2005年03月22日

小道の誘い

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ある風景が私を捕らえて放さないことがある。それは、他の人々には何の意味もなさず、ただ視界の片隅から一瞬のうちに消え去るものかも知れない。今回、それは単純な日常の風景だった。一週間、毎日飽きることなくその風景を見続け、その美しさに我を忘れた。私たちはラオス北部への入口、ヴァン・ヴィエンの町からさらに北へ4キロ行った小さな村にある有機農園で滞在している。メコンへ流れ込む清涼な水を提供するナム・ソン川の川岸に、その農園はひっそりとある。川を越えて西側には、中国の墨絵を思わせるような切り立った山がそそり立ち、その荒々しい側面には木々が思いがけない濃さで茂っている。

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川に面して立つ農園の小屋は、壁が無く見晴らしが良い。冷やしたオーガニックのクワ茶を味わいながら、私はそこから見える風景から目をそらすことが出来ない。川の向こう岸には一本の木が威厳を放って立っている。太く逞しい大枝を広げ若緑の葉に陽の光を受けながら、照りつける暑い日に嬉しい大きな陰を投げかけている。その根は土の上と地下に荒々しく走り、土手の側面をしっかりと握りしめながら、澄んだ川の水を思う存分吸い上げて繊維一筋一筋の糧としている。

そしてそこには川岸から土手の急斜を登ってその木の向こう側へと消える小道が這っている。石段もなく、ただ人々が通い慣れた土の道で、頭上は木の枝が覆っている。川の手前から見ると、夕方近い日の光が西から差し込み、その道を照らし、川の流れに反射してキラキラと眩しい。私はその小道を「誘う小道」と名付けることにした。もっともその道は、向こう岸の土手と背後の山の間にあるほんの小さな農地に至るだけのものだと知れているのだが。

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その風景はある時間になると水浴びに来る村人たちで賑やかになる。朝夕2度、村人たちは必ずここへ来る。乾燥した酷暑が続いていて、午後も早い時間、夕方の行水を待てない村の子供たちがこの川岸へやって来て川で遊ぶ。速い流れに乗って泳ぎながら発する彼らの無垢な笑い声が夕方まで絶えない。川向こうの農地で働く人々は、鍬を肩に載せ、歩いて川を渡る。日暮れも近い夕方になると、丸い石が広がる川岸は川の水を使いに来た村人で賑わう。洗濯したり赤ん坊を洗う母親たち。子供たちは身体を洗っているのか遊んでいるのか分からない。若い女たちはサロングに身を包んだまま身体を洗う。裸体を晒さぬように始終配慮しながらも女友達同士でにこやかなのが優美な印象を与える。

農園直営のゲストハウスには、宿泊客以外にも旅人たちが冷たい飲み物やオーガニックの食事に立ち寄る。彼らもこの光景に魅了されるようで、まるで瞑想に耽るように村人たちのこの日毎の営みを静かに見つめている。村人に加わって水を浴びたり子供たちと遊ぶものも多い。岩山のお陰で夕日が沈むのは早く、私たちは一足先に涼しくなり始めた夕方の光を楽しむ。

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町へ行く必要は全く無い。ナム・ソン川でチュービングを楽しむのも一案なのだが、私たちは農園に留まり、暑くなると浅い渓流に身を沈め、川が身体を冷たく流してくれる感触を味わうことが出来る。日が沈むとコオロギとカエルの大合唱が一帯を圧倒し、私たちは他の宿泊客と静かな会話を楽しめるのだ。

時はこうして正に夢のように過ぎていく。数日泊まるだけの筈だった予定が瞬く間に一週間になってしまう。この光景の中に「誘う小道」が見え、子供たちの笑い声と川の流れが聞こえ、満ちゆく月の光の中で木々の話し声が感じられるような、そんな澄み切った新鮮なエネルギーに満ちたこのオーガニック農園さえあれば、本を読むことさえも忘れてしまう。予定を変更して滞在を延ばさざるを得なかったのはむしろ自然だと言えるかも知れない。

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2005年02月23日

ミャンマーの人々

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ミャンマーにもっといたい。出国の数日前、私はそんな思いを抱いている。ミャンマーでの私たちの旅はスケジュール的にはかなり忙しいものとなり、限られた時間で回るために行程も典型的な観光ルートになってしまった。ヤンゴンから15時間夜行バスに乗ってマンダレイへ、そこからアイェヤルワディ川を船で遺跡の町バガンへと下り、そしてミャンマーの北東部にあるシャン州にある湖、インレ湖へとやって来た。そしてこの後ヤンゴンへと戻るのだが、この国の見どころをじっくり味わいながら回るには私たちの2週間の旅程は明らかに短い。しかし、ここにもっといたいと思う第一の理由はミャンマーの人々に他ならない。

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この国の観光は中国、タイやインドのようにフルに開発されてはいない。そのためか人々が観光客慣れしていないというのが良い。私たちを客と見て寄ってくる人たちはアプローチの際も、断って退くときもフレンドリーさとあきらめの良さがある。マーケットの闇換金の勧誘はしつこくないし、どこの国へ行っても問題が多いタクシーの運ちゃんも、多少交渉する必要はあっても実にあっさりしたものである。土産物屋の店員たちも接客はガツガツしたところがなく、客が買わなくても中国でよく見たように後ろを向いて顔をしかめ舌打ちすることもない。観光客が急増しているインドでは外人を見かけるのが珍しくないはずの観光地でさえもジロジロと見られたが、ここではそんなこともない。見られているにしても、目つきが「舐めるようなジロジロ」ではなくてどこへ行っても「人なつっこく眺める」という感覚なのだ。目が合って相手が無表情でもこちらから微笑みかけると、決まって恥ずかしそうに、そして嬉しそうに笑顔を返してくれる。このような環境では金が絡むことのない場面でも現地の人々と会話や文化交流がしやすい。

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加えて外国語に長けている人が意外に多いのも会話の質が高いことの理由だ。(ミャンマーはかつてイギリスの植民地でもあった。)私たちの旅は個人旅行だが、現地で出会った人々の中にはプロのガイドが多くいて、彼らとのうち解けた和やかな会話からこの国について多くのことを学ぶことが出来た。ミャンマーで外人相手のガイドになるには免許取得を必要とする。(ここで言うガイドとは、一般の運転手やインレ湖の船頭など客を連れて町や湖を案内する人々とは異なる。)免許取得には英語を始めとする外国語に加えてミャンマーの歴史や観光地とその周辺の知識が問われる試験を通過しなければならない。若い世代の間ではガイドは魅力的な仕事のひとつのようである。

その中に一際面白い男がいた。秀才肌の男で、留学したわけでもないのに堪能な英語をペラペラと話し、かなりのヴォキャビュラリーを持っていた。国の各地方の知識にも長けている。どうやってあれだけの英語を習得したのかという質問に、彼は「仕事がない時は必ず数時間CNNとBBCを観る。以前は辞書を片手に苦労したけど今はそんな必要もなくなった。あとハリウッド映画もDVDでたくさん観るよ。スラングや会話の仕方を学ぶのに最高なんだ。英語版の新聞も手には入ったら必ず読むようにしている。」どおりで今の世界情勢にも詳しく、アメリカや日本について突っ込んだ質問をしてくるはずだ。

