってどこにでもアートがある。私たちにとって今はそれが一番嬉しい。
トムは台北での仕事をこなすため、パリ発の便に乗ることに決めたようだった。月曜日、早朝四時のパリ行きの列車に彼はトランク三つを抱えて飛び乗った。グッドラック!アムステルダムでは本当に世話になった。有り難う。
2004年05月08日
アムステルダムを歩く

私がサンフランシスコと同じく愛するアムステルダムに到着して最初の数日は何もしない、というのが私たちの計画だった。国立美術館とゴッホ美術館に近い安宿Bed & Coffeeにチェックインした後、私たちはすぐ仮眠を摂った。通常の観光旅行と違って一日の過ごし方にプレッシャーがかからないというのは大きな利点だと実感した。私たちは観光スポットから離れた静かな道を水路に沿ってゆっくりと歩いた。バスを連ねてやってくる大勢の観光客と並んで歩く気には到底なれなかったのだ。そして、市民にとってのアムステルダムは、例えばアンネ・フランクの家からほんの一筋離れた道にその本当の情緒を醸し出す。
そんな道に、そして大通りにさえも私たちは個人所有の商店、つまりおじさんとおばさんが二人で営業しているような店がしっかりと、そして静かに繁盛している状況を見ることが出来た。日本では大都市でも珍しくない光景なのだが、現在のアメリカでは探さないと見ることが出来ないものなのである。つまり、一般にアメリカ経済のバックボーンと政治家が口癖のように言う市民によって経営されているビジネスは大手企業の暴力的とも言える力によって危機に瀕しているのだ。どこへ行っても看板やサインにはお馴染みのブランドネームしか見当たらなくなった。つい先日にも私たちはカリフォルニアからアリゾナへとドライブし、その光景を目の当たりにしたばかりだった。
アムステルダムのセントラール(中心街)では個人経営の商店やビジネスが活発に商売が出来ている。時にはオーナー達の笑い声があり、時にはひっそりと静かに接客している。生身の人がやっている商売だ、という嬉しい印象がそこにはあって親しみを感じるのは即時的だ。時差ぼけでぼーっとしている頭ででさえこの街の雰囲気に馴染めやすいのはそんな光景があるからだ。

スキッポル空港での観察。オランダという国がフレンドリーに受け入れてくれることは過去二度の経験で分かっていたが、今の世界状況であれほどまでにオープンだとは想像もしなかったことだ。飛行機を歩み出てから、アムステルダムのセントラルステーションまでの電車の切符を買うまで僅か20分。「旅行目的は何ですか?」とも訊かれなければ「滞在期間は?」も無い。私たちはただ旅券監査員にお早うを言ってパスポートを提出しただけである。監査員は私が日本のパスポートを持つアメリカの永住外国人であることを確認することだけはわすれなかったが。私たちの荷物に至っては誰も見ようとも触ろうともしなかった。
オランダの人々は一体何を「恐れていない」のだろう?
アリゾナからアムステルダムへ

アメリカから発つ前にリンの家族が居るアリゾナで数日を過ごすのは、確かに良いアイディアだった。休み無く費やした二週間と出発の間の数日がバッファとなった。最後の準備項目を少しばかり平静な頭と気持ちで片づけることができたのもスティーブとトレイシーがアットホームな環境を与えてくれたからだった。
私たちは砂漠と巨大なサボテンが立ち並ぶ丘の風景を楽しんだ。出発の前夜、満月がこれらを青く照らして美しかった。僕は少しの間その光の中で瞑想した。そのお陰で予想していた興奮の「前夜」は、すぐに眠りに就けたので短くはあったが深く休むことが出来た。
トレイシーは本当に親切だった。朝早くから私たちを空港へ送り届けてくれた上、暖かいハグで見送ってくれた。
空港内のコーヒーショップで、私たちは何故かとても平静だった。嵐の前の静けさか、私たちがただ疲れ果てているだけなのか、それともこの新たな現実がまだ浸透していないだけなのか。その理由はすぐにも分かるだろう。
旅が始まった。
家は空、胸は一杯

サンフランシスコベイエリアを車で出発する当日の朝、自宅は空っぽだった。一方、私たちの心と頭の中は感謝と興奮と別れの悲しみ、それにさまざまな感情が交わって一杯。
自宅を空き家にする過程ではデイブとモニカが疲れを見せない働きで助けてくれた。彼らは三日連続で夕方から夜遅くまで手伝ってくれたのだ。引っ越しは私たちの予想を上回る労働量だったため、彼らのヘルプは重宝した。大きな家具を運び出した日は、カヤとタシがサンタクルーズから駆けつけ、若い筋肉とエネルギーを提供してくれた。これらの友達にはいくら感謝しても足りない。
この家を買って以来10年住まわせて貰った。基本的なことなのだが、雨風や強烈な日差しから私たちを守ってくれ、心も体も和ませてくれた。住まいの守り神がいるように感じた。その10年間、無意識のうちにいろんなものをため込んでしまったようだ。リンは要らないものをeBayで売ったりして物を減らしていたし、私たちは基本的になるべく軽く住むように心がけていたのだが。生活する上で本当にこれらの物が必要なのだろうか?物、物、物。これらの物を倉庫へ移動する間に見るのも嫌になった。反面、このような気持ちになる機会を与えられたのは大変勉強になった。
その一方で、生きていく上で何が本当に大切なのかを感じた。言葉だけではなく、本当に感じたのだ。家族や友達が次々と電話をかけてきて、優しい言葉を言ってくれた。本当に恵まれている。この事は、おそらくこの旅の間にも再認識するであろう事なのだが、旅が始まる前にすでにその感情を経験したわけだ。
猫のウィローについては心を悩まされた。この猫は引っ越しの間に何かを察知していて、最終的には私たちがどこかへ旅立つのを理解したようだった。出発の前の数時間、彼女はリンの周りを離れたがらず、2メートルほどの感覚でリンの後に付いていた。確かにウィローは知っていたのだ。

