2005年01月25日
エレクトロニクス・シティー

昨年5月、私たちが旅に出たときにアメリカのハイテク産業におけるトレンドだったのは職場のポストを可能な限り海外へアウトソースすることだった。ハードウエアの生産は中国へ、そしてソフト開発のプロジェクトはインド、特にバンガロアへと送られていった。この街の名前はシリコンバレーの地方紙であるサンノゼ・マーキュリー・ニュースで頻繁に取り上げられていたし、社員が職場で交わす会話の話題になることも多かったため、そこがどんな街なのか、そこで何が起こっているのかについては深い関心があった。
バンガロアにはインドの他の主要都市と同様、高級レストランやトレンディーなパブ、本物のブランドショップ、スタイリッシュなナイトクラブ、そして大きなショッピングモールがある。磨かれたヨーロッパ車が走り、MGロード街の洗練されたライフスタイルショップは現地の買い物客で賑わっている。

ここに着いてまず気づいたのは、聖なる牛が道路上を闊歩しておらず、そのお陰で糞を踏まないように気をつけながら歩くことなく周囲を見渡せることだった。「ガーデン・シティー」とも呼ばれるバンガロアにはインドの他の年に比べて緑と公園が多く、街の肺ともなっている。その結果、大気汚染は未だにあるものの、私が訪れた他の都市に比べるとそれ程悩まされることはない。私たちはラルバーグ植物園を楽しむ市民たちを眺めながら日曜日の午後を過ごした。ちょうど満開の花々に囲まれながら家族連れがピクニックをし、恋人たちが手をつないで歩いていた。

また、この街では現地の人々に夕食に招かれる二度の機会にも恵まれた。彼らの職業はさまざまで、ソフト技術者、不動産開発者、美術の大学教授、生産系企業のビジネスマンなどだ。彼らとの和やかな会話を通じてバンガロアの現在について学ぶことが多かった。彼らの生活はヨーロッパやアメリカに住む人々の現代的生活と何ら変わることはない。この洗練された街は、彼らのような有能なプロフェッショナルに快適なライフスタイルと現代生活の便利さを可能にしていることが分かった。
昨今のハイテクブームによって、彼らは今風の環境で生活を営むことが可能なのだが、バンガロアを全体的な視点で見ると新たな現代化の波はその全てには及んでいないようだ。ハイテク化していると聞いていた街にしては停電はあるし電圧も不安定だ。インターネットカフェではWindows98のベータバージョンや、良くてもWindows2000の評価版が使われている。マシンにインストールされているソフトは頻繁にクラッシュするし、アクセススピードはケララ州のバックウォーターよりも遅い。「これが本当にインドのシリコンバレーなのか?」と私は考え込んでしまった。「バンガロアの噂はあれほど聞いていたのに、信じられない!」
バンガロアの中心街で用事を済ませようとすると、そうでなくても効率が悪いインドの中でも平均以下の場合もある。西洋のブランド商品が並ぶ高級商店街付近で小包を発送しようとしたときなどはインドでも最悪のケースとなった。コチなどの小さな町やアーメダバッドのような都市では、バンガロアで要求された込み入った手順を踏む必要などはなかったのだが。通常30分もかからない国際郵便がここでは2時間半を要する悪夢のような体験をすることとなった。

私たちは、近年の好況の恵みを得ることなく取り残された人々がバンガロア市内には多くいて、貧富の差が急激に広がっていることを目の当たりにした。貧しい人々が路上で物乞いするのを気にも留めず懐の暖かい人々が闊歩して通り過ぎる。この街に対する私たちの期待は、ものの見事に打ち砕かれ、バンガロアは埃っぽく汚れたインドの街の典型として私たちの目に映り始めた。ハイテク企業はそのほとんどが20キロ離れたエレクトロニクス・シティーと呼ばれる地区に居を構え、バンガロアの中心とは一線を画した存在である。つまり私たちがバンガロアの姿を塗り替える機動力と考えていた企業と市の内部に存在するさまざまな問題とは接点がないのだ。

バンガロアはインドについて多くの人が言う「この国は貧しい国ではなく、貧しい人々が多く住む国だ」という言葉を的確に反映した街だと思う。ニュースメディアは口を揃えて近い将来インドは世界をリードする経済大国になると報道しているが、それはこの国全体について言えることでは決してない。ハイテクブームや他の産業での成長がもたらす経済の繁栄によって、インドが予想されているようなステータスに達することになるとしても、それはごく限られた少数の人々にとってのステータスだ。インドの経済、現代化、そしてサクセスについて耳にすることは多いが、この人口100億人のうちそれを味わえない人々がほとんどなのである。
過去3ヶ月インドを旅しながら痛感させられたのは、この国を一言、いや一行の文で表現するのが非常に困難だということだ。さまざまな表情とムードを持ち、それを理解したと思ったら一瞬のうちに豹変する。従って、インドの将来を思うとき、私たちはその動向を見守るしかない。このバンガロアという街については急激な変化が予想されると同時に、結局は何も変わらないだろうという予想も出来る。そしてインド全体についても全く同じことが予想できるのである。
2005年01月19日
ハンピで「ホームステイ」

ハンピはかつてインド史上最大のヒンズー帝国、ヴィジャヤナガルの首都があった土地にある観光地だ。この町のどこにいても望めるヴィルパクシャ寺院へと続く道ハンピ・バザールとトゥンガバードラ川の間にこぢんまりと納まっている小さな町である。今年のサンカランティ祭は、今月13日と14日に行われ、それを祝う多くの巡礼者たちがここ一帯に数ある寺院とトゥンガバードラでの沐浴にやって来ていた。低コストの宿泊を提供する多くのゲストハウスやダールマサラでリラックスするインド人と外来の観光客も加わって、この小さな町はかなりの賑わいを見せている。ハンピではそれでもゆっくりと時間が過ぎてゆく。訪れる人々もゆったりと周囲に広がる遺跡を探索している。私の場合、この町はマラリアが回復した後の休養地として最適の場所だった。

周囲の環境はとてもユニークで、自然と人間が作り上げた驚きだとも言える。岩に覆われた地形とその間に点在する石彫刻に覆われた遺跡がまず全体的な色合いを定めている。巨大な岩がまるで巨人がばらまいたように危うく、美しく重なり合い何とかバランスを保っている。アリゾナ州のセドナやユタ州に見られるような風景と色だ。この地形の間にゆっくりと川が流れ、その西側には田んぼやバナナ農園やココナッツの林が淡い緑を添える。南側には岩をうがって彫り上げた寺院や石柱があり、その側面には初期のヒンズー教に見られる神々が洗練された技術で浮き彫りにされている。雲が少なく、青空が常にこれら全てを覆っている。日中は乾燥した鋭い日差しが暑く、何をする気にもなれない。私たちは日の出前後には起床し、朝食前に遺跡やバナナ農園や川の畔の畑を歩き回り、朝食後は夕方まで特に何もせずゆったりと過ごし、出かけたとしても大きなマンゴーの木の木陰でチャイを飲みながら寝そべるという生活を続けている。
宿泊しているのは、家族経営の宿泊所だが、ゲストハウスやホステルと言うよりも家族が住む家の一室と言った方がふさわしい。ハンピ・バザールから二筋ほど路地を入った所にあるこの家の周囲は一般家庭が住む現地の住宅地で、商店などは少ない。家の屋根からは繊細な石彫刻が白く浮かび上がる高さ50メートルのヴィルパクシャ寺院塔を真傍に望むことが出来る。部屋は小さな窓とやたら堅い鉄製のベッドがあるだけのごく基本的なものだ。ほんの30メートル足らずの路地にあるこの家の近所はお互い誰もが知り合いで何でもざっくばらんに話し合ったり井戸端会議をよく見かけるような、いわば長屋のような雰囲気だ。観光客目当ての売り込みたちが割り込んでこない静かな場所である。遺跡や周囲の環境の色合いが美しいこともさることながら、私たちが気に入ったのはこのご近所の人の良さと心地良さだった。

この家族は柔和な笑顔を漂わせながらそれぞれの日課をこなしていく。奥さんは、門前の地面に広い砂を使って毎朝夕異なった幾何学模様の「ランガヴァリ」を描き、私たちの目を楽しませてくれる。多くの家の前でも二枚に描かれるこれらの模様は、シンプルなものから複雑なものまでバラエティーに富み、砂埃や動物の糞やゴミが目立つ歩道に美しいアクセントを添えてくれる。奥さんは、その日のランガヴァリを描いた後、香を焚き、鉢に赤、サフロン、白のティッカ粉を用意する。そして家中の扉と格子を掃除しながらそれぞれを香の煙で浄め、ティッカ粉で飾りを塗りつける。ご主人はどこかの銀行のマネージャで、毎朝9時半頃から丸1時間かけて熱心にヒンズー教のプジャ(祈祷)を行い、遅い朝食を食べて11時頃悠々と仕事に出かけていく。奥さんはその日のお浄めの後も掃除、洗濯、洗い物、宿泊客の世話、ゲストハウスの掃除などに忙しい。息子はここから13キロ離れたホスペットという街の商社で忙しく働く会社員だ。宿泊し始めて直ぐに私たちはこの家族とうち解け、ゲストハウス経営者と宿泊客との関係には留まらないお付き合いを楽しむことが出来た。