彼によると、海外からマスコミを通じて入ってくるニュースはセンサーシップ無しで入ってくるという。ハリウッド映画もカット無し、モザイク無しで「ノープロブレム」なのだそうだ。「音楽だって同じ。汚いスラングが入ったヒップホップもオッケーだよ」と、彼は冗談交じりに言った。ミャンマーの政府は人々の生活に直結した問題を少しずつではあるが解決してきており、貧富の差はあるにしても現在は大きな問題ではない。国全体の生活水準も高まってきているようだ。ミャンマーは少しずつその扉を世界に向けて開きつつあるが、その過程がゆっくりなのはあくまでも混乱を避けるためのものだと言う。確かに腐敗はあるが、政治には腐敗はつきものだしそれはこの国に限られたことではなく、アメリカだってそうだろう、とも。

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インレ湖は、湖上の高床式家屋に住む人々が村を形成して活気ある生活を営むことで知られている。ニュアングシュエは、湖畔に位置し多くのツーリストが訪れるところでもあるが、町自体は未だに静かで、そこでは時間がゆっくりと過ぎてゆく。現地の人々が住む一帯を歩き回ると、そこで繰り広げられている彼らの生活をつぶさに見て取ることが出来る。彼らは古くからある基本的な価値観を今も保っている。コミュニティー内での相互援助と協力、そして真の意味での「家族の価値」がそこにはある。日常生活の核としての家族観はどこにも明らかだ。年上の子供たちが年下兄弟姉妹の面倒を見、世話をする。子供は皆家事手伝いをする。年寄りは体力が続く限り若い世代と共に働き、愛情とふれあいを与えながら知恵と知識を次の世代へと伝える。これらの基本的な言動がここではごく自然に行われている。家族内で見られるこのような姿勢は近所の人々やその一帯のコミュニティーへも広がっている。どこにでも共通しているのは笑い声と歌声である。

ミャンマーの人々は歌が大好きである。民謡、今流行のラブソングやロック、アメリカのポップソングなどを大きな声で歌う。道を歩いたり自転車に乗るとき、木陰でリラックスするとき、店番をしているときなど、何をやっていても自然に歌い出す。彼らの生活は確かに楽なものではないだろうが、その歌声は人々の心の内にある幸福を知らしめるものだと思う。そうでなければ、日も暮れて満月に照らされた夜の道で仕事帰りの人々があれほど楽しそうに歌を歌えるはずがない。

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私たちのミャンマーでの旅は短かったものの、その間に意外なほど多くの現地人たちと話し合うことが出来た。親しみやすく好奇心ある人々の気性と彼らの英語能力がそれを可能にしたようだ。前述の英語が堪能なガイドの男は、「ミャンマーの将来は明るい、それがこれから先100年かかるとしても、この国は立派な世界が認める国になる」と言って微笑んだ。政府自体が世界の非難を浴びている一方で、この国の人々が驚くほどの人間性を保って生きているのを見て、ミャンマーの明るい未来と世界的な認識よりも、むしろ私はこの人たちの今のあり方を世界は認識すべきだと思う。私は出来れば近い将来再びここを訪れたいとすでに考えている。

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2005年02月12日

タイを学ぶ

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バンコックの勝利記念碑から高架電車タナヨング(BTS)に沿って南北に走るパヤタイ・ロード。その一角に立つオフィスビルの側面を巨大なバナーが覆っている。現タイ国王、ラマ9世の肖像写真がハンサムに映る。遠くからでも容易に読める英語の見出しが「最も偉大な国王」と宣言している。国王の目は厳しさを帯びながらも優しく、タイ王国の明るい未来を見定めているかのようだ。事実、国王と王妃の巨大な肖像は大通りばかりではなく市内の至る所に見られる。彼の肖像は、時には王室の正式な軍服をまとって国民への奉仕を象徴し、時にはポロシャツとカジュアルなスラックスに愛用のカメラを首から下げた姿で国民にとって身近な存在であることを表現している。そして私たちは、バンコックを訪れるたびにタイの人々の国王への深い想いを感じる。

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これはタイ国内に限られているわけではない。海外在住のタイ人は祖国から遠く離れていても国王への愛情を持ち続けている。タイ料理の店に行かれた方は、店内の壁のどこかに国王と王妃の写真が掛けられ祀られているのをご覧になったに違いない。国王のタイ国民に対する誠志な想いと愛情が、国民の彼に対する愛情に反映されているのだ。

1970年代以来20年に渡る不安定な政情の後、タイは民主主義国家となり、現在国王には政治的権限は無い。国王は大きな混乱と多くの人々の流血を回避するために政治権力を国民に譲渡した結果、タイは民主主義社会となった。この時、国民の意志を誠実に受け入れた彼の行動は、人々が彼を尊敬して止まないことの数多い理由のひとつでもある。

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国王の宮殿を囲む壁に沿って、その内側に王室の地所とはまるでイメージが違う建物や牛舎、グリーンハウスなどが立ち並んでいる。そこは、国王が農業から現代産業の各分野で学習と実験を自ら行っている研究施設なのだ。タイの人々にとって有益なものとなる新たな発見があると、国王は王室直属の機関を通じて人々に「進言」し、多くのプロジェクトが成功している。例えば、彼の用水と土地使用に関する研究(国王が得意とする分野だと言われる)を基にバンコック郊外に貯水池と水路が建設され、かつて市内に多くあった水路の埋め立てが原因で頻繁に起こるようになった洪水が減少するという結果を生んだ。また、タイ北部の山々に住む少数民族に利潤の多い野菜や果物の栽培を奨励し、村人たちのアヘン栽培依存を減少させた。国民の肥満症を案じた国王は、誰もが参加できる習慣的な運動を広めるため、毎日夕方6時に国中の公園や広場などでエアロビクスを実施している。

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王室が人々の間で広く尊敬されると同時に高く評価されているため、タイ国民が王室の悪口を言う理由はあまり無い。イギリスや日本のロイヤルファミリーに見られるゴシップも無い。特に国王と王妃は文字通り神様のように崇められていると言っても過言ではないだろう。「現国王と仏教無しには今のタイは語れない」とも言われる。王室に対する無礼な言動が法によって禁じられているという事実があるにしても、この法律を自らの意志で犯すタイ人はまず見かけることがない。国王の肖像をかたどる物は全て神聖なもの(またはそれに近いもの)とされ、それにはもちろん印刷物とタイの紙幣も含まれる。例えばインドやアメリカでは破れたりすり減ったりボロボロになったお札が多いが、タイ人がお札を粗末に扱うことはない。タイの紙幣とコインは、その全てに国王や王妃の肖像が描かれているため常に丁重に扱われるのである。あるタイ人の男性に10バートコインの女性は誰だと尋ねると、彼は愛情をこめて大声で答えた。「あの方は私の王妃様です!」