この日の正午、私たちは出発した。アリゾナは遠く私たちは疲労困憊の体だったが、何とか突き進み、翌朝の2時にスティーブとトレイシーの住むフェニックス北部の家に到着した。砂漠の丘の麓にある素敵な家だった。
満月が近い。
2004年04月13日
ロブ&ジル宅でのお別れ会

ロブとジル夫妻がゴールデンゲートブリッジの北、マリンにある彼らの家で、ベイエリアに移ってすぐに出会った多くの旧友達との集いを催してくれた。旅の準備で細かな事に神経を使って疲れてしまっていたリンにとっては絶好のタイミングでの休日となった。私たちは共に友達と数時間リラックスできることをとても楽しみにしていたのだ。
ジルがリビングルームでリンのアートを展示してはどうかと提案してくれたので、レナタがどの作品を持ち込むかを選んでくれた。パーティー当日の土曜日、私たちは作品を車に載せ、マリンへと出発。到着後、リビングの片隅にイーゼルとビンを置き、作品を展示した。その日集まった友達は、10年以上も付き合ってきた中ではあるのだが、リンのアートを実際に見たことのある人はごく僅かだった。彼らは皆とても気に入った様子だった。私たちがこの旅から帰還した後に行うであろうサウスベイ[サンノゼ市付近]での展示会には皆きっと来てくれるだろう。
友達が集まり始めた頃、キャシーが私たちがこの旅で訪れる予定の場所をリストアップして壁に貼ればいいと提案した。このリストはそのまま世界地理のクイズになった。(アメリカ人は一般に世界の国名、地名に全く疎い。これで「世界の主導者」と自負しているのだからたまったものではない。)ロブとジルの娘、クレアが世界地図を持ち出して来て、大人達に助け船を出していた。誰も知らなかったのがアーメダバッド、バイカル湖、ウランバートルだった。

暫くすると、家中が親しい顔で一杯になった。それぞれが食べ物を持ち寄るポットラック形式の食事で、テーブルの上は満載。食事の前にはテーブルを囲んで皆が手をつなぎ、輪を作り、そしてウォンビーが私たちを見送るための素晴らしい言葉を伝えてくれた。ロブが「YOU GUYS ARE THE EYES OF THE WORLD(君たちは世界の目だ)」と付け加える。そう、あのジェリー・ガルシアも歌った「Wake up to find out that you are the eyes of the world(朝起きて君が世界の目であることを見いだすんだ)」。そう、私たちはそれぞれが皆世界の目、なのだ。
そうして夜が更けていった。さよならが交わされ、友達はそれぞれその家を後にした。朝2時になり、3時になった。そしていつの間にか朝4時半。リンは数人の女友達と話し続けていた。彼女たちはこのマジカルな時間を、霧に覆われたベランダにある暖炉の火の前で人生の深みについて語り明かしたのだ。

最初は友達と数時間リラックスするだけのつもりが、夜を徹したパーティーとなってしまった。結局私たちは日曜日の午後3時頃、ようやく帰路に就いた。疲れてはいたが、不思議にも素晴らしくリフレッシュ出来ていて、旅立ち前の準備の忙しさに戻れる気がしていた。友達よ、有り難う。あなた達は確かに元気になる愛とサポートを分けてくれたのだ。

Welcome!

グローバルフュージョンへようこそ!
まず始めに、励ましのお言葉、ご提案やご批判、旅先でのお勧め、そして募金を頂いた皆様に心より御礼申し上げます。このプロジェクトがここまで進行出来たのは皆様のお陰です。有難うございました。
さて、私たちは旅の準備の最終工程に入り、忙しい毎日である。
自宅は借り手が決まった。この件は、旅の計画決行に向けての大前提であっただけに胸を撫で下ろしている。
もうひとつ私たちを悩ませたのは猫のウィローの事だった。あの猫は家族の大切な一員である。わずか一年間とはいえ、この土地を離れる事が彼女に大きな影響を与える事になる事が心配だったのだ。幸いにも近所の一家がウィローを引き取ってくれる事になった。裏庭を隔てただけの違いだから、環境に大差は無い。その一家に彼女を紹介して以来、すっかり彼らになついているようなので大いに安心した。
私はこの二ヶ月間というもの本職のプロジェクトで多忙を極めていたのだが、そのプロジェクトもようやく完成した。会社には辞職願を提出し、4月16日金曜日がこの職場最後の日となる。
リンは私が忙しくしていた間に倉庫のスペースを確保し、ホテルの予約(アムステルダムでの数日間、モスクワとウランバートル)や旅行保険を手配し、さらに荷造りも始めた。彼女のiPodに、私たちの好きな音楽もロードしている。
来週月曜日の夜にはNorCal Fusion Bon Voyageパーティーと銘打ってローカルの音楽仲間達が集まってくれる予定だ。このパーティーはクラブのオーナー、3つのバンド、ひとりのDJ、オーガナイザ、展示するアーティスト達などが、全てある音楽関係のメーリングリストのメンバーによって行なわれるものだ。とても楽しみにしている。
この旅の最初の行き先となるアムステルダムへのフライトは5月5日。出発まであと三週間・・・