息子のチャンドラがこの一帯で最も日の出が美しく見えるマタンガ丘に登ってはどうかと勧めてくれた。翌朝、彼は早起きをして、出勤前に丘の頂上までガイドしてくれた。奥さんが夕食に招待したいと言うので、ごちそうになった。チャパティ、バナナ・シカラニ(バナナをヨーグルトと砂糖であえたサラダ)、サンバー、スブジと呼ばれる野菜料理二種がテーブルに並んだ。何ヶ月も食べているレストランや食堂の料理とは全く異なり、やはり家庭料理は新鮮な食材と作る人の思いがこもっていてエネルギーが違う。夕食の値段を尋ねたら払う必要は無いという。私たちの狭い部屋では何も出来ないだろうと、母屋のダイニングルームを仕事場として使わせてくれた。リンの誕生日には朝食に彼女の好きなイドリとチャイも作ってくれた。一泊250ルピー(約600円)という安い宿泊費が申し訳ないような待遇である。
3ヶ月近くインドを旅してきたが、知り合いがいない場所で現地の人々と金と商売が絡まない会話が出来る機会はごく稀である。この国でのフレンドリーな会話は我々が「暫く話していればそのうち何かを買う気になるだろう」というビジネスの期待が常にその背後にあるからだ。買わないと分かった瞬間にあれほど振りまいていた笑顔が消え去るのをインドでは何度も見てきた。すぐ傍のハンピ・バザールでもすでに何度経験したことだろう。それとない現地の人々との会話がいつの間にか売り込みに変わり、私たちが興味を示さないとコミュニケーションは遮断され、売り手の目はすでに次の獲物を物色している。それだけにこのハンピの家族のようにビジネス関係の枠を越えて、真にフレンドリーなコミュニケーションを通わせる機会に巡り会うと嬉しく、正にこれが予定より長くこの町に滞在することにした理由だ。ハンピはインド国内でもよく知られる観光地だが、一方では観光地であり過ぎるこの町でも、この親切な家族の家に泊まり、朝早い内に周囲の遺跡を探検するだけで、雑踏と呼び込みの声を免れることが出来た。その上で、ハンピは私たちが訪れたインドの多くの場所の中でも最も印象深い町だと言える。
2005年01月12日
マラリア体験

カルナタカ州のマイソールにあるJSS病院に入院していた。コチで刺された蚊が原因でマラリアにかかってしまったからだ。コチは歴史的な魅力やカルチャーがある街だが、下水、ドブ水や汚水の水溜まりが臭い非常に蚊が多いところだ。1月3日の夜行列車でコチを出発した。発車時間を待つ間も身体がだるく熱っぽくもあったのだが感冒か何かだろうかとしか考えていなかった。列車は冷房車だったにもかかわらず寝ている間に大量の汗をかいた。翌朝マングロア着、駅から市内へはオートリクショーで入り、さらにバスに乗り換えハサーンを経てほぼ一日がかりでベルールという小さな町に到着した。宿にチェックインした時点で頭が重く、寒気も少々感じるようになっていた。
感冒による節々の痛み、熱、寒気などの症状は今までに何度も体験しているが、旅先での病気ということもあり、大事をとって宿泊したホテルのすぐ傍にある医療所で診察を受ける。結果はマラリアの心配はなく、感冒か慣れない天候や悪い水などによる熱だということで、2日分の解熱剤と抗生物質を処方してもらった。実際には何が原因で、どんな病気なのかは、あの医師には分からなかったようだった。この小さな町の医療所では診察料は無料である。診察を受けている人々は皆貧しい人たちで、無料診察を受けるために長い間順番を待つ。彼らは薬代だけは払わなければならないが、それでも国民保険か何かのシステムで全額払うことはないようだった。ちなみに処方してもらった解熱剤と抗生物質3日分は52ルピー、日本円で150円にも満たない。
ベルールで滞在する間、この体調であまり外出することが出来なかったが、6日の朝、熱が下がったのをみて石彫刻が素晴らしいチャンネケシャヴァ寺院を訪れた。しかし、解熱剤が切れると感じる悪寒はますますひどくなり、熱も39度を上回るようになってしまった。この病状悪化の様子でこれがただの感冒や気候、さらには悪い水によるものという単純なものではなさそうだ。この町の医師の診察では心許ないという結論に達し、翌日7日の朝、リンが車をチャーターしてカルナタカ州南部にあるマイソールへ至急向かうことに決めた。マイソールは病院の設備が整った中堅サイズの街の中で最も近距離にあったからである。4時間のドライブの間にも極度の悪寒に襲われ、車を止めて強烈な日差しの中で「暖を摂る」場面もあった。

マイソールには政府経営の大きな病院があり、まずそこへ行くことにした。その病院に乗り付けたのが午後1時。受付では登録料10ルピーを払って診察カードなるものを作ったのだが、午後1時から2時までは急患の部署も「お昼休み」で受け付けてはくれなかった。この事自体想像の域を超えた病院運営である。しかも、居合わせた若い医師が言うには「JSSという病院の方が良い治療を受けられるよ。」いかにも「インド政府経営病院」といった感じで呆れてものが言えない。JSS病院は幸いそこから直ぐ近くにあり、早速急患診察所に入った。ERのベッドの横たわって測った体温は40度を越える高熱となっており、私が外人であることも手伝ってか医師たちもさすがにまともに対処する気になったようで、体調が崩れ始めてからの経過を何度も尋ねた後、早速点滴を開始し、解熱剤を注射し、さらにてきぱきと診察と治療のプランを立てていた。
JSS病院はいわゆる医科大付属病院で、したがって診察に当たっている医師や看護婦にはインターンが多い。私の診察はインターンから医学部博士課程の大学院生へと引き継がれ、遂に大学教授まで達することになった。教授は直ちに入院手続きをとり、血液検査を行うよう助手に伝えた。入院手続きはこれもインドらしく書類記入や誰かの承認が必要だったりで、個室の病室に入るまでにはかなりの時間を要した。検査のための採血もしたのだが、病院内の検査では時間がかかり過ぎるということでマイソール市内にある専門のラボで検査を行うことになった。感情を表情に出さない神経質そうな大学院生が彼の車で街のラボへと連れて行ってくれ、再度採血してからわずか20分後、マラリアの陽性反応が判明。病室に帰ってから即刻点滴に抗マラリア薬を混入した治療を開始した。治療期間は5日間。「速攻治療」ということだった。

教授を囲むインターンや医師たちはそれぞれ内科、医薬、伝染病などの分野での専門家たちで、皆優秀で確かな知識も持っているようだった。この専門家のグループは教授を囲んで意見の交換を行い、治療方法の詳細を確認し合い、そして教授を最終的な決定者として実際の治療を進行させる。あの無表情で神経質そうな大学院生は、インドの医者は途上国には、普段西洋の医者たちが見ることもない多岐に広がる健康衛生問題や病状と常に対処しているため、西洋の医者たちよりも経験を積んでいると言っていた。
看護婦たちは全く別問題である。彼女たちが親切でフレンドリーなのは助かることは確かなのだが、医師たちが指示した治療を実際に患者に施すのは彼女たちで、これがかなり適当で時には医師の指示を誤解していたこともあったりした。点滴針を挿入するときも血管に的中せず、何度も失敗するのには苛立ったし、正しい薬の服用回数や時間帯などについても何度も問いたださなければ正確な答えが返ってこない。従って看護婦たちの治療は毎回注意してフォローしなければならなかった。
病室は狭く、お世辞にも清潔とは言えない。専用のトイレ付きバスルームの清掃は頻繁には行うが、水と汚れた雑巾、木の枝を束ねたほうきを使って掃除するだけで消毒はしていない。バスルームの天井からは何か液体が落ちてきていて、まるでどこかの鍾乳洞のように床の数カ所で蓄積している。大きなゴキブリが這い回る。蚊も入ってくる。マラリアの治療を受ける病室で蚊の心配をしなければならないところが正にインドである。蚊取り線香は配布してくれたが。廊下には「静粛に!」と看板があるが、インドでは静粛なところなどは存在しない。患者の咳き込む声やうめき声、生まれたばかりの赤ん坊の泣き声、廊下で井戸端会議に熱中する人たちなどで一日中やかましい。