このタイ王国を訪れるたびに、私たちはタイの文化の複雑さを感じさせられると同時に、少しずつではあるがより多くを学んでいるとも思う。この一週間の間に、私たちは幸いにも近所に滞在しながらタイの言語、文化、歴史を研究している人たちに出会うことが出来た。蒸し暑い夜遅く、一緒に飲みながら聞く彼らの話は、この国の習慣や伝統の知識に富んでいて非常に興味深い。

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例えば、タイ人の友達には絶対に刃物類の贈り物をあげてはならないという習慣を学んだ。刃物は友情関係を断ち切るという意味があるそうだ。もっとも、それを意図する場合は仕方がないことだが。赤インクで手紙を書いてはならない。赤い文字は死者に送るものだからだ。挨拶にも見ただけでは分からない複雑なルールがある。タイの人々は合掌して挨拶をすることがあるが、相手と場合によっては相手に身の狭い思いをさせてしまうことになってしまう。従って、我々外来者は勝手構わずそのような挨拶することをせず、相手のタイ人が合掌したときのみそれに合わせて挨拶を返すのがいいだろう。または、外来者は外来者らしくいつものように挨拶をする方がいいのかも知れない。

ある日の午後、私は町中の混んだ歩道を歩いていたのだが、そのとき一人の男の子が目の前に飛び出してきた。私はその子の背後に位置していて、誰かが後ろにいるという意味でその子の頭に手を当てて彼の注意を誘った。頭に見知らぬ人の手を感じた子供はいかがわしい表情で私を見た。タイでは他人の頭を触れるのはタブーである。頭部は身体の中では最も尊い部分とされ、生命力が宿る場所と考えられているからだ。またある日、ミシガンから初めてアジアを訪れたという若者がレストランで足を組んで座り、裸足の足の裏を無意識にウエイトレスに向けていたことがあった。それを見たウエイトレスの表情は即座にこわばり、足が向いていた方向から早足で去っていった。尊いとされる頭に対して足は不浄。それを人に向けるのは失礼だし、さらに僧や仏像に足をむけることは完全な非礼となる。

この他にもタイ文化のユニークな特徴がいろいろある。タイでは異性に興味を持たない男性に対する人々の姿勢が非常に大らかで、差別は全くないと言っていい。私たちが泊まっているゲストハウスの傍には技術系の大学があり、平日はその一帯が大勢の生徒で混雑する。道ばたの屋台に仲間同士集まって座り、パッドタイやサテーを食べジュースを飲みながら話し合っている光景はこの近所の日常だ。それに混じってコーヒーを飲んだり食事をしながら男女混じり合って雑談している学生たちを見ると、女装している男の子が多いのが目立つ。東南アジア系の細身にぴったりとした女学生の制服を着て少々化粧もしている。男だと分かるのはハイヒールのサイズが大きいことや手の大きさによるくらいなものだ。「カトイ」と呼ばれる女装男性たちは、タイのエンターテイメントの世界では長年の間築き上げられてきた確固たる存在で、人々の間では広く受け入れられている。これらの若い男性たちはそのオープンで大らかな環境の中で自由に自己表現できるのだ。

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タイは、今までに繰り返し訪れてきたという個人的な理由で私たちにとってはユニークな存在だ。インドから帰還した今回の入国を含めるとこれで5回目、来るたびにこの国とその文化について少しずつ知識を深めていると感じている。新たに知る情報は、それぞれがいかに些細なものであっても、この国だけではなくいかなる文化について常に何か新しいことを学ぶことが出来るものなのだというむしろ当たり前のような教訓を想い出させてくれる。この事は、どんなカルチャーを知る上でも常に目と心を開いていなければならないということでもある。この単純な事実は、おそらく文化を学ぶという行為の原則なのだろうと思っている。

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2005年02月02日

「ミスター・シッダウン」

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彼の本名は知らない。いつか尋ねる気になるかもしれない。それまでは「ミスター・シッダウン」というあだ名で彼を呼ぶことにしている。毎日夕方6時頃、彼の黒いおんぼろトラックが角のセブンイレブンの真ん前に停まる。そこが彼のスポットである。暫く道具を並べたり準備したりした後、トラックの後ろでラーメンを作り始める。夕食の時間だ。腹を空かせた近所のタイ人たちが群がってくる。バンコックを訪れるときはいつもここが私たちのご近所さんとなる。私が彼の屋台へ食べに行くときばかりではなく、ただセブンイレブンへ行く道でまえをとおりかかるだけでも、彼は笑顔になりあの優しいタイ訛りの英語で「シッダアァァウゥゥゥン」と手招きする。これが私がこの愛すべき老人のあだ名の由来だ。そして彼のタイ風ラーメンは最高に美味い。

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一杯のラーメンを作る最初のステップは麺とワンタンを茹でることから始まる。バンコックでラーメンが食べられる屋台では、普通細い米麺、太めの米麺、中華麺、そして(なぜかは理解に苦しむが)インスタント麺などから数種類の麺から選ぶことが出来るのだが、ミスター・シッダウンは中華麺だけを使う。一杯に4個入れる自家製のワンタンは豚肉入りだ。次に椀の底にさまざまな材料を入れる。タイのホウレンソウ、刻んだ青ネギ、皮ごといぶしたニンニク、野菜の漬け物を少々、油で揚げた豚の脂、そして一口サイズに刻んだ大量のチャーシュー。タイ風フィッシュソースと酢を少々。麺とワンタンが茹であがると水を切って椀に移す。豚からとったコクのあるスープをかけ、油で揚げたワンタンの皮を上に載せて出来上がりだ。客は好みによって一味唐辛子、フィッシュソースと酢、生の唐辛子を漬けた酢などを加えて食べる。

数年前初めて食べてからというもの、私はこのラーメンにはまっている。私よりもバンコックに詳しい外人たちに訊いても皆口を揃えてこのラーメンが街で最高だと言う。その秘密はやはりスープにあるようだ。コクがあって食べた後の満足感を促するような味を出すのにも、彼は「味の素は使ってないよ」と念を押す。肉をほとんど口にしなかった(そして口にしたいとは思わなかった)3ヶ月間のインドの旅の間に、この「豚オンパレードの一杯」を夢見ることが何度もあった。このラーメンは夕食によし、夜食によし、時にはその両方にしても私は構わない。

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客層にはタイに詳しい西洋人のトラベラーも多い。その一人はタイにはこれまで16年間訪れてきたタイ語と東南アジアの研究者だった。タイ語を操る彼に通訳を頼んでミスター・シッダウンにいくつか質問をしたのだが、彼はこの同じ場所で30年ラーメンを作り続けてきたそうである。始めた当初はこの一角も密集していたわけではなく、数軒の家しかなかったのだが、そばにある市場で賑わっていたらしい。車やバイクもはしっていなかったという。当時は一杯2バートだったラーメンも、時が変わり30バート(米ドルで75セント)になった。最近は忙しい夜は大人になった娘が手伝いに駆けつける。だが、ラーメンそのものは変わることなく、毎日多くの客が食べに来て満足して帰ってゆく。

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夜中を過ぎるとしばらくの間ミスター・シッダウンの屋台に客が見られない時間帯がある。彼の休憩時間だ。ビールを飲んで近所を見渡す。少々飲み過ぎると目が眠そうにトロンとなる。夜明け前、運搬トラックの運転手たちが腹を空かせて市場に到着する。バンコックのどこかで飲んでいた外人たちも夜食を探してやって来る。中には、ミスター・シッダウンのラーメン目当てにわざわざ街の反対側からやって来る人もいる。タイでの旅の最後の夜、次の旅先あるいは祖国へ帰る前に美味いラーメンを食べてから、というトラベラーまでいる。店終いは朝3時。何人もの深夜の客が来る。彼は家に帰って眠り、明日またこの同じ場所で同じラーメンを作る。バンコックの風物詩のひとつである。

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2005年01月19日

ハンピで「ホームステイ」

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ハンピはかつてインド史上最大のヒンズー帝国、ヴィジャヤナガルの首都があった土地にある観光地だ。この町のどこにいても望めるヴィルパクシャ寺院へと続く道ハンピ・バザールとトゥンガバードラ川の間にこぢんまりと納まっている小さな町である。今年のサンカランティ祭は、今月13日と14日に行われ、それを祝う多くの巡礼者たちがここ一帯に数ある寺院とトゥンガバードラでの沐浴にやって来ていた。低コストの宿泊を提供する多くのゲストハウスやダールマサラでリラックスするインド人と外来の観光客も加わって、この小さな町はかなりの賑わいを見せている。ハンピではそれでもゆっくりと時間が過ぎてゆく。訪れる人々もゆったりと周囲に広がる遺跡を探索している。私の場合、この町はマラリアが回復した後の休養地として最適の場所だった。

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周囲の環境はとてもユニークで、自然と人間が作り上げた驚きだとも言える。岩に覆われた地形とその間に点在する石彫刻に覆われた遺跡がまず全体的な色合いを定めている。巨大な岩がまるで巨人がばらまいたように危うく、美しく重なり合い何とかバランスを保っている。アリゾナ州のセドナやユタ州に見られるような風景と色だ。この地形の間にゆっくりと川が流れ、その西側には田んぼやバナナ農園やココナッツの林が淡い緑を添える。南側には岩をうがって彫り上げた寺院や石柱があり、その側面には初期のヒンズー教に見られる神々が洗練された技術で浮き彫りにされている。雲が少なく、青空が常にこれら全てを覆っている。日中は乾燥した鋭い日差しが暑く、何をする気にもなれない。私たちは日の出前後には起床し、朝食前に遺跡やバナナ農園や川の畔の畑を歩き回り、朝食後は夕方まで特に何もせずゆったりと過ごし、出かけたとしても大きなマンゴーの木の木陰でチャイを飲みながら寝そべるという生活を続けている。

宿泊しているのは、家族経営の宿泊所だが、ゲストハウスやホステルと言うよりも家族が住む家の一室と言った方がふさわしい。ハンピ・バザールから二筋ほど路地を入った所にあるこの家の周囲は一般家庭が住む現地の住宅地で、商店などは少ない。家の屋根からは繊細な石彫刻が白く浮かび上がる高さ50メートルのヴィルパクシャ寺院塔を真傍に望むことが出来る。部屋は小さな窓とやたら堅い鉄製のベッドがあるだけのごく基本的なものだ。ほんの30メートル足らずの路地にあるこの家の近所はお互い誰もが知り合いで何でもざっくばらんに話し合ったり井戸端会議をよく見かけるような、いわば長屋のような雰囲気だ。観光客目当ての売り込みたちが割り込んでこない静かな場所である。遺跡や周囲の環境の色合いが美しいこともさることながら、私たちが気に入ったのはこのご近所の人の良さと心地良さだった。

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この家族は柔和な笑顔を漂わせながらそれぞれの日課をこなしていく。奥さんは、門前の地面に広い砂を使って毎朝夕異なった幾何学模様の「ランガヴァリ」を描き、私たちの目を楽しませてくれる。多くの家の前でも二枚に描かれるこれらの模様は、シンプルなものから複雑なものまでバラエティーに富み、砂埃や動物の糞やゴミが目立つ歩道に美しいアクセントを添えてくれる。奥さんは、その日のランガヴァリを描いた後、香を焚き、鉢に赤、サフロン、白のティッカ粉を用意する。そして家中の扉と格子を掃除しながらそれぞれを香の煙で浄め、ティッカ粉で飾りを塗りつける。ご主人はどこかの銀行のマネージャで、毎朝9時半頃から丸1時間かけて熱心にヒンズー教のプジャ(祈祷)を行い、遅い朝食を食べて11時頃悠々と仕事に出かけていく。奥さんはその日のお浄めの後も掃除、洗濯、洗い物、宿泊客の世話、ゲストハウスの掃除などに忙しい。息子はここから13キロ離れたホスペットという街の商社で忙しく働く会社員だ。宿泊し始めて直ぐに私たちはこの家族とうち解け、ゲストハウス経営者と宿泊客との関係には留まらないお付き合いを楽しむことが出来た。

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息子のチャンドラがこの一帯で最も日の出が美しく見えるマタンガ丘に登ってはどうかと勧めてくれた。翌朝、彼は早起きをして、出勤前に丘の頂上までガイドしてくれた。奥さんが夕食に招待したいと言うので、ごちそうになった。チャパティ、バナナ・シカラニ(バナナをヨーグルトと砂糖であえたサラダ)、サンバー、スブジと呼ばれる野菜料理二種がテーブルに並んだ。何ヶ月も食べているレストランや食堂の料理とは全く異なり、やはり家庭料理は新鮮な食材と作る人の思いがこもっていてエネルギーが違う。夕食の値段を尋ねたら払う必要は無いという。私たちの狭い部屋では何も出来ないだろうと、母屋のダイニングルームを仕事場として使わせてくれた。リンの誕生日には朝食に彼女の好きなイドリとチャイも作ってくれた。一泊250ルピー(約600円)という安い宿泊費が申し訳ないような待遇である。

3ヶ月近くインドを旅してきたが、知り合いがいない場所で現地の人々と金と商売が絡まない会話が出来る機会はごく稀である。この国でのフレンドリーな会話は我々が「暫く話していればそのうち何かを買う気になるだろう」というビジネスの期待が常にその背後にあるからだ。買わないと分かった瞬間にあれほど振りまいていた笑顔が消え去るのをインドでは何度も見てきた。すぐ傍のハンピ・バザールでもすでに何度経験したことだろう。それとない現地の人々との会話がいつの間にか売り込みに変わり、私たちが興味を示さないとコミュニケーションは遮断され、売り手の目はすでに次の獲物を物色している。それだけにこのハンピの家族のようにビジネス関係の枠を越えて、真にフレンドリーなコミュニケーションを通わせる機会に巡り会うと嬉しく、正にこれが予定より長くこの町に滞在することにした理由だ。ハンピはインド国内でもよく知られる観光地だが、一方では観光地であり過ぎるこの町でも、この親切な家族の家に泊まり、朝早い内に周囲の遺跡を探検するだけで、雑踏と呼び込みの声を免れることが出来た。その上で、ハンピは私たちが訪れたインドの多くの場所の中でも最も印象深い町だと言える。