食事は出ない。従って食事は外から持ち込むか近所の食堂へ外食しに行くしか方法はない。さらに点滴、点滴用機材、注射セットから服用薬に至るまで、医師の指示に従って全て自分で付属薬局へ行って購入しなければならない。当然これらの雑用は患者の家族の仕事となる。看護婦たちは患者が自ら買ってきたものを使って治療に使うのである。私の場合、リンが同じ部屋に滞在することが出来、これらの雑用をこなしてくれたのが不幸中の幸いだった。一人旅でこのような状況に置かれたトラベラーたちは一体どうしているのだろうか、と考えてしまう。
抗マラリア薬の点滴を始めて直ぐに熱が下がった。この点滴による治療に3日を費やし、さらに念のため2日間服用薬で血液中のマラリア全滅を図る。教授を始めとするスタッフチームは毎朝10時頃さっそうとやって来て体温、脈拍、血圧のデータを確認し、看護婦から治療経過の報告を受け、指示を与える。そして入院5日目、血液検査を再度行った。その結果、マラリアの陰性反応が確認できた。12日の朝、教授はその結果を見たうえで退院許可をくれた。教授と彼の生徒たちによる診断と治療は非常に的確でスピーディーだが、入院や退院の際の手続きはいかにもインドらしくじれったいことこの上ない。退院手続きだけに約3時間待たされた。
JSS病院は医大と訓練校も兼ねた施設であるため、診察、治療、入院のコストはかなり低い。そのため、患者たちは一般に貧しい人たちが多い。個室の場合、入院費は個室で一日250ルピーと安いことは確かだが、入院手続きの際に2000ルピーの前払いをしなければならない。この前払いが出来るか出来ないかでどの病室に入るかが決まるようだ。後に聞いた話では、マイソールには全般的により良い環境が整った病院が何件もあるそうだが、治療費は5倍するらしい。

今回マラリアの治療にかかった診察費、治療費、血液検査、薬代、個室での入院費などを含めた全ての経費は250ドルに満たなかった。JSS病院には清潔で蚊のいない病室や現代の最新医学技術があるわけではなく、看護婦も非常に頼りない。反面、適切で民主主義的な医師の診察と治療は先進国の病院と同じであろう。アメリカでは一般消費者が負わなければならない医薬品のコストの高さが大きな社会問題になっている。健康保険費がべらぼうに高く、それに加えて実際の治療費もさらに高いという現状は、アメリカ市民の多くが医療制度の恩恵を受けることが出来ないといった「先進国」にはあるまじき現象を生んでいる。インドでも将来は医療コストが大幅に上昇するとは聞いているが、現在はベルールのような小さな町でも(たとえ誤診するような医師でも)人々が容易に診察や治療を受けることが出来るのだ。
インドでの入院経験など自慢にもならないし、決して心地の良い体験ではなかったのも事実だ。が、無事回復した今、通常決して見ることのないインドの側面を垣間見ることが出来たのは思いも掛けない貴重な経験と言えるかも知れない。
2005年01月02日
燃えるサンタ

2005年はインド南部ケララ州のコチ(またはコーチン)で迎えることになった。この島上の街は、16世紀、ポルトガル、オランダ、イギリスなどのヨーロッパ諸国が植民地政策を掲げてインド西岸へと進出し始めた頃に築かれ、様々な西洋文化の名残が今も市内に多く見られる。本土側にあるエルナクラムという街から大きな川と海峡を渡る二つの橋を隔てたわずか9平方キロメートルの島にあるコチには、ヨーロッパ諸国によって建設された要塞やオランダ風宮殿を始め、海岸に沿って中国様式の網、カテドラルやシナゴーグが、ヒンズー寺院とモスクと共に点在しているのである。シナゴーグ周辺のユダヤ人街にはユダヤ系のインド人が今も彼ら伝統の生活を営んでいる。小さな島のメルティングポット。歴史の流れが織り込んだ多国籍文化のマイクロコズムだ。

私たちがコチに着いたのは津波が起こってから2日目の午後だった。エルナクラムとコチ一帯での被害は最小限だったようだが、ここから直ぐ北のヴィピーン島では多くの人々が津波に流されて犠牲となった。ここ一帯の人々はその時もまだ全貌が知られていない悲劇を嘆いていた。ホテルや商店などは正常に営業されていたが、フェリーによるエルナクラムとの交通は停止中で、漁船も出ていなかった。やはり高波を警戒しているようだ。毎年元日に行われる海岸でのカーニバルも今回はキャンセル。西洋人のトラベラーはそこそこいるが、カーニバルにやってくる大勢のインド人観光客の姿はなく、街は結果的にひっそりとしている。それでも現地の人々の表情は明るく、心配されていた「第二の津波」についても「ここなら安心だ。ゆっくり楽しんでくれ」と笑う。

海風が街の中では吹かず、通風がないコチ市内の空気は蒸し暑く重い。夕方になるとやたら多い蚊につきまとわれるのには大いに閉口する。が、その多文化が混在する市内のたたずまいとアートや芸能を奨励する環境はなかなか面白い。絵や彫刻の展示スペースを持つカフェが一軒。ユダヤ人街にも現地アーティストを含むコンテンポラリーアーティストの作品を展示するギャラリーが二軒あった。伝統芸能もある。その代表はインド南西地域に古くから伝わり、今も活発に行われているカタカリ舞踏だ。コチにはこの舞踏が観られるケララ・カタカリ・センターがあって、毎日カタカリや他の伝統舞踏、インド古典音楽などを提供している。

大晦日の夜、私たちはこのカタカリ舞踏を観に行くことにした。この日の上演は津波生存者たちへの募金も兼ねていた。カタカリは舞踏によるドラマで、その起源は古く2世紀に溯るとされる。加えてこの舞踏は神聖なものとされ、舞台小屋に続く小道は、水を打ち、花を添え、香を焚き、白い粉でランガヴァリのパターンを描いて浄めてある。この舞踏は役者による演技、奏楽と歌によるストーリーによってミステリアスに進行する。舞台際と両袖にはオイルランプを灯し、香を焚いてその神聖さを強調している。内容はマハーバラータ神話が中心である。小さな舞台、百人足らずの観客。それでも舞台は神懸かりにも近い強烈で白熱したエネルギーを帯びる。これをほんの1時間でやってしまうのだから驚きだが、正式な舞台は6時間以上続くというからそれがどんな体験なのかは想像もつかない。
舞台がはねた後、私たちはホテル周辺で年が明けるのを待った。現地のクリスチャンたちが聖書を手に聖フランシス教会へと歩いていく頃、街は静けさに覆われていた。このカテドラルは、ポルトガルのペドロ・アルヴァレズ・カブラル率いる遠征隊と共に上陸したフランシスコ派によって1503年に築かれたといわれ、ヨーロッパ人によって建てられたインドの教会としては最古のものである。現在は聖公会の教会として現地の人々に慕われている。この教会に入ってしばし静かに座る。信者たちは三々五々新年のミサに出席するため集まり、聖堂に入ると静かに跪いて祈りを捧げている。

ケララの新年はどういう訳かサンタクロースの衣装とお面で覆ったわら人形を燃やして祝う。真夜中も間近に迫ると、近所の人たちがサンタを担ぎ出して点火場所を決める。その一つは聖フランシス教会の壁の外側だった。カテドラルからは聖歌が一段と高らかに聞こえてくる。そして午前0時。サンタに火が点けられ、燃え始めた。すでに近所の人々や歓声を上げながらバイクで通りかかった若者たち、西洋人観光客などが取り巻いて騒ぎ始める。突然、爆竹が数十個炸裂した。どうやらわら人形の中に仕込まれていたらしい。仕込まれていたのは爆竹だけではなく、打ち上げ花火も数個入っていて、どこへ向かって発射されるかはその時になってみないと分からず、物騒極まりない。幸運にも打ち上げ花火が我々に向かって発射することはなかったのだが、あの忌まわしい「アトムボム」も一発仕込まれていて、そこにいた人々は当然その爆音とショックの犠牲となった。
サンタが燃えてしまった後、取り巻いていた人々は「ハッピーニューイヤー!」を言い、握手したり抱き合ったりしていた。皆の表情は明るい。年を越えるとき、そこに必ず笑顔があるのはどこでも同じのようだ。神秘的なカタカリ舞踏の沸き上がるエネルギー、カテドラルから流れる聖歌の厳かさ、燃えて爆発するサンタの滑稽さとが頭の中で相混ざった。今まで「不思議なニューイヤーズの体験」は何回もしてきたが、さすがに今回のような異色の大晦日は始めてである。この旅を通じて経験することが出来た恵みのひとつでもあるだろう。
2004年12月30日
アジアの海が揺れた日