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2004年11月07日

ガンガに浸かる

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ガンジス川、現地の名はガンガ。ヒンズー教徒にとってこの川は聖なる川または水であり、インドそのものの母であり、存在の源である。ガンガが流れる聖地としてはインド北部のベナレスが広く知られていて、多くの観光客や旅人たちがこの国を代表する文化や風習を見ようと集まる街らしい。残念ながら私たちのインド滞在予定にはベナレスを組み込むことが出来なかったが、ウッタランチャル州にある二つの街でこの川と人々が織りなすスピリチュアルな光景に接することが出来た。共に観光客が比較的少ない街である。

ハリドワルはガンガがちょうどヒマラヤ山脈からデリーを擁する大平野へと流れ出す地点にあり、数あるインドの聖地の中でも最も重要だとされる。また、ハリドワルは宗教的な祭りの中でも世界最大と言われ12年に一度行われるクンブー・メラのサイトでもある。インド国内外からの巡礼者も後を絶たない。街そのものはそれ程大きなものではなく、インドでは比較的静かな所だ。ガンガの水は澄んでいて、ドキュメンタリーなどで観たベナレスの水に比べて清潔さでは格段の差があるようだ。

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この街の大きなガート(沐浴場)で人々は聖なる流れと神々に祈るだけでなく、ありとあらゆる日常生活そのものを営んでいる。私たちの通常の生活では常に家の中や壁の向こうで行われている行為、特に水を必要とする仕事がこのガートでは公然と、しかも全てが同時進行で繰り広げられていた。この場所で人々が表現する感情にも喜怒哀楽の全てが同時に見て取れた。その光景は驚きであり神秘的であるとともに、ユーモア一杯でもありサイケデリックでもある。(逆に、日本人や西洋人にも共通の「日常」は、それを全部同時にさらけ出してしまえば驚きとなり得るものなのだ、とも言えはしないか。)

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ハリドワルの北東約25キロにはリシケシがある。今日ヨガや瞑想の中心地であるこの小さな街は、1960年代にビートルズが彼ら(特にジョージ・ハリソン)のグル、マハリシ・マヘシュ・ヨギを慕って訪れた場所として世界的に知られることとなった。熱心なヒンズー教徒にとっては、ヒマラヤ山中にある巡礼地へ向かう拠点となる。インド北西部は11月でも暑さを感じるのに比べ、ガンガに臨む谷に位置するこの街では毎日夕方から朝にかけてヒマラヤからの強風が吹き、夜はかなりの寒さを感じた。

夕日が沈む頃には花、お香とロウソクを聖なるガンガに流して祈る人々で川縁が賑わう。この儀式は「ガンガ・アールティ」と呼ばれ、リシケシュだけではなく、ハリドワラはもちろんインド各地の聖地で行われるものだ。川の流れ、鐘の音、人々の祈り、川岸で奏でられる音楽が聞こえる中で、巡礼者たちが油に灯を点して念願だった祈願を唱えるのを私たちは無言で見つめていた。

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ある友人がここに来るのを勧めてくれたこと、中国の昆明で出会ったトラベラーが「ベナレスには行かなくてもリシケシはインドへ行く度に必ず訪れることにしている」と言ったことの理由が分かるような気がする。リシケシでの二日目、自分たちもガンガの水で身を清めようと散歩に出かけた。渓谷に架けられた吊り橋を両岸にあるアシュラムを見ながら渡り、川の上流に向かって少しばかり歩くと大きな岩の合間に砂浜が点々とある場所が見つかった。下流では広くゆったりと流れるこの川も、ここではまだ渓流である。谷間のガンガは恐ろしく深く、流れは速く、そして水は冷たい。川から上がった後、稚拙ながら気功をやってみた。強く乾いた日差しの中にもかかわらず、ガンガの清い流れのすぐ傍で感じたエネルギーは静かで冷ややかな清浄力に満ちたものだった。ふと見ると数人の旅行者たちもそれぞれのやり方で瞑想に耽っていた。

ヒンズー教徒ではない人々までが惹かれるこの地もある程度の騒音は免れないが、カオス的なインド各地の街にはない精神的な静けさがある。ヨガや瞑想を学ぶもよし、川岸で日光浴をするもよし、旅の疲れを癒すもよし。目的が何であろうと、ここにはヒマラヤの麓を流れるガンガが人々を招いているような気がする。

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2004年09月24日

古城のオアシス

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バスで麗江を出発した私たちは、大理に関してはそれほどの期待を抱いてはいなかった。四川省と雲南省を代表する「名所」からは、ある程度の楽しさを得ることは出来ても文化や人々の生活から大きな発見は無かったからである。大理では一体何を見、何を得ることが出来るだろうか、と少々不安さえ覚えていた。大理滞在は一泊か二泊に止め、中国最後の訪問地である昆明に落ち着こうかと考えたこともあった。

大理の古城を訪れる人々は、古い街並み、背後にそびえる蒼山や前方に広がる湖、耳海などの自然、大理王国時代に建てられた三塔などを主に楽しむ。「外人通り」と呼ばれる道には西洋人のトラベラーを対象としたゲストハウス、レストラン、カフェ、商店が集中するスポットがあり、外人観光客で賑わっている。そこには中国人観光客も押し寄せ、西洋人のトラベラー気分を味わっていた。

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そんな中で私たちの関心を捕らえたのは、現地の若者たちが静かに定着させつつあるカルチャーだった。この若者たちがごく自然に築いたこのコミュニティーは、現地の中国人と中国在住の西洋人との集合体である。中国人の若者たちの中には現地出身者もいるが、北京や上海から移り住んできた人たちが多い。移住してきた若者は口を揃えて「中国国内のいろんなところに住んだけど、面白いと思う人々に出会ったのはここ大理だった」と言う。私たちにとってもこれほど自由で、しかもほとんどの中国人とは異なる人々は彼らに出会うまでは見なかった。

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この中国と西洋のハイブリッド集団の中で、彼ら独自の思想と生き方、音楽、アート、人付き合いや会話が生まれ、一人歩きを始めた。この関係は、中国人の若者たちが「外部」、つまりアメリカやヨーロッパのトレンドや考え方を受け入れているという一方的なものでは決してない。彼らの関係はあくまでも同等であり、お互いから学びサポートし合うことでこの街独自のカルチャーを形成しているのである。

大理は観光地として広く名を知られるわりには非常に静かな街である。さらなる開発への動きは確かに見られるものの、街全体が観光開発の対象となった麗江などと異なり、賑わっているのは今のところ街の一部だ。この環境で大理の若者たちは主に観光関連の商売をしている。つまり、ゲストハウス、バー、カフェの経営しているわけだ。ここで面白いのは、彼らはコマーシャリズムの波には乗ろうとはしないことで、自由を確保出来ればそれで満足なようなのだ。

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その結果、私たちのような訪問者にとっては非常にアットホームで暖かい環境に受け入れられるという印象がある。数週間中国国内を渡り歩いた後大理に着いたトラベラーにとってはなおさらだ。通りかかる旅行者がこのコミュニティーと接触し、同調する機会を持ち、情報交換が行われる。私たち旅行者の休息地として長年続いて欲しいと思うオアシスがそこにあった。

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2004年09月17日

リンゴとひまわりの種

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雲南省は山が連なり、豊かな自然と肥沃な土壌に恵まれた土地だ。広大な中国の中でもユニークな特徴を持つこの一帯は、チベット、ミャンマー、ラオス、ベトナムとの国境を持ち、漢民族以外の文化を見ることが出来る地域でもある。点在する街と農村には様々な少数民族がそれぞれのコミュニティーを持ちながら、中国国民として生活している。雲南省にはシュアン、フイ、イ、ミアオ、チベット、モンゴル、ヤ、バイ、ハニ、ダイ、リス、ラフ、ワ、ナシ、ジンポー、ブラン、プミ、ヌ、アチャン、ジヌオ、ドルングなど25種族の少数民族が住んでおり、その中で麗江旧市街の観光産業に関わっているのはほとんどがナシ族だが、郊外の農村にはバイ族も住んでいる。

麗江の西南約75キロにあるバイ族の村、九河ではちょうどその日市場が開かれていた。市場では村人が必要とする日常品が売買されていて、特に民族特有と呼べるものはない。変わったものと言えばそこに迷い込んだ私たち自身であろう。そんな私たちを見て人々は屈託のない笑顔を見せてくれる。「試しに食べてご覧なさい」と手招きされて、私はおばさん二人が売っているコンニャクを食べてみた。一皿四切れで五角(日本円で五円)。日本のコンニャクよりも柔らかくジェリーの様で、大豆の甘さを少し味わった後、噛むまでもなく口の中で溶け、香辛料の後味が残る。

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市場を歩いていると子供たちが騒ぎ始め、私たちはいつの間にか大勢の子供たちに囲まれてしまった。デジカメを向けるとこれほど楽しいことはないかのようにはしゃぐ。子供たちに撮したデジカメ画像を見せるともういけない、次の画像に入りたいと大騒ぎになる。小学校の休み時間だったのだろうか、それとも授業を抜けて来ていたのか、先生が待つ校門の前に辿り着くと名残惜しそうに教室へと戻っていった。

穏やかな初秋の一日。ここ数日は雨続きだったが、この日も雲は多いものの太陽が顔を見せている。秋の収穫、特に米の収穫は間近だ。古い家屋の前では人々が集まって話し合っている。村全体が忙しくなる前に人々がゆったりと集える一時と言ったところだろうか。

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ナシ族の村、拉市は九河から麗江への帰り道にある。村はリンゴ樹園の中にあるのかと思うほどリンゴの木が多く、その枝は赤や緑の実で重い。昼下がりの静かな時間、女性たちは村の中心にある腰掛けのある交差点に座り、手仕事をしながら井戸端会議に花を咲かせていた。ここでも村人たちは東洋人の男とアメリカ人女性というおかしなカップルに警戒心を感じさせない大らかな笑顔を見せる。

二人の老婆が彼女たちの自宅へと招待してくれた。私たちが訪れた二軒の家はそれぞれ立派な門を持っていた。門を過ぎ、20メートルほど歩くと家屋に囲まれた中庭がある。門に近く、北向きに建てられた小屋は豚や鶏の家畜が飼われ、番犬が彼らを守り、中庭の奥に人間が住む南向きの母屋が建っている。南に向かって左右の建物には子供たちとその家族が住む。

中庭は綺麗に整理されていて、クルミの木などの植物が鉢に植えられ、その広い地面にはトウモロコシとひまわりの種が干してある。老婆たちは中庭を見渡す縁側に私たちを座らせ、新鮮なリンゴとひまわりの種を勧めてくれる。大量のひまわりの種を私たちのポケットにまで突っ込んでくれた。家畜と番犬に囲まれて、私たちは彼女たちの話を聞く。

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この二人の老婆それぞれの長い人生は、中国の近代史並びに現代史を反映して変化に富みかつ複雑である。彼女たちは農民であることで文化革命を乗り切り、亭主が亡くなった後もそれぞれの家族を守りきった。今は子供や孫たちに囲まれながら農作業に励み、静かにゆったりと過ぎる時を楽しむ満足な生活を送っているようだった。何にも増して笑顔が彼女たちの幸福を語っていた。

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2004年07月10日

祭典前夜

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モンゴル最大の祭典、ナーダムを三日後に控え、私たちが到着したばかりの街は活気に満ちていた。幸い今回の宿もホテルではなく、間取りの広いアパートを借りることになった。多くのホテルと観光客が集中する中心街から暫く歩いた場所で、周囲は一般市民の住宅街だ。市場もすぐ近くにある。外国人はたまにしか見かけない、ウランバートルのアーバンライフのただ中にいるという実感がある。

ナーダムは相撲、乗馬、弓矢などを競うモンゴル版オリンピックとも言える競技大会が中心だが、モンゴル人たちにとっては大切な祭日であり、人によっては一週間の連休でもある。正月よりも大きな祭日週間といっても良いだろう。近所の市場はナーダムの数日前から祭日を祝う料理の準備をする人たちで賑わっていた。アパートの玄関から少年がお金を握りしめて飛び出していく。数分後、彼はパスタ二袋と正体不明の食材を持ってアパートビルの中に飛び込んでいった。使いっ走りとはよく言ったもので、私にはどこか懐かしい風景だが、アメリカでも日本でもそんな光景は近頃全く見た覚えがない。

ナーダムの前夜、アパートの門前で夕涼みをしていた私の前に一台の車が止まった。太った中年女性が大きな買い物袋を下げて降りてきた。それに続いてその亭主と思われる男性が一頭の動物を車から引きずり出した。生きた山羊だった。そして、彼らは近所の人たちの手助けを借りてその山羊をアパートの一室まで引きずり上げたのである。通常のアパートが屠殺場になり得るとは想像もしなかった。新鮮な肉であるには違いない。しかしその後三日間、この山羊の死臭がアパート中に充満したのには大いに閉口した。

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モンゴル人の食べ物は主に肉で、大量の山羊、羊、馬、牛などを消費する。市場の周辺には動物の肉の臭いが充満している。ボロボロのロシア製ワゴン車の荷台には頬肉まで削がれた馬の首が横たわって笑っていた。大きな骨が路上に捨てられていたり、肉売りの露店のテーブルの下には山羊の首がごろごろ転がっていたりするのは通常のようだ。そのテーブルの上にはありとあらゆる肉と内臓が転がっていて、人々は喜々として雑談しながらそれを品定めをし、買っている。私たちの感覚では壮絶な風景と言わざるを得ないが、日本では頭付きの生魚やまだ動いている伊勢エビなどが新鮮な食べ物だと見なされるのだから、それと同じ感覚だとも言える。

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2004年07月04日

ミステリアスなシベリア

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ユーラシア大陸をさらに東へ。6月29日、シベリア横断鉄道でモスクワを出発した私たちはバイカル湖の畔にあるシベリア随一の都市、イルクーツクへとやって来た。列車がこの終点駅に到着したのは7月3日、朝九時半だった。