クリスマスの日、私たちは灯台の南側にあるヴィジンジャムという名の小さな漁村へ散歩に出かけた。村人たちは主に貧しい漁民で、その生活は海からのささやかな恵みだけで支えられていた。彼らは煉瓦の基礎の上にココナッツやバナナの葉で編んだ小屋に住み、その小屋は波打ち際ぎりぎりに並んでいた。あの日、小さな湾の南側では、クリスチャンの村人たちがお祭りのようにクリスマスを祝っていた。ティーンエイジャーは大音量で音楽を流し、男の子は砂浜で集まってサッカーに耽っている。女たちが笑顔でそれを見守っている。皆表情が明るく幸せそうで、素晴らしい天気に恵まれた祭日を祝っていた。しかしその翌日、祭り気分は恐怖に変わる。村は押し寄せる波にのまれ、この漁村はわずか数分で全壊した。

この小さな漁民の村ヴィジンジャムが破壊されていた頃、そこからほんの2、3キロ北のコヴァラムビーチで、私たちはそんな惨事が起こっているとはつゆ知らず、いつものようにジャーマンベーカリーの二階から浜辺を見渡しながら朝食を食べていた。砂浜ではパラソルが開き、人々は寝椅子を借りて日光浴や読書や波乗りを楽しんだり、フルーツサラダを頬ばっていたりした。突然、目前で波の足が長くなり砂浜にいた人たちをずぶ濡れにしてしまったのだ。彼らは驚いて波と共に引いていくサンダルやバッグやブランケットを追いかける。波は普段に比べて決して高くはなかった。しかし、波が奥深く海岸沿いの歩道にまで達したのは普通ではなかった。それでもあわてる人たちの様子がちょっと滑稽で笑ってしまったほどだ。
朝食の間、私たちは波の様子を見続けた。ビーチ沿いに軒を並べる店に危険なほど近づくかと思うと、数分後に50メートルほど引く。このパターンが続くのを見ながら、この異常な波の原因を話し合った。その日がたまたま満月だったことからそれが原因かも知れない。いや、どこかで起こった地震の影響だろうか。この憶測が当たっていたとはその時の私たちには全く予期も出来なかったことである。

結局この現象はその朝と午後一杯続いた。ライフガードは警戒はしていたものの、それ程緊迫した様子もない。人々はその後も砂浜で寝そべったり澄んだブルーの海で泳いだりしていた。現に、海は前日よりも穏やかでさえあっので、リンは朝食後のスイミングを楽しむことにしたほどだ。彼女は20分ほど泳いだのだが、潮はいつものように流れが強いとは言え、数日前ほどではなかった。彼女はこの湾の潮の流れの危険な速さには慎重で、水の中にはそれ程長くいたくはないと言っていた。浜辺に上がってブランケットで横になり、本に夢中になり始めた彼女にだったが、再び波が長くなったのを見てあわてて避難。暫く前は他の観光客が濡れてしまったのを笑っていたのに、と苦笑してしまった。

現地の住民はモンスーンの季節に高くなる波には慣れてしまっているのだが、その彼らさえこの季節にこんなことが起こるのは初めてだと言う。午後1時頃、私たちはビーチに面したレストランでランチを食べることにした。南側の漁村の男たちがコヴァラムビーチに残したボートを確認するために息をせき切らせて走って来る。明らかに何かが異常だった。数組のチームに別れた男たちがそれぞれボートを浜辺の高いところへと引き上げる。波の昇降はそのときも続いていた。観察すると、波打ち際の地点のずれが大きく変化していることに気づいた。昼食後、店が並ぶ歩道に沿ってさらに北のビーチへと歩くことにした。地震があり、チェンナイ(マドラス)で多くの死傷者が出たという店の人たちの話声を聞いたのはその時が最初だった。なるほど、何か大きなことが起こったことは確かなようだが、この海で何が起こっているのか。私たちはそのときもまだ状況を把握していなかったのである。それと時を同じくして、ライフガードと海岸警備員たちが人々を海から揚げ、ビーチは立ち入り禁止となった。

私たちがようやく正式なニュースで情報を得たのは、津波がスリランカとチェンナイを襲ったというBBCの報道が最初である。その時点での犠牲者数は千人。そして私たちがその全貌を知ったのはその数日後だった。12月26日、地球はあの神戸地震の300倍という飛んでもなく膨大なエネルギーを一気に放出し、余震は今も続いている。
コヴァラムビーチはなぜかこれらの被害を免れていた。ランタ島の友人たちの安否を思い(有り難いことに彼らは無事である)、インドの旅を終える場所だと考えていた海岸沿いの都市チェンナイの様子が気遣われた。日を追う毎にアジアでの犠牲者数と被害の規模が倍増していく。私たちがこうしてここにいることがとてつもなく幸運であることを思い知らされる。そしてその北と南では被害が出ているにもかかわらず、なぜ私たちがいたコヴァラムの海岸では大した被害が無かったのかと不思議に思われるのだ。津波自体も、死の可能性も、被害も私たちが直接体験することはなかったのだから。
コヴァラムビーチから西海岸に沿って北に向かい、現在私たちはコチという街にいる。この街は本土から橋で渡れるほど近い島にあるのだが、ここでも被害は少々あったようだ。ここに着いた12月28日、島と本土をつなぐフェリーは運航休止となっていて、漁船も出ていなかった。

この街に来てから、街のホールやレストランでは救済援助のベネフィットコンサートが開かれたりしている。各コミュニティーではこの大惨事の救済と援助に乗り出す動きが活発化しており、海に流された必需品を調達すべく、自ら寄付を集めるヴォランティアたちも多く見かけるようになった。最も必要とされているのは衣服、靴、食料、調理具などである。現地の人々によれば、政府や宗教団体によって集められた募金は、終わりのない政治的な動きの中で蒸発してしまい、実際に援助に当てられるのは極めて遅いという。この人道的危機に際して、「先進国」と呼ばれる国々がいち早く支援行動を起こし、速やかにそれを実行して欲しいと望む。被害者たちへの援助は日本やアメリカからでも出来る。募金される場合は、赤十字やNGOなど信用できる援助団体を通じての送金を呼びかけたい。
私たちは今も何ごともなく津波から免れたことを幸運に思い、有り難いという気持ちで一杯である。この恐るべき災害で家族や友人たちを失った人々に心からお悔やみと祈りを送りたい。
2004年12月25日
熱帯のクリスマス

「ゴアとケララ、あなただったらどちらへ行きますか?」アーメダバッドに滞在中、多くの人にこの質問を投げかけた。誰もがケララを推薦した。ケララ州はインド亜大陸最南端の西側に位置する熱帯地域で、アーメダバッドの人々が言ったように海岸沿いの地域は豊富な植物による緑、空と海のブルーが美しい。そしてここはココナッツの国だ。数日前までいた北インドとは気候も食べ物も全く違う。インドの多様性を目と肌で再び体験した。
ケララに外来の人々が訪れ始めたのは3000年も前だと言われ、商人や船乗りがスパイスや象牙を求めアラビア海を渡ってやって来た。16世紀、ヨーロッパ諸国の植民政策が始まると、ポルトガル、オランダ、イギリスが香辛料貿易の主導権を巡って争った。バスコ・ダ・ガマを代表とするポルトガルからの宣教師たちを受け入れ、キリスト教の影響も未だに根強く残っている。インドと西洋の融合が見られるユニークな文化がここにはある。芸術と教育に力を入れる州政策のお陰で、インドで最もプログレッシブな地域でもある。
私たちが最初にやって来たのはコヴァラムというビーチタウン。空港からダッシュボードにガネシャを祀ったプリペイドタクシーとマリア像のステッカーを貼った三輪タクシーを乗り継げばそれ程遠くはない。この宗教的なミックスはインド北部では見られなかったもので、インド文化の深さを思わせる。

某ガイドブックによれば、1960年代にはヒッピー天国だったが今は寂れた印象を拭えないとあったが、実際に来てみると、多少の開発が進み値段もアップされてはいるものの、かえって静かにまったりするには絶好の小さな町である。「ライトハウスビーチ」と呼ばれる砂浜は、小さな湾の南側にある灯台から北に2キロほど広がり、海に突き出た岩場が北に隣接する「ハワービーチ」との境となっている。ビーチ前の歩道に沿ってホテル、レストラン、土産店が連なっている。インド古来の「アユルヴェディック法」によるハーブ薬店、マッサージやヨガセンターもある。海岸から丘に上る斜面はココナッツで覆われ、その中に現地の人々の住居、さらにレストランやホテルがある。

ライトハウスビーチは休日前後のハイシーズンにはかなり賑わう所だが、その環境でゆったり過ごしていれば大して気になるものでもない。浜の砂質はきめが細かくしっとりとソフトで肌触りが良い。海水も滑らかで鮮やかなトルコ石の色に澄んでいる。波はタイの島の海岸に比べれて荒く、午後から高くなって波に乗って遊ぶにはちょうどいい具合だ。アラビア海の潮は水流が速くしかも強力で、しばらく浮かんでいるだけで深い沖へと流されてしまう。それはこのビーチだけではなく、近辺の海岸も同じらしい。そのため、ここでは常勤のライフガードが警官のような制服で頑張っていて、海に入る人たちに忙しくホイッスルを吹いている。赤道近くだけあって暑いが、穏やかな潮風が涼しく、何よりも空気が新鮮なのが有り難い。

クリスマスのデコレーションは通常西洋や日本でも見るものもあるが、一般に大げさではなくひっそりと静かな飾り方だ。ケララでユニークなのは中が空洞になった紙製の星。表面にはパターンがくり抜かれているものもあれば、ホリデーシーズンのメッセージを印刷したものもある。中に電球を灯して天井や軒下に掛けるとほんわかとしたムードを醸し出し、波の音や海風とともにエキゾチックなクリスマスを演出してくれる。

クリスマスの当日、朝から近辺の漁村の男たちが船を連ねてコヴァラムのビーチへと大挙押し寄せてきた。観光シーズンの盛りではあっても前夜までは静かだったビーチは大いに賑わう。彼らはこの湾で泳ぎ、水辺を走り回り、砂の上を転がり、アイスクリームを食べ、西洋人の若い女性をからかって(ここに限らずインドの男はどこでも同じで、欲情剥き出しの目を白人や日本人女性に投げかける)、一日中子供のように遊びまくった。聞けば、ごく近くの漁村に住んではいても、彼らがこうして一日中仕事をせずに遊ぶのは年に一度、このクリスマスの日だけだという。
アメリカのクリスマスシーズンは10月末日のハロウィーンが過ぎた翌日から本格化する。このクリスマス商戦が旗揚げすると、メディアはもちろん街のショッピングモールや商店街はこれでもかと言わんばかりのコマーシャルとデコレーションに染まる。そんな環境では嫌でもそれに応じなければならないような気分になってしまい、仕事とショッピング、パーティーに追われる忙しない生活を強いられることになる。今年の私たちのクリスマスは、それを全く感じることが無く、南インドのトロピカルな環境の中で静かに過ぎていった。正直言って、その方が良いのではないかと考えている。贅沢を言えば、家族や友人たち、近所の人々と祝いたかった。この休日はそのためにあるようなものなのだから。
2004年12月09日
サンデーマーケット

毎週日曜日の朝開かれる「サンデーマーケット」はアーメダバッドの中心を流れるサバルマティ川を渡るエリス橋の傍の川岸で開かれる。エリス橋の袂周辺は、普段は土手と水辺の間に広い空き地と「ジプシーピープル」の居住地がある汚いだけの場所のだが、日曜日になると大勢の人々で賑わうという奇妙なところである。橋の袂は新しい家具や家庭用品を売る屋台と市場に出入りする人々で混雑していた。そしてさらに川に近づくと、この市場でもっとも興味深いエリアに入り込む。

川縁には崩れかかった煉瓦建ての小屋、テント、コンクリート製の洗濯場がその一角にあって、生活の臭いが漂っている。対岸を望む水辺を見ると、川の傍での生活が見て取れる。子供たちが凧揚げをして遊ぶ。老人たちはゴミの中で何かを掘り出している。その直ぐ傍で何人かは大便中だ。ブタの一家がその間を歩き回り餌を漁っている。売る者はプラスチック製のシートを広げ、その上に商品を並べる。買う者はその間を歩き回って物色する。乾燥した土埃が舞う。強烈な12月の太陽の下で繰り広げられるインドの日曜日の光景だ。

ここで売られているものは新品の日用雑貨から中古品やアンティークなど。どんな「中古品」なのかと訊かれたら、「バリエーションに富んでいる」とか「ありとあらゆるもの」としか表現できない。あるいはこれらの物質が陳列されている様子を表現して「即席のインスタレーションアート」とも呼べるかもしれない。つまり、我々が日常生活で何気なく買い、使い、捨てるもの全てがゴミの中から手で掘り出され、中古品あるいは再利用品として売られているのである。

売られている物の中で、明らかにアンティーク以外のものは、全てゴミから緻密とも言える驚くべき分別作業の結果採取されたものだ。その細かさは切れていない輪ゴム、安全ピンや押しピン、フタ付きのガラス瓶、メガネのレンズ、電気製品のコードや回路各種などに至る。壊れて機能しないものも、その場で修理できるものは直して売る。先進国にすむ人間の目から見れば驚きではあっても、この人々にとっては別に変わったことではない。使えるものは使い切る。壊れていれば直す。ゴミの山から再び売れるようなものは集めて分別する。彼らにはそれをこなす時間がある。

一方、物色している人々は単に貧しい人たちが節約を目的として品物を探しているばかりではない。ここでは、一般の商店で今は扱っていない品物も売られているため、専門的な道具などを必要とする人たちにとっては掘り出し物を探す絶好の場所である。コレクターやコラージュアーティストにとっては最高の素材採集の機会だろう。NIDで同じく集中ゼミを教えているイスラエル人講師は木工による家具デザインやアートの専門家だが、彼は木工を始め古いが今も必要な中古の工具がふんだんに並べられているのを見て大いに感心していた。
この市場、聞けば同じ場所で千年以上も続いているらしい。今見るこの状況も驚きだが、これがそんなに長い間行われてきたというのも凄い。昔は一体どんなものが売られていたのだろうかと思いをはせるのも興味深い。その間、おそらく何物も無駄にされることなく全てのものを極限まで使い切ったのだろう。この人たちが今も水瓶や宗教的な偶像や道具を必要するのを見ると、千年の間も基本的な日常の必需品にはそれ程変化はないのかも知れない。
2004年12月01日
スモッグの中の魅力

インド最大の産業都市、アーメダバッドは公害と砂埃と騒音に満ちた街である。しかし、これらの要素を拭えば(それ自体容易なことではないのだが)その背後にはちょっとした魅力が隠されている。この街は、かつてインド独立運動の間、ガンジーが活動の本拠地としたアシュラムがあったことで知られている。その名は旧市街と新興市街を分けるサバルマティ川にちなんで名づけられたものだ。

アーメダバッドはインド西部グジャラット州に位置する。この地域には独自の言語と文字があり、人々の多くはグジャラット語、ヒンズー語、そして英語をこなす。この州は近年、暗いニュースで世界に知られることとなった。2001年のマグニチュード7.9の大地震で州西部のクッチ地区とアーメダバッド市に大きな被害を及ぼした。そして2002年には、乗客列車の放火で59人の犠牲者を出した事件が、イスラム教徒はその犯人として非難された。それが元でヒンズー教徒とイスラム教徒との間で大規模な紛争が勃発。その結果、千人以上が死亡、大勢の住民は街への帰還を恐れているという。幸いにも現在のグジャラット州における治安は至って平穏である。

グジャラット州は事業家が多いことでも知られる。この気質がグジャラットを経済的に潤し、国内で最も産業が盛んな州に押し上げた。その直ぐ北に隣接するラジャスタン州では観光が主要産業であるのに比べ、この興味深い西海岸の州では観光客などの外来者がほとんど見られない。そのためか土産商人などが少なく、人々はむしろ人懐っこくフレンドリーである。
アーメダバッド市内には驚くほどソフィスティケートされた要素が多い。州と街の経済的な潤いを反映しているからだろう。レベルの高いサービスと商品を売る店が多く、そのクライアントは主に現地の人々だ。「スワティ・スナックス」というレストランは清潔でモダンなインテリアで現地のお金持ちたちを魅了し、伝統料理をコンテンポラリーなプレゼンテーションで提供している。この店の上階には「360ギャラリー」がスタイリッシュな家具やアクセサリーを展示していて、そのスペースを使ったアート展示会も行われている。アップスケールで上質のブティックもある。「バンデージ」はデザイナーであるインド人女性が経営する伝統とモダンを融合させたファッションが売り物だ。トレンディーなエスプレッソバーが新興市街に点在し、若者や家族で賑わっている。「CGロード」と呼ばれる目抜き通りには世界のブランド商品や高級品を並べている店や、高級レストランが軒を並べている。