イルクーツクから車で約一時間、バイカル湖岸を走って着いたのがリストヴィアンカという小さな湖畔の街。湖から丘へと登る道路沿いの集落の中に私たちの宿がある。バイカル・カルチャー・センターとアート・ギャラリーに隣接したログキャビンがそれだ。

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その周囲は遅い初夏の新緑が爆発したようだ。淡い緑の野草。紫、白、黄色、オレンジ、ピンクの彩りで野花が咲き誇る。その間を強い鉄分を含んだ小川が流れている。草地を挟む丘には針葉樹と白樺が濃く茂り、風が吹くと緑に波立つ。そんな景色の中にバイカル湖が冷たく広がり、広大な水面からの靄の向こう、五十キロ彼方の対岸には山々が連なっている。

バイカル湖は地球上の淡水の20パーセントを有する巨大な湖である。水面面積は大きくないが、その深さは1,600メートル以上に及び、世界で最も深い。

地殻変動でアザラシが閉じこめられて世界でも稀な淡水生物に進化した。その水は清々しく澄んでいた。湖底に生息する微生物やエビが有機物を処理する役目を果たし、水質の維持に貢献しているという。湖畔を歩くと風が寒い。夏の盛りでも水温が15度前後の巨大な水冷機が目の前に横たわっているからだ。冬の厳しさが初夏の湖を見ているだけでもゾクゾクと感じられる風景だった。残念なことに、環境保護に関しては全く粗野なロシア人観光客たちが美しい景観が見られる水辺でも、そして波止場でも平気でゴミを捨てていた。

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人々の表情はむしろシベリアの小さな街の方が穏やかだという印象を受けた。この宿の料金は朝食込みだが、それを食べるのはお隣のおばさんの家だった。お早うございます、と入っていくと笑顔で出迎えてくれ、さあさお食べなさいといろんな料理を持ってきてくれる。ロシアン・ホスピタリティーというのは、これなのだと初めて知った。おばさんの家の裏手には自らの手で耕した畑と菜園がある。やはりジャガイモが最も広い面積を占めていた。主にトマト栽培用の温室もあった。摘んだばかりのレタスが二種類、朝食のテーブルに出る。

おばさんの家のお隣には老婆が孫娘、孫息子と住んでいる。芋畑で働いていた彼女は、写真を撮って良いかどうかと尋ねる私たちを自宅に招いてくれた。長い長い冬の間、彼女は農民から画家に変身する。シャガールのようなモチーフで、自画像とごく身近な対象を素朴だが意外に現代的なタッチで描いている。

アート・ギャラリーは残念ながら一年ほど前に焼失してしまった。カルチャーセンターの世話役さんは自らの手でその再建に忙しい。焼け残った絵の数々は臨時施設で展示されている。その内容には全く期待していなかったのだが、覗いてみると素晴らしい発見がそこにはあった。シベリアの人々のイマジネーションは実にミステリアスで、時にサイケデリックでさえある。今も展示されている絵の中にはオリジナルのアイディアとメルヘンや童話のようなデザインに富んだ作品が多い。ロシア独特のイコンを描くテクニックをモダンに応用し、曼陀羅のようなデザインにも目を見張った。

ほんの三日間ではあったが、リストヴィアンカでの滞在で美しくも厳しい自然の中で営まれるシベリアの人々の、静かでミステリアスな生活をほんの少し垣間見る事が出来たように思う。

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2004年06月21日

スイス人の誇り

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「スイス人はとても『特別』なんだよ、」とカフェのオーナーは言った。バーゼルへ出発する前夜、ベルリンのある素敵なカフェにもう一度立ち寄った時だった。誇り高いスイス人を少々皮肉って表現したようである。私たちはバーゼルと、リヒテンシュタインとの国境沿いにある田舎町、ブークスに一週間滞在した。その間、私たちはスイスの人々はやはり特別だと感じたのだ。その感想に皮肉は込められていない。

この国が持っているのは、基本的に世界に知られる美しい風景だけである。資源と呼ぶべきものは木材以外にはない。彼らはスイスの国土を愛情をもって保護し、世代を通じてその価値を教育し、誇りとするに至ったのではないだろうか。もちろん、銀行や時計については誰もが知っている事実だが、それらは後に先見力ある国のリーダーたちによって戦略的に追加されたものだと考えられる。

今回訪れたブークスも雪を頂く山々に囲まれた美しい街だった。空気が美味い。小さな噴水が至る所にあって、街の人々はその水で喉を潤す。この水も冷たくて美味い。ここを訪れたのは、リンが地元の写真家、ジャック・レコウトレ氏とアート作品を一点共同製作するためである。

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ジャックは、創作の間も私たちをアウトドアへと連れ出したかったらしく、二度ほど車でハイキングに連れて行ってくれた。実に美しい場所である。そんな場所へ行くのに街から車で坂をゆっくり登って三十分ほどしかからない。観光地化されていて幻滅することもない。あるのはアウトドアを楽しむ、主に地元の人々をビールとリンゴジュースとソーセージで歓迎する大きな屋台のようなレストランだけである。視界の内にあるものが、全て自然で健康で素晴らしく美しい。ジャックは、その森と牧場と小さな湖のある場所で育った。息子のヤンニックもジャックに連れられて毎週のようにハイキングをしながら育っている。

私たちがスイスの人々はやはり特別だと思ったのは、彼らの愛国心が国土とその自然への深い愛情を大前提としており、今もそれを貫こうとしていると感じたからだ。

そのスイス人も、現在のエネルギー資源やそれに関連する世界政治、地球温暖化などのグローバルな現象については極度に敏感である。思案深い表情でジャックは言った、「五十年後に石油は枯渇する。その時我々はどうするか・・・僕が最近絶えず考えているのはそのことなんだよ。」

Posted by taro at 11:55 | Comments (0)

2004年06月11日

ベルリンのホットスポット

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ベルリンに着いて五日間、私たちは滞在しているアパートの周囲一帯からあまり出ることなく過ごした。ベルリンの壁が崩壊する以前は東ベルリンだった所だ。この近所はカジュアルでトレンディー、またはファンキーなカフェからパンクが集まるヴェジタリアン・カフェ、ビアガーデン、ヘルスコンシャスでエスニック色も豊かなレストランの数々、インデペンデントのブティックやギャラリーが集中していて、なかなか面白い所なのだ。毎日、この近所のどこかで何かが行われている。私たちは着いたその日からすっかりここが気に入ってしまった。

若い世代を中心とした人々が住んでいて、彼らの表情は想像していた以上に明るく、フレンドリーである。春の日差しが射すと彼らはカフェの路上のテーブルに集まり、穏やかに微笑みながら静かに話をする。私は、パンクカフェのお兄ちゃんにさえも見られるこの穏やかさが大変気に入っている。もちろん誰もがそうであるわけではないのだが、例えば人出が多い週末の夜の路上や、DJがいる混んだカフェでも、この穏やかさが全体的なのだ。