それにしてもこの街の公害はもの凄い。インド国内で最も公害がひどいと言われ、アーメダバッドの魅力をそぎ落とす要因となっている。特に大気汚染はインドのみならず、この旅で訪れた場所の中では最悪である。主要工業地帯であることがその原因のひとつ。他の都市圏で発令された三輪タクシーによる灯油の使用禁止法はこの地域ではまだ存在しない。それに加え、夜になると住民はゴミや木材を自由に燃やす習慣があり、その煙が市内に充満する。(酷暑の気候では摂氏15度の気温も寒く感じるらしく、暖を摂るためにたき火をするようだ。)結果として生まれる極度の大気汚染は、街灯の下で濃い霧のようにみえる。風が無い日などは耐え難いほどで、常に交通が発する噴煙のたちこめる街へとリクショーに乗って出かける気にはなれない。
私たちはこのような環境でしばしば咳き込み、深刻な公害に驚きもし、困惑しながらもこの街のベストを見つけようとしている。
2004年11月24日
インドでは眠れない

インドは実に騒がしい国である。デリーで運転手を雇って陸上を駆け回った28日間の旅もあと数日で終わろうとしている。その間、心安らかに眠ったのは数えるほどもなく、さらに写真撮影のため日の出前に起床したことも多かったため、睡眠不足に陥った。インドで静かな時間帯と言えるのはおそらく朝2時から3時間ほどだけだと思われる。別の見方をすれば、インドは生々しい生活のエネルギーに溢れ、混沌とした色鮮やかなバリエーションに満ちていて、さまざまな宗教のミステリアスな儀式が常に行われている、とも言えるのだが、それに慣れない私にとってはたまったものではない。

ご存知のようにインドにはヒンズー教、イスラム教、シーク教、ジャイナ教などのさまざまな宗教が混在している。そしてその寺やモスクやアシュラムには必ずと言って良いほどスピーカーが備わっていて、毎朝早朝から大音量でお祈りやら聖歌やらを流すのである。モスクでの祈祷は毎朝5時から始まり、一日5回の礼拝がある。ヒンズー教やジャイナ教も負けてはいない。早朝から祈祷や信者に馴染み深い音楽を流す。さらに寺院に至る参道の両側には神聖な音楽のCDやDVDを売る店が並び、各店がこれも大音量でプレイバックしている。イスラム教寺院は毎日のスケジュールが決まっているため予想するのは容易だが、ヒンズー教は担当者の気まぐれに頼っているためか全く予測しない時間にヒンズーミュージック番組が開始される。シーク教は常に厳かさを保つものの、聖歌や祈祷の放送は徹底している。

日中は街の雑踏と道路上の喧騒に圧倒される。インドでは車のクラクションが方向指示器や追い越し告知装置としても使われるため、クラクションの音は一日中休むことが無い。特にトラックや公共バスは大音量のメロディアスなクラクションシステムを装備し、オートバイも自動車のそれにアップグレードしているものが多い。
先日お伝えしたディワリ祭りの数日前から、爆竹と花火の炸裂音がこれらの音に加わった。特にあの忌まわしい「アトム・ボム」の強烈な爆発音は驚くほど遠くにまで響き渡る。インドには周囲に眠っている人がいるから静かに話そうというような習慣は全く無い。むしろ、これら全ての騒音にかき消されないようにと声を上げて会話を続ける。遠くから誰かを呼ぶときなどは恥も外聞もなく声を張り上げる。
現地の人々が寝静まる夜中から朝1時ごろにはようやくこれらの騒音は絶え絶えとなり、道路上の交通量もまばらになり、爆竹も花火も納まる時間帯になる。人間たちが静かになると、今度は犬たちが路上を我が物顔に歩き回る時間だ。野犬と飼い犬が混ざり合う中にも縄張りというものがあるらしく、境界を侵した犬とそれを守る犬との間で喧嘩が起こる。直ぐ近くで吠え合う声は、狭い道路の間でエコーがかかり、それが遠くにいる犬たちの耳に達すると、それに反応する遠吠えが街中のあちこちで始まってしまうのである。

宿泊するホテルは「景色のいい窓付きの部屋」を笑顔で勧めてくれる。確かに景色は良いかもしれないが、同時にその部屋は道路に面していて一日中休みなく上記全ての音が間近に聞こえる位置にあるわけだ。そして、今まで体験したことが無かったインドの旅は、床に就いた私の頭脳の内部で予期しない考えやムードをに呼び起こし、いったん思わぬ思考に取り付かれるとその思考は次の思考へと連鎖反応を起こす。そしてその連鎖反応がようやく終わりを迎えるのは近所の寺院やモスクから大音量で聞こえてくる祈祷だったりする。
以上、何とも情けないことながら睡眠不足の不平不満を述べてきたが、もうひとつ私の中では不思議な現象が起こっている。これだけの騒音に悩まされて眠りに就けず、寝床の中で意思に反した連想ゲームを繰り広げている間、私の心のどこかではこんな考えも閃く。「これは一体何なのだ。こんなユニークな体験は初めてだ。そう考えるとちょっと面白い。とても不思議な興味深い音響効果ではないか。これはきっとインドだけで可能なことに違いない!」そして浅く短い眠りに就く前、にんまりと笑ってしまうのだ。
2004年11月18日
ムガルの遺産

インドの北西部を走り回っている。リシケシからウッタル・プラデッシュ州のアグラへ。ラジャスタン州に入ってジャイプル、ビカネール、さらにジョドプルへと向かった。これらの街には15世紀から17世紀に渡って建造されたムガル帝国の遺産が残されている。世界で最も美しい建造物として知られるアグラのタージ・マハール廟。自分の目で見、手で触れた現物からはひんやりとした厳かなエネルギーを感じた。日本の木造建築の他に今まで見てきた歴史的な建物の中では最も圧倒的な美しさを持っていた。

我々が目にするタージ・マハルの写真はどれも正門を抜けた直ぐ後に見える画である。足元から幾何学的なデザインの庭園と噴水が連なって廟本堂の正面に向かって続き、四本の尖塔がそそり立つその中央にムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンの妃ムムターズ・マハールの霊廟が静かな落ち着きを放ちながら、まるで瞑想を続ける高名な尼僧のように座している。タージ・マハルの名は「宮殿の冠」を意味するそうだが、正にその名にふさわしいと言えよう。
日の出の時間に入場したからだろうか、参道の土産店や絵葉書を押し付ける現地人も至って少ない。このユネスコ世界遺産を訪れる観光客はもちろん大勢いるが、タージ・マハル廟が視界に入ると皆沈黙に近い静かな心持になるようで、人数の割には静かに鑑賞することが出来た。

この観光地に足を伸ばして良かったと感じたのは、その静かな環境だけではなく、壮大な建築物に物理的に近づいて絵葉書やポスターでは見ることが出来ないディテールをじっくり見れたことだ。ペルシャ語で書かれた聖なる文字、花や動物のモチーフなどは全てインド各地や中国、チベット、中近東から集められた28種の宝石や鉱石で彩られている。建造の主な素材として使われたのはラジャスタン産の大理石で、全てが文字通り正に虫の入る隙間も無く精巧に組み立てられ、全体的な美しさをかもし出す要因となっている。

ラジャスタンに入るとムガル帝国が残した砦や宮殿の数はさらに多い。城砦は丘陵や小高い山の頂上近くには必ずと言って良いほど建てられていて、その中でも歴史的重要性や美術的な要素で知られるものが観光の対象となっている。そのうち、ジャイプル郊外のアンベール城、ビカネールのジュナガール砦、ジョドプルのメヘラーンガル砦を見回った。巨大な石を切り出して百メートルにも及ぶ高さの城壁を建て、その中に石製の豪華絢爛な宮殿と砦、さらに住居を兼ねた城が迷路のような設計で建てられていた。石工の精巧な技術は、どの砦や宮殿でも目を見張るものがある。ラジャスタンの人々は石を熟知していたようだ。

各城砦には独特の顔がある。中でもジョドプルのメヘラーンガル砦は、今も現地のマハラジャが直々に管理と修復を行っているためかプレゼンテーションがすっきりとしていて味わい深い印象が残った。共通しているのはラジャスタン風の装飾だ。石、土、灰、鉱石、ガラス、そして鏡を使って天井や壁に幾何学模様、花や動物のモチーフを施すこの地方一帯の独特な内装法は、建築だけではなく服装や装飾品などあらゆる分野で使われている。エキゾチックなムードに溢れるインドとペルシャの文化とこの土地と気候にマッチしたの文化のフュージョンである。
ムガル帝国は息をのむような美しさと興味深い逸話を持つモニュメントを残した。私たちはこれらの遺産を通じて当時の人々がポエティックな芸術的才能、驚くべき数学や建築の技術を持っていただけではなく、これら全てを使ってひとつのものに融合する調和の精神と技も持っていたことを知る。これらが現在のイスラム文化を代表するものではないにしても、ムガルの遺産はその過去を通じて 理解に向けて何らかのヒントを授けてくれる。
2004年11月13日
アトム・ボムの夜