ベルリンの人々の表情や態度の明るさや味わいのある穏やかさは、ベルリンの壁の崩壊後、表面に現れてきたものなのだろうと想像している。十九世紀半ばから戦争を続け、ドイツ帝国が成立し、第一次世界大戦を経験し、その大戦の莫大な代償を払って餓え、ヒットラーの独裁、敗戦、そして冷戦と百三十年にも及ぶ動乱の中で人々は苦しみ、生きのびた。この動乱の時代に生きたドイツの女流芸術家、ケーテ・コルヴィッツは一般人、特に貧しい人々の苦難を描いたのだが、第二次世界大戦終戦直前に亡くなった彼女の作品に笑顔は見られない。

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ベルリンの壁の崩壊はほんの十数年前の出来事である。以来、ベルリンに留まった若者たちは、自分達が持つ自由を文字通りゆっくりと噛みしめながら彼ら独自のカルチャーを作り上げている。彼らの穏やかさは、一歩一歩自由であることと正しい道を歩いていることを確認しながら、味わいながらポジティブな未来へ向かっている事に原因があるのではないか。

めぼしい美術館やギャラリーを訪ねたり、心和むティーアガルテンに本とカメラを持って遊びに出かける以外は、このホットスポットを大いに楽しもうと考えている。戦勝の記念碑や僅かに残された壁を見に行くよりも、ベルリンの若者たちの今を体験する方がベルリンの今を見ることになるからだ。

Posted by taro at 16:01 | Comments (2)

2004年06月07日

カタルーニャ!

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ヨーロッパでの旅は中盤を迎え、私たちはベルリンに滞在している。この街の様子をお伝えし始める前に、もう一度バルセロナを振り返ってみたいと思う。

バルセロナの人々にとって私たちが滞在していたのはカタルーニャであって、スペインではない。旅人たちに対応するカタルーニャの人々は、ガイドブックを見ながら「スペインに来た」とばかり考えている訪問者に対してスペイン語を仕方なく話すのだ。もちろん彼等同士の会話はカタルーニャの言葉、カタルである。理解できぬままテレビ番組を見ていてもローカル色の強い番組で話されているのはどう聞いてもスペイン語ではない。

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数日の間私たちは、ミロ美術館やバルセロナ現代美術館をゆっくり味わい、多くのギャラリーを覗き、この街では規制されていないスプレーペイントを使ったグラフィティの技術、内容共に完成度の高い「作品」の数々を楽しみ、そしてローカルの食事を堪能した。同時に、私たちにとってほんの小さな認識でしかなかったカタルーニャの歴史と文化は日に増して確かな認識となっていった。私たちはスペインを訪れているのではなく、カタルーニャにいるのだ、と。

5月29日、私はブルガリアの国民的英雄であり、90年代にFCバルセロナの英雄ともなったフットボールプレーヤー、ストイチコフの現役引退記念試合を観に出かけた。伝統あるカンプ・ノウ・スタジアムにはFCバルセロナのファン、ブルガリアから駆けつけたファンを合わせて約1万5千人ほどの観衆がやって来た。ヨハン・クロイフ監督の指導の下、ストイチコフの貢献は大きく、念願のスペインリーグを1991年から4年連続で制覇することになる。これらの人々は決してこの英雄を忘れることはない。

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フランコ政権時代に、この独裁者はカタル語を殲滅しようと試みた。FCバルセロナのクラブハウスでは、それに屈することなくカタル語の授業が行われたのである。FCバルセロナが資金に富んでいるのは、フットボールを嫌う人でさえもがこのクラブに対して大いなる支援を続けているからだ。その理由はカタルーニャの文化を守る事であり、カタル語を今後も代々継承させるためである。もちろん、サッカーやバスケットボールの舞台でも勝つ、という願望はいつも存在し続ける。この「中央」に対する牽制的な独立心はただスポーツに熱狂するだけではなく、政治的な意味も持つ。

2004年5月から9月まで開催されている大規模なイベント、「フォーラム・バルセロナ・2004」。このイベントの三つのテーマは「文化の多様性の認識」、「サステナブルな生活様式」、そして「平和の条件」である。プレゼンテーションの言語として主に四つの言語が使われていた。スペイン語、英語、フランス語、そしてカタル語である。現地の人々に直にコミュニケートし、アピールするにはカタル語を用いるのはむしろ当たり前である。このイベントで「Voices」という素晴らしい展示を見た。そこで掲示された「ある言語の死は一つの国の死を意味する」という言葉が印象的だった。この言葉に無言で頷き共鳴する人々の中に現地のカタルニアの人々が含まれるのは言うまでもない。

「スペインには行かなかった」というと少々言い過ぎなのだろうか。どちらにせよ、私たちが文化として知ったのはカタルーニャだった。

Posted by taro at 22:39 | Comments (0)

2004年05月14日

Keizersgrachtで

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トム・キーが台北へと発つ前に、彼はKeizersgrachtにあるフラットの鍵をくれた。この街に滞在する間彼の部屋を使わせてくれることになったのだ。地元の人たちと観光客両方で賑わうLeidse Pleinから徒歩三分にあり、必要なものは全て周囲で見つかる便利さに恵まれ、建物のドアの前に運河がゆったりと揺れる絶好のロケーション。洗濯機、乾燥機、バスタブ、キッチンが完備されトムが設置したワイヤレスのネットアクセスまである。貧乏旅行者には嬉しい限りだ。 Bed & Coffeeから移ってきた私たちは、さっそくこの新しい環境を楽しみ始めた。

私たちのサンフランシスコ・ベイエリアでの生活は忙しい毎日だがきわめて単純なものである。コンサートには頻繁に出かけ、友人達との付き合いも忙しいほどなのだが、アメリカでの中流階級の一般家庭が住む住宅街の生活はとかく行動範囲が狭いものなのだ。こうして全く異なった環境に居ると、それを実感させられる。愚かにもアメリカや日本との生活の違いなどを書き留めようとしたところで、アメリカや日本の生活そのものに対する理解の限界を思い知らされるのである。例えば、オランダ人の週末の過ごし方などを観察するにしても、私たちには子供が居ないので子供連れの家族の行動などとは比較する術がない。

トムによると、オランダ人は金曜日の夜と土曜日は友達と遊ぶのが普通だが、日曜日はほぼ家族と一緒に過ごすというのが習慣なのだそうである。Ajax Amsterdamの試合があった日曜も、家族連れはとても多かった。クラブによっては独り者やオランダ語を流暢に話せない人は入場お断りのところがあり、有名なクラブもその例外ではないものがあるという。アメリカではこのような差別的な行動は表面的には法律で規制されている。

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アムステルダムは外来者達には非常にオープンである。街全体がオランダの外からやって来る人々で溢れ、人種差別も全く感じられない。それだけに言語を始めとする文化や血統の保存は困難かも知れない。オランダ人の、一定の時間を設けてオランダの純粋な文化を守ろうとする姿勢が日曜日の過ごし方に現れているのではないかとふと思った。

曇り空の日が続き、風もまだ冷たい。それでも運河では水鳥たちが停泊しているボートの間に巣を作り、卵を暖めていたり小鳥を連れ出したりしている。

Posted by taro at 16:41 | Comments (1)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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