11月12日の夜、インド全国は一週間続くディワリ祭のピークを迎え、賑わった。「光の祭り」とも呼ばれるこの祭りは、盆と正月とクリスマスとアメリカの感謝祭が全部一緒にやって来たようなものである。祭りの中心となるのははやり家族だ。実家から離れて働く者や学生たちが帰郷して実家の家族と共に祝う。私たちの運転手、ヤドヴも彼の家でこの祭りを祝うため、私たちも便乗して彼の故郷、ティジャラという街でインドの一家族と数日を過ごす機会を得た。

ディワリには花火や爆竹がつきものだ。祭りが始まる数日前に滞在したアグラやジャイプルの街角では至るところで爆竹が炸裂し、街を見下ろすホテルの屋上からは花火が上がっているのが見えた。これらの爆発物を買う際の制限などは全く無く、誰もがどこででも買え、祭りをひかえたインドの町々では多くの花火商人が店を開いていた。

いろいろある爆竹の中に遊び用とは思えない爆発力と炸裂音を持つものがある。その名も「アトム・ボム(原子爆弾)」。一ダース入りの箱にはその爆発に恐れおののいた男が悲鳴を上げている絵が印刷されている。ヤドヴ一家の近所では、帰省した20歳前後の若者たちが集まり、次から次へとこの大型爆竹を爆破させていた。その一つ一つが爆破する度に一帯の空気は異様な動きを見せる。他の爆竹や花火の音も重なってこの小さな街は市街戦の様相を呈していた。
その爆破現場のすぐ傍をたまたま歩いていたことがあった。その爆発力は私の服を翻し、髪や顔の皮をも一瞬揺るがせる威力を持っていて、耳鳴りは丸二日止むことが無かった。若者の一人が笑いながら話し掛けてきた。「アトム・ボムって言うんだ。凄いだろう?広島や長崎みたいにドカーン!ってね。」彼らは私が日本人であることを知っていたわけでもなく、また私を意図的に侮辱しようとしたわけでもない。若者たちはあくまでも無邪気に祭りを楽しんでいただけなのだ。

あの若者たちにとっては楽しいことなのかも知れないが、日本人の私にとって彼らの言葉は少々異なる印象を残す。私にはその異常にパワフルな「おもちゃ」を楽しいモノだとは思えず、第一どんな製品にそんな名前を付けて売るといくコンセプトが理解できない。最も、インド人は何かにつけて「インドでは全てが可能なのです」と言うのだが。そして本物の原子爆弾によって破壊された二つの都市に対する若者たちの無神経さにも畏怖を感じる。これがパキスタンと核兵器を競う仲にあるインドで若い世代が持つ原子爆弾についての認識なのだ。
インドの小さな街で体験した光の祭りは、インドの農家やごく普通の家庭生活を垣間見た貴重な体験だった。と同時に、この世界的な傾向の今と未来を考えさせられるものだった。「アトム・ボム」の爆発が夜遅くまで鳴り響く中、頭の中では連想が連想を生み私は早朝まで眠ることが出来なかった。
2004年11月07日
ガンガに浸かる

ガンジス川、現地の名はガンガ。ヒンズー教徒にとってこの川は聖なる川または水であり、インドそのものの母であり、存在の源である。ガンガが流れる聖地としてはインド北部のベナレスが広く知られていて、多くの観光客や旅人たちがこの国を代表する文化や風習を見ようと集まる街らしい。残念ながら私たちのインド滞在予定にはベナレスを組み込むことが出来なかったが、ウッタランチャル州にある二つの街でこの川と人々が織りなすスピリチュアルな光景に接することが出来た。共に観光客が比較的少ない街である。
ハリドワルはガンガがちょうどヒマラヤ山脈からデリーを擁する大平野へと流れ出す地点にあり、数あるインドの聖地の中でも最も重要だとされる。また、ハリドワルは宗教的な祭りの中でも世界最大と言われ12年に一度行われるクンブー・メラのサイトでもある。インド国内外からの巡礼者も後を絶たない。街そのものはそれ程大きなものではなく、インドでは比較的静かな所だ。ガンガの水は澄んでいて、ドキュメンタリーなどで観たベナレスの水に比べて清潔さでは格段の差があるようだ。

この街の大きなガート(沐浴場)で人々は聖なる流れと神々に祈るだけでなく、ありとあらゆる日常生活そのものを営んでいる。私たちの通常の生活では常に家の中や壁の向こうで行われている行為、特に水を必要とする仕事がこのガートでは公然と、しかも全てが同時進行で繰り広げられていた。この場所で人々が表現する感情にも喜怒哀楽の全てが同時に見て取れた。その光景は驚きであり神秘的であるとともに、ユーモア一杯でもありサイケデリックでもある。(逆に、日本人や西洋人にも共通の「日常」は、それを全部同時にさらけ出してしまえば驚きとなり得るものなのだ、とも言えはしないか。)

ハリドワルの北東約25キロにはリシケシがある。今日ヨガや瞑想の中心地であるこの小さな街は、1960年代にビートルズが彼ら(特にジョージ・ハリソン)のグル、マハリシ・マヘシュ・ヨギを慕って訪れた場所として世界的に知られることとなった。熱心なヒンズー教徒にとっては、ヒマラヤ山中にある巡礼地へ向かう拠点となる。インド北西部は11月でも暑さを感じるのに比べ、ガンガに臨む谷に位置するこの街では毎日夕方から朝にかけてヒマラヤからの強風が吹き、夜はかなりの寒さを感じた。
夕日が沈む頃には花、お香とロウソクを聖なるガンガに流して祈る人々で川縁が賑わう。この儀式は「ガンガ・アールティ」と呼ばれ、リシケシュだけではなく、ハリドワラはもちろんインド各地の聖地で行われるものだ。川の流れ、鐘の音、人々の祈り、川岸で奏でられる音楽が聞こえる中で、巡礼者たちが油に灯を点して念願だった祈願を唱えるのを私たちは無言で見つめていた。

ある友人がここに来るのを勧めてくれたこと、中国の昆明で出会ったトラベラーが「ベナレスには行かなくてもリシケシはインドへ行く度に必ず訪れることにしている」と言ったことの理由が分かるような気がする。リシケシでの二日目、自分たちもガンガの水で身を清めようと散歩に出かけた。渓谷に架けられた吊り橋を両岸にあるアシュラムを見ながら渡り、川の上流に向かって少しばかり歩くと大きな岩の合間に砂浜が点々とある場所が見つかった。下流では広くゆったりと流れるこの川も、ここではまだ渓流である。谷間のガンガは恐ろしく深く、流れは速く、そして水は冷たい。川から上がった後、稚拙ながら気功をやってみた。強く乾いた日差しの中にもかかわらず、ガンガの清い流れのすぐ傍で感じたエネルギーは静かで冷ややかな清浄力に満ちたものだった。ふと見ると数人の旅行者たちもそれぞれのやり方で瞑想に耽っていた。
ヒンズー教徒ではない人々までが惹かれるこの地もある程度の騒音は免れないが、カオス的なインド各地の街にはない精神的な静けさがある。ヨガや瞑想を学ぶもよし、川岸で日光浴をするもよし、旅の疲れを癒すもよし。目的が何であろうと、ここにはヒマラヤの麓を流れるガンガが人々を招いているような気がする。
2004年11月04日
黄金の夜明け

夜明けの太陽が黄金の寺院を輝かせている。寺院の核を成すハリ・マンディル・サヒーブがアムリト・サロバール(「神酒の池」)と呼ばれるほぼ正方形の池の中央に浮かび、その荘厳な姿が水面に映えて揺らめく。ここプンジャブ州のアムリトサル(池の名前から名付けられた)にある黄金の寺院は、インド国内だけでも1,800万人いると言われるシーク教徒にとって最大の聖地として世界に知られている。(ちなみに1919年に大英帝国軍の兵士たちが約2,000人ものインド人を射殺し負傷させたジャリアンワラ・バグという広場は、皮肉にもこの静かな進行の場からわずか150メートルほどの所にある。)その門をくぐる前にはターバンやバンダナ、またはショールで頭を覆うことが例外なく義務づけられる。そして寺院に参拝するために靴を脱ぎ足を洗って身を清める。煙草や酒、革製品の持ち込みは絶対に許されない。

夜明け前、寺院の門に近づくと、聖歌とインド風のパーカッションが涼やかで新鮮な朝の空気に共鳴しているのが聞こえてくる。早朝の大理石の冷たさを感じながら入口を抜けると、日の出前のハリ・マンディル・サヒーブが見えた。信者たちは池を隔てた大理石の上で跪き、シーク教の聖なる書であるグル・グランス・サヒーブが祀られる建物に祈りを捧げる。

ここを訪れる人々は入口から入ると時計回りに池の周囲にあるパルカルマと呼ばれる歩道を歩く。水辺はそのままガート(沐浴場)となっており、人々は肩まで水に浸かって祈りを捧げる。若い男たちはターバンではなく、ヘアバンドで頭を覆いながら若者らしいファッションを着ているから、一見ヒップホップ系。女性の多くはサリーをまとっていた。水辺に座って瞑想する人、建物の影に集まって静かに会話をする者、聖水を飲んで満足げな巡礼者たち、写生をする西洋人の旅行者。パルカルマを単に歩くだけではなく、人々は純粋にこの場所に心の平和を求め、それぞれのやり方で求めるものを見いだしていた。そして人々の耳には絶えずメロディーを伴った聖なる書の言葉が、ハルモニアやタブラの伴奏と共に響いている。
そんな光景を眺めていると、朝日が差し入ってきた。大理石が黄色、オレンジ色、ピンクに染まって寺院内のムードに活気が生まれる。その中心にはやはり圧倒的な存在感を持つ黄金の建物があって、視界から離れることはない。
黄金と言っても実際に金が使われているのはハリ・マンディルの屋根にあるドームのみでそれ以外は真鍮なのだそうだ。それでもそのアラビア風の外観と、「グルの橋」を渡って傍に近づくと見えてくる繊細なディテールの素晴らしさには変わりはない。ハリ・マンディルの内部では常に四人の高僧たちが聖なる書を読み、人々に祝福を与えている。一階の中央の床には高僧の一人を囲んで音楽家たちが休むことなく演奏を続け、信者はそれにうっとりと耳を傾けながらゆったりとくつろいでいた。

シーク教はヒンズー教の一派だが、意図的に多くのイスラム教要素を取り入れた一神教であり、かつ偶像崇拝を拒む。従ってシーク教最高峰の10人のグルが描かれた絵以外、神々の像はこの寺院には見当たらない。寺院内の清掃が整っていることや建築の全てが大理石であることで神聖な印象がさらに高まる。門の直ぐ外に広がる埃だらけの街と混乱に満ちた雑踏とは対照的で、シーク教とではない私たちをも敬虔で平和な気持ちにさせる説得力があった。朝日が高く昇り、私たちがアムリトサルを発つ時間となった。次の訪問地へと向かうことがなければ私たちは丸一日その場にいたかも知れないと思うほど、この寺院には穏やかで安らかな気持ちになれるエネルギーが満ちていた。
2004年10月30日
ハウスボートにて

カシミールに来てしまった。四季折々の自然と文化に恵まれるこの地域は、かつては「インドの冠」と呼ばれ、その美しさと軍事的な位置ゆえに紛争の舞台となってきた悲劇のヒロインのような所である。そんなカシミールに憧れてはいたが、実際にこの地へ足を踏み入れることは全く予期していなかった。それがある偶然でここジャムー・カシミール州の首都、スリナガルのダル湖に浮かぶハウスボートで滞在することになったのだ。

ダル湖上でホテルとして機能するハウスボート(略して「HB」)は約2,500隻あると言われている。各HBは現地のハウスボート協会によって施設、サービスなどの観点からデラックス、A、B、Cの四段階にランクされている。私たちが宿泊しているHBは「HB Mantana」という名のデラックス級で外観、内装、サービス共に至れり尽くせり。私たちの部屋は今年6月に滞在したベルリンのアパート以来の豪華版である。

面白いのはこれらHBの名前で、もっともなものから笑えるものまでバラエティーに富んでいる。「Crown of India(インドの冠)」や「Heaven of Kashmir(カシミールの天国)」は当然のネーミングだ。「Sunflower(ひまわり)」や「Morning Glory(アサガオ)」などの花の名前。世界各国の地名も頻繁に使われる。やはりイギリスやオーストラリアなどからの訪問客が多いのだろうか、「Buckingham Palace(バッキンガム宮殿)」、「New Australia(ニュー・オーストラリア)、「New Sydney(ニュー・シドニー)」などもあるが、よく知られてはいてもこの土地には似つかない「Hollywood(ハリウッド)」、「Chicago(シカゴ)」、「Bangkok(バンコック)」、果ては「Texas(テキサス)」まである。同系列の名も笑える。「Mona Lisa(モナリサ)」とその姉妹店の「Young Mona Lisa(若いモナリサ)」があったり、幅広く経営されているものとしては「Dawn(夜明け)」、「New Dawn(新たな夜明け)」、「Happy Dawn(幸せな夜明け)」、「Lucky Dawn(ラッキーな夜明け)」。「Apollo Eight(アポロ8号)」と「Neil Armstrong(ニール・アームストロング)」のコンビは実に楽しい。日本のラブホテルの名前のようだと言えばそうかも知れない。
ダル湖はそれ程深くはなく、冬と悪天候以外は強風が吹かないため、湖面は大変なめらかで鏡のようだ。HBからシカーラでスリナガルを囲む山々の景観が水面に映えるのを見たり、湖上の船や島に住む人々の生活を垣間見たりするのもこの土地の文化と生活を知る楽しみのひとつだろう。

カシミールの観光シーズンは夏だが、モーターボートや水上スキーもいない秋深まる静かなダル湖とスリナガルを、私たちはHBとシカーラでゆったりと味わった。寒い夜が明け太陽が湖面に当たる頃、水面や霜が降りた畑から湯気が立ち上ってミステリアスな雰囲気を演出する。ここ数年のような安定した情勢下であれば、誰もがユニークな体験を望める場所だと思う。
2004年10月26日
インドへ

「デリーは酷い所だ。」これまでの旅の間に出会ったトラベラーたちから何度もそう聞かされていた。インドへの旅立ちが近づくにつれ、私たちの間には緊張感が漂い始めた。そして今デリーに居るわけなのだが、実際に来てみるとそれ程酷い所だとは思えないのである。デリーは今まで訪れた街とは確実に異なっているけれど、多々ある相違点は必ずしもネガティブではない。
デリーでの最初の数日間宿泊する予定のゲストハウスはバンコックのインターネットカフェから予約した。アメリカに住むインド人の友人や同僚たちのアドバイスを考慮して、空港からゲストハウスまでの送迎車も予約しておいた。早朝6時の到着だったにもかかわらず、私たちは問題なくチェックインして仮眠を摂ることが出来た。もっとも、このゲストハウスは監獄のような3メートル四方足らずの部屋で、窓はなく、バストイレも機能していなかった。とても満足できるものではなかったため、翌日早々に宿を換えることにした。

午後から夜にかけて私たちはそのゲストハウスがあるコナウト・プレイス(セントラルパーク)周辺を歩き回った。市内でもよく知られる円状のショッピング街だ。歩いているだけで実に多くの人々が声をかけてくる。そのほとんどは私たちに何かを買わせたい人たちなのだが、今のところ「ノー」と言い続ければ問題なく立ち去ってくれる。物乞いについても同じだ。「信用できる旅行会社」を紹介してあげようと言い寄ってくる英語が上手い若者たちも同様。モンゴルや中国ではもっと手を焼いたのを思い出したほどだ。

食事については、これも中国で会得したルールを応用してレストランを選べばそれ程悪いことにはならないだろう。つまり比較的清潔で、照明が明るく、多くの人々が食事していて、しかも予算に見合うような所だ。コナウト・プレイスや二軒目のホテルがあるパハルガンジ一帯を少し歩くとそのようなレストランは案外簡単に見つかった。私たちは早速シリコンバレーでも頻繁に食べる「インド人のためのインド料理」を味わった。
もしアメリカから直接ここに来たのなら、私たちはこの街に圧倒されて第一印象ももっと違ったものだったかも知れない。それとも、多くのインド人が住むシリコンバレーである程度の予備知識を得ていたのだろうか。バックパッカーではない私たちが、出来るだけの準備を整えたからだろうか。特に空港での出迎えを予約したのは正解だった。ともかく、私たちは意外にもすんなりデリーに入り込めたと言えるだろう。

同時にインドがそれだけの国ではないことは明白だ。私たちの目が飛び出て開いた口が塞がらない経験が待ち受けているはずなのだ。オールド・デリーの赤い砦周辺に広がる商店街を歩いただけでもそれは確認できた。デリーはそんな経験に満ちた三ヶ月の出発点なのである。